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ビースティ・ボーイズのファッション変遷:写真で振り返る服装の変化

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Photo: EMI Music Ltd

2018年に発売されたビースティ・ボーイズの回顧録『Beastie Boys Book』には、元『VOGUE』編集長のファッション・ジャーナリストとアダム・”アドロック”・ホロヴィッツとの対談が収められている。そのファッション・ジャーナリストは、ビースティーズの写真を見ながら言葉にならない声を上げて顔をしかめていた。

とはいえビースティ・ボーイズは1990年代にファッション・アイコンという立場になり、自分たちのファッション・ブランド (X-Large) を立ち上げ、そのブランドはRun-DMCにとってのアディダスのように、彼らの代名詞となった。1990年代に流行した1970年代レトロ・ブームを独力で引き起こしたのは、まさしく彼らだったのだ。

この記事の中で紹介するビースティ・ボーイズの写真を見ていくと、ファッションに無頓着だったハードコア・パンクスが「大人」の大物ミュージシャンに変身していく歴史を辿ることができる。

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ハードコア・パンクスだった初期

(写真左から) ドラマーのケイト・シェレンバック、アダム・”MCA”・ヤウク、ギタリストのジョン・ベリー、マイケル・”マイク・D”・ダイアモンド Photo courtesy of Beastie Boys

現在は男性ばかりのヒップホップ・トリオとして知られるビースティ・ボーイズだが、当初は女性ドラマーのケイト・シェレンバッハを含む4人組のハードコア・パンク・グループだった。1982年にリリースされたEP『Polly Wog Stew』の裏ジャケットの写真では、彼らはローワー・イースト・サイドのパンクスのように見えた。

シングル「Girls」の表ジャケットのビースティ・ボーイズ。Photo courtesy of Beastie Boys

ドラマーが脱退したあと、3人組になったビースティーズは、ヒップホップ・カルチャーとフラットボーイ・カルチャーの発信者となり、地球上で最も勢いのあるヒップホップ・グループという地位を確立した。

マイク・Dがフォルクスワーゲンのチェーンを皮肉っぽく身につけて大きな話題になった結果、メーカー側も独自で広告キャンペーンを行うことになり、その広告の中ではビースティーズが人気者になったせいでバッジの盗難が相次いでいると明言されていた。そのキャッチコピー「デザイナーのラベルは、必ず引き剥がされてしまう」には間違いなく皮肉が込められていた。

1970年代のメチャクチャなヤバい山」

アルバム『Paul’s Boutique』のレコーディングのためにロサンゼルスに移り住んだことで、この街の明るく輝く太陽、米西海岸のライフスタイル、そして広々とした開放感がグループの中に定着したようだった。アドロックはこう振り返る。

「メンバー全員が定職についていなかったから、大事なことに集中できたんだ。マリファナとか、軽い食事とか、ミックステープとか、ナイトクラブとか、それから……そう、新曲作りとか」

下記MCAの写真には、当時の彼らの前に明るい未来が待ち受けていたことが完璧に表現されている。

Photo courtesy of Beastie Boys

マルホランド・ドライブに家を借りていたビースティ・ボーイズは、家主の妻であるマディリン・グラスホフが所有していた古着の山を発見した。アドロックは回顧録『Beastie Boys Book』でこう書いている。

「1970年代のメチャクチャなヤバのが山積みになってたんだ。たとえば、スライ&ザ・ファミリー・ストーンが1972年のツアー”There’s A Riot Goin’ On”で着てたやつはすげえ良かったよなとか言っていたら、そういうのが見つかって“クソやべえ!!!”って。だから、当たり前のことだけど、そういったマディリンの服を家の中で着始めて……そういうことが増えていって……やがて外で着るようになったんだ。街の中でもね」

下の写真のマイク・Dは、グラスホフ夫人が所有していた服の中でも控えめなものを着用している。

Photo courtesy of Beastie Boys

 

G-Sonスタジオとビ―スティ

マイク・Dが『Beastie Boys Book』の中で回想しているように、彼らは「“Paul’s Boutique”でサンプルをベースにした曲を限界まで追求していた」と感じており、その後、ロサンゼルスのアトウォーター・ビレッジで自分たちが自由に使えるスタジオを見つけ、自分たちの機材を据え付けてアルバム『Check Your Head』のレコーディングを始めた。そのアルバムは、「せっせと買い込んでいたソウル、ファンク、ジャズのレコードにめちゃくちゃインスパイアされた」作品だった。

そのG-Sonスタジオは1990年代の大部分でビースティ・ボーイズの活動拠点となった。そこは単なるレコーディング・スタジオだけにとどまらず、まもなくこのグループのレコード・レーベルや雑誌出版事業の本拠地にもなった。下記はその時の写真の一部だ。

Photo courtesy of Beastie Boys

Photo courtesy of Beastie Boys

Photo courtesy of Beastie Boys

またG-Sonは、彼らのレコーディングにマーク・ラモス・ニシタ (別名マニー・マーク) が参加し始めた場所でもある。マニー・マークは非常に才能あるキーボード奏者であり、ウーリッツァー、オルガン、モーグ、クラビネットの演奏で卓越した技術を披露している。彼はビースティーズの活動に長くにわたって参加し続けている。

Photo courtesy of Beastie Boys

G-Sonの設備を整える作業には多大なる労力が費やされた。「独立したコントロール・ルームを作るため、隣接する2つのクローゼットを解体してひとつの空間にすることにした」とマイク・Dは振り返る。

「そこをコントロール・ルームに改装して、さらにメイン・ルームの設備もきちんと整える必要があった。『メイン・ルームの設備をきちんと整える』ということは、つまりスケート用のスロープを作り、バスケット・ボールのゴールを設置するということだ」

このスタジオでは、有名なMC、ビズ・マーキー、Q-Tip、ジャングル・ブラザーズのアフリカー・ベイビー・バムも、ビースティ・ボーイズと一緒にバスケをやったことがある。

Photo: EMI Music Ltd

東京での撮影

ビースティ・ボーイズが建設作業員の衣装を身にまとい、駅構内で動き回ると、踊るロボットとタコ頭の怪物が東京の繁華街を大混乱に陥れる。それが「Intergalactic」のミュージック・ビデオだった。これは1999年のMTVビデオ・ミュージック・アワードの最優秀ヒップホップ・ビデオ賞を受賞している。

「『Hello Nasty』は俺たちのベスト・レコードだ」とアドロックは『Beastie Boys Book』で宣言し、その理由を列挙しているうち3つ目の理由はこうだ。

「このアルバムには“Intergalactic”という曲が収録されていて、それがもうムチャクチャ最高なんだ。だろ?」

Beastie Boys – Intergalactic

 

ジャズ・ミュージシャンのようなファッション

「もしバンドで全曲インストゥルメンタルのレコードを録音するなら、ジャズ・ミュージシャンのように、それにふさわしい服装をしなければいけない」

とアドロックは言う。それまでのスタイルから一転して、『The Mix-Up』時代のビースティ・ボーイズはスーツとブーツに身を包み、1954年から56年当時の服を着ていた。

Photo: Vanya Edwards

この厳格なドレス・コードはツアーにまで当てはめられた。そのルールの中には、「ドレス・シャツ、またはボタンダウンを着用しなければならない」、あるいは「何らかのクリップ・オン・ネクタイやサッシュやネック・スカーフを着用しなければならない」といった項目も含まれていた。

Photo courtesy of Beastie Boys

「自分たちが大人に成長したような感じに見えた」

2011年にリリースされたグループ最後のアルバム『Hot Sauce Committee Part Two』のころには、ビースティ・ボーイズはヒップホップ界の大物になっていた。各メンバーの妻や子供たちもツアーに同行し、サンティゴールドやプロデューサーのスイッチといった若手アーティストがアルバムにゲスト出演。さらには、ミュージック・ビデオの中で『Licensed To Ill』時代の自分たちを真似ることで、かつて他のアーティストたちを茶化していた自分たち自身を茶化していた。マイク・Dはこう書いている。

「あれは、自分たちが大人に成長したような感じにほとんど見えた。”ほとんど”だけど」

とはいえ、根本的な部分は決して変わることはなかった。ビースティ・ボーイズは、創作意欲や実験感覚、他のメンバーに対する最大級の忠誠心を失うことはなかったのである。アドロックは『Beastie Boys Book』の中でこう書いている。

「俺の考えでは、ビースティ・ボーイズがこんなに長く続いて、バンド活動をこんなに楽しくやれたのは、ヤウクとマイクが家族同然で、いつも顔が見たくなる奴らだからだ。あいつらは、大好きで頼れる俺の兄弟ふたりだ……そしてつまるところ、この3人は互いに刺激しあう仲間だった。お互いに刺激し合って、何かどでかいことをやってやろうという気になったんだ」

Photo: Phil Andelman

Written By Jason Draper



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