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今年で生誕100周年:ピアソラが貫いたタンゴのモダン化とブエノスアイレスへのこだわり

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2021年3月11日に生誕100周年を迎える“タンゴの改革者”と呼ばれ、作曲家でありバンドネオン奏者のアストル・ピアソラ(Astor Piazzolla)。これを記念してベスト盤と7作品のレア盤の発売が決定しました(購入はこちら)。

そんなアストル・ピアソラについて、日本のピアソラ研究の第一人者であり、『ピアソラ自身を語る』(河出書房新社・2006年)の翻訳も担当した斎藤充正さんによる解説を掲載します。

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19世紀の終わり近く、南米アルゼンチンの首都ブエノスアイレスの場末で、ギターやフルートやヴァイオリンが陽気に奏でるリズミカルな調べに乗せて、男女が身体を密着させて踊る世界初の文化が生まれた。タンゴの始まりである。激動の20世紀を迎える頃、船乗りがドイツから運んで来た魔法の箱のような蛇腹楽器、バンドネオンがタンゴに用いられるようになり、その深くて重い響きがタンゴの音楽としての性格そのものを変えていく。

2021年3月11日に生誕100年を迎えるアストル・ピアソラ。彼が生まれ育った1920年代というのは、それまで戯れ歌のように口ずさまれる程度だったタンゴの歌の分野に登場した巨星カルロス・ガルデルが“女に振られた男の恨み節”に代表される歌の世界を築き上げ、「タンゴもまた音楽である」と宣言して器楽演奏に編曲の概念を持ち込んだフリオ・デ・カロ楽団の採用した編成が以後のタンゴ界の標準となり(ピアソラの「デカリシモ」は彼に捧げられた作品だ)、一旗あげようとパリに乗り込んだフランシスコ・カナロらによってタンゴはヨーロッパから世界に(水で薄められながら)広まっていく、そんな時代だった。

だが、ブエノスアイレスから南に400km下ったマル・デル・プラタの生まれながら、物心付いたアストル少年が育ったのは、故国から遠く離れたニューヨーク。タンゴ文化とは無縁の土地だったから、タンゴ好きの父ビセンテ(愛称ノニーノ)が仕事から帰って掛けるレコードにアストルが馴染めなかったとしても無理はない。それでも、8歳の誕生日(異説あり)に中古のバンドネオンを父親からプレゼントされ、映画撮影のためニューヨーク入りしていた前述のガルデルとの運命的な出会いも果たすなど、タンゴとは微妙に繋がっていたのだが、アストルが強く惹かれていたのは、キャブ・キャロウェイのようなジャズやバッハなどのクラシックの方で、ラジオで披露したのは主にフォルクローレ(民謡)だった。そんな彼が初めてタンゴが自分に必要だと感じたのは、故郷のマル・デル・プラタに帰り、偶然ラジオから流れてきたエルビーノ・バルダーロ楽団(先鋭的過ぎてレコードを出せなかった)の演奏を聴いた時のこと。既に17歳になっていた。

18歳でタンゴの本場ブエノスアイレスに出たピアソラは、やがて当時破竹の勢いだったアニバル・トロイロ楽団(デ・カロ時代に築かれたバンドネオン×2、ヴァイオリン×2、ピアノ、コントラバスという編成が、この頃にはバンドネオンとヴァイオリンの数が倍前後まで拡大され、ヴィオラやチェロなどが加わることもあった。専属歌手通常2名も付いたこのような編成をオルケスタ・ティピカ=標準的楽団と言う)のバンドネオン隊の末席に加わる。ピアソラがトロイロの下でタンゴのエッセンスを体得した1940年代こそはタンゴの黄金時代。音楽的にデ・カロ〜バルダーロからの流れを直接汲むトロイロは、その中でも象徴的存在だった。第二次世界大戦にアルゼンチンは参戦せず、食料の輸出などで外貨を蓄えて街中が好景気。あちこちのキャバレーやダンスホールにオルケスタ・ティピカが溢れ、人々はタンゴに熱狂した。ピアソラはそんな狂乱の中に身を置きながら、封鎖的な業界に息苦しさを覚え、またタンゴの音楽としての限界を早くも感じたりしていた。そんなこともあり、当時のクラシック界で新進気鋭の作曲家アルベルト・ヒナステーラに学び、習作的なクラシック作品を書き貯めていく。

歌手フィオレンティーノの伴奏楽団指揮者を経て、1946年には遂に自分のオルケスタ・ティピカを率いるに至ったが、自作曲を発表する機会はまだほとんどなかった。従来のタンゴの枠内で主に既成の作品に対して精一杯の実験を試みたものの、広い支持は得られないままに楽団は解散。1950年代前半は裏方的な仕事をこなしながらクラシックの作曲家としての成功を夢見ていた。実は後述の「勝利」(1952年)をはじめ、この時期に作曲と編曲を手掛け、他の楽団に提供するようになった一連のタンゴ作品の方にこそ、ピアソラならではの革新性が表れ始めていたのだが、当の本人はそのことにまったく自覚的ではなかった。

1954年に奨学金を得てパリに留学したピアソラは、高名な音楽教師ナディア・ブーランジェの門を叩く。それまでに書き貯めたクラシック作品のすべてに目を通したブーランジェは、「よく書けているけど、個性がない」と評した。ピアソラは、タンゴ音楽家としての経歴を“恥ずべきもの”として隠していたのだ。真相を知ったブーランジェは「タンゴを1曲」と所望する。ピアソラがしぶしぶピアノで弾いた自作の「勝利」を聴いたブーランジェが放った「それこそピアソラの音楽じゃないの。あなたはそれを捨ててはいけないわ」との一言が、ピアソラの人生最大の啓示となった。その後パリでは一気に書き上げた自作のタンゴを中心に、弦楽オーケストラ編成での録音も経験している。

帰国後の1955年から、“踊るためではなく聴くためのタンゴ”を標榜したピアソラのタンゴ革命が始まる(タンゴがブエノスアイレスの大衆音楽のトップの座をロックンロールに始まる外来音楽に譲っていくのもこの頃から)。タンゴに初めてエレキ・ギターを導入したブエノスアイレス八重奏団は、タンゴ史上最も過激なアンサンブルだったが、保守層からは「タンゴ殺し!」と強烈な反発を喰らった。理解者は少なく、失意のピアソラは1958年、新天地を求めてニューヨークに渡るが、思うような活動は出来ず、そこでのジャズ=タンゴの実験も失敗に終わった。一方でプエルトリコ巡業中の1959年、最愛の父の訃報が届き、ニューヨークに戻って書いた追悼曲「アディオス・ノニーノ」が終生の代表作となった。

Astor Piazzolla – Adiós Nonino

ピアソラの真価が発揮されるようになるのは帰国後の1960年、ニューヨークでの苦い経験を踏まえ、シンプルで自由度の高いキンテート(五重奏団)を結成してからだ。バンドネオン、ヴァイオリン、ピアノ、エレキ・ギター、コントラバスというその編成は、晩年に至るまでピアソラの音楽表現のベースとなる。以後も折に触れて大編成への意欲も持ち続けたが、ほとんどの場合、あくまでも五重奏から膨らませていく形を採っていた。

『ニューヨークのアストル・ピアソラ』

全曲が自作のインスト曲で構成された傑作『ニューヨークのアストル・ピアソラ』をリリースした1965年以降、特別な機会を除いて自作以外は演奏しなくなったが、これはタンゴ界では異例のことだった。実は1966年前後の一時期、女性問題に端を発するスランプで曲がほとんど書けなくなっていたのだが、それを救ったのが詩人で評論家のオラシオ・フェレールで、共に作り上げた小オペラ『ブエノスアイレスのマリア』は金字塔となった。そのように波はありつつ、押しなべて見れば1960年代から1970年代初頭までがピアソラの作曲家としての黄金時代だった。この時期は優秀なメンバーにも恵まれ、その演奏活動も充実していたが、支持層はインテリや学生が中心で、活動範囲はブエノスアイレスとその周辺、せいぜいブラジルあたりまでにほぼ限定されていたから、ピアソラはタンゴの外側から見れば知る人ぞ知るといった存在でしかなかった。今日の世界的な評価の足掛かりをつかむのは、1974年のヨーロッパ移住(当初はローマ、1976年からパリ)以後のことである。

Astor Piazzolla – Libertango

アルバム『リベルタンゴ』を皮切りに、1970年代中期にピアソラが試みたエレクトリックなジャズ/ロック志向のサウンドはピアソラらしくないとの批判を浴び、自身も後に「失敗だった」と総括しているが、この時期の活動があったからこそ世界中の幅広いジャンルの音楽家たち(例えばジェリー・マリガン)や映画人たち(例えばジャンヌ・モロー)がピアソラという音楽家の存在とその重要性を認識するようになったのも事実である。そして1978年、ピアソラは新しいメンバーたちとキンテートを再結成。1980年代には、世界を股にかけた精力的な演奏活動で多くの音楽ファンを熱狂させたのだった。1988年、4度目で最後となったミルバとの来日公演の後キンテートは解散、ピアソラは心臓手術を受けた。翌年のセステート(六重奏団)での活動は長続きせず、1990年8月にパリで脳梗塞で倒れ、闘病生活の後、1992年7月4日に71歳の生涯を閉じた。

保守的なタンゴ層との論争に闘志を燃やしながら、タンゴを前進させることに生涯をかけたピアソラだが、それもタンゴとそれを育んできたブエノスアイレスへの愛情あってのこと。豊かなタンゴ文化を形成してきた先達たちへのリスペクトも忘れてはいない。一方でニューヨーク育ちという“外からの視点”も併せ持ったその結果、クラシックやジャズなどの要素を大胆に織り混ぜて自分色に染め上げたピアソラの音楽は、ブエノスアイレス・ローカルの言語だったタンゴを、世界の聴衆に感動とともに伝えていく翻訳装置として機能した。そこで重要なのは、新しい要素を加えながらも、自分の音楽はあくまでもタンゴであり、タンゴとはブエノスアイレスの音楽であるという前提を崩さずに進もうとしたことである。ニューヨークでのジャズ=タンゴや、ヨーロッパでのエレクトリック・サウンドへの反省は、そこから逸脱してしまったと自ら判断したことの現われだろうが、どちらもピアソラにしか作り得なかった音楽だったことは確かだし、特に後者は前述の通り、活動の波及効果から見ても決して無駄なことではなかったことは、改めて確認しておきたい。

Written by 斎藤充正

Tango Diablo (Instrumental)

アストル・ピアソラ『リベルタンゴ~ピアソラ・フォーエヴァー』
2021年3月3日発売
CD予約はこちら

収録曲:
1. アディオス・ノニーノ/ダニエル・ビネッリ(バンドネオン)、モントリオール交響楽団、指揮:シャルル・デュトワ
2. リベルタンゴ(ルイス・バカロフ編)/エクトル・ウリセス・パサレジャ(バンドネオン)、ルイス・バカロフ(ピアノ)、サンタ・チェチーリア国立アカデミー管弦楽団、指揮:チョン・ミュンフン
3.  天使のミロンガ/ダニエル・ビネッリ(バンドネオン)、モントリオール交響楽団、指揮:シャルル・デュトワ
4. ブエノスアイレスの四季 – I. ブエノスアイレスの秋(アグスティン・カルレバーロ編)/イョラン・セルシェル(ギター)
5. タンゴの歴史 – I. 酒場 1900/パトリック・ガロワ(フルート)、イョラン・セルシェル(ギター )
6. タンゴの歴史 – II. カフェ1930/パトリック・ガロワ(フルート)、イョラン・セルシェル(ギター )
7. タンゴの歴史 – III. ナイトクラブ1960/パトリック・ガロワ(フルート)、イョラン・セルシェル(ギター )
8. タンゴの歴史 – IV. 現代のコンサート/パトリック・ガロワ(フルート)、イョラン・セルシェル(ギター )
9.リベルタンゴ/ボンド
10. オブリヴィオン/ダニエル・ビネッリ(バンドネオン)、ルイーズ・ペルラン(オーボエ)、モントリオール交響楽団、指揮:シャルル・デュトワ
11. フルート・ソロのための6つのタンゴ的エチュード – III. Molto marcato e energico/パトリック・ガロワ(フルート)
12. タンガーソ/ニュー・ワールド交響楽団、指揮:マイケル・ティルソン=トーマス


『モダン・タンゴの20年』
2021年3月3日発売 UCCM-45001 UHQ-CD ¥2,200(税込)
オリジナル:1964 年リリース

『エル・タンゴ』
2021年3月3日発売 UCCM-45002 UHQ-CD ¥2,200(税込)
オリジナル:1965年リリース

『ニューヨークのアストル・ピアソラ』
2021年3月3日発売 UCCM-45003 UHQ-CD ¥2,200(税込)
オリジナル:1965年リリース

『タンゴの歴史 第1集~グアルディア・ビエハ』
2021年3月3日発売 UCCM-45004 UHQ-CD ¥2,200(税込)
オリジナル:1967年リリース

『タンゴの歴史 第2集~ロマンティック時代+7』
2021年3月3日発売 UCCM-45005 UHQ-CD ¥2,200(税込)
オリジナル:1967年リリース

『コラボレーションズ』
2021年3月3日発売 UCCM-45006 UHQ-CD ¥2,200(税込)
1975~1985年リリース

『オランピア ‘77』
2021年3月3日発売 UCCM-45007 UHQ-CD ¥2,200(税込)
オリジナル:1977年リリース

再発7タイトルの購入はこちら


 

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