狼のように吠えつづけたブルース・ミュージシャン、ハウリン・ウルフの生涯

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ハウリン・ウルフことチェスター・アーサー・バーネットは1910年6月10日にミシシッピ州北西部のデルタ地帯に生まれた。一時は140キロ近い巨体だったというこの力強い男は、チャーリー・パットンにギターの手ほどきを受け、サニー・ボーイ・ウィリアムソン(ことライス・ミラー)からハーモニカを学んでいる。ただし、彼が注目を集めたのは、そうした楽器の演奏者としてではなく、強烈な歌唱を聴かせる歌い手としてだった。

農業で生計を立てながらパフォーマーとしての活動を続けていたウルフが、アイク・ターナーを介してサム・フィリップスと知り合い、フィリップスのサン・スタジオで初めてレコーディングを行ったとき、既に40歳を超えていた。そして1951年、フィリップスがチェス・レコードにライセンスした「Moanin’ at Midnight」はヒットを記録した。

ハウリン・ウルフは1950年代に、この曲のほか「Smokestack Lightning」を含む3曲を全米R&Bチャートに送り込み、1960年6月にはオーティス・スパン(ピアノ)、ヒューバート・サムリン(ギター)、フレディ・ロビンソン(ギター)、ウィリー・ディクソン(ベース)、フレッド・ビロー(ドラムズ)という布陣をバックに「Spoonful 」をレコーディングする。これはシカゴ・ブルースを代表するソングライターでもあるウィリー・ディクソンの作品で、チャーリー・パットンの楽曲と、それに先立って発表されたパパ・チャーリー・ジャクソンの楽曲を下敷きにしている。

1960年代に入ると、「Spoonful」がクリームのデビュー・アルバム『Fresh Cream』(1969年)でカヴァーされ、「Evil」がR&Bチャートでトップ50ヒットを記録した。しかしながらそうしたチャート上の成績より遥かに印象的だったのは、ブルース・ミュージシャンを目指す若いアーティストに対するウルフの多大な影響力だった。ザ・ローリング・ストーンズも、ハウリン・ウルフの影響下にあったグループの一つで、彼らはウルフの「Little Red Rooster」を取り上げ、英チャート首位のヒットに仕立てている。

1971年にはイギリス録音の『The London Howlin‘ Wolf Sessions』がリリースされるが。同作のレコーディングのためにロンドンを訪れたころ、既にハウリン・ウルフは心臓に問題を抱えていた。そして1971年の交通事故以降、その健康状態は次第に悪化していく。そして1976年、ブルースというジャンルに決して消えることのない影響を残し、ハウリン・ウルフはこの世を去っている。


ハウリング・ウルフ『The London Howlin‘ Wolf Sessions』




 

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