英米以外で発展した世界のパンク・バンド:南アや東西ドイツ、南米や旧ソ連、中国から日本まで

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パンクが公に不時着を起こしてから40年以上が経った今、パンクは当初掲げていた崇高な理想を“売り渡して”しまったのだと考えるのは簡単だ。その代表的アクトが皆、結局メジャー・レーベルと契約し、お偉方と手を携えるようになったのだから尚更である。

しかし、そんな欠点を抱えながらも、70年代半ばから後半にかけ、パンクは尚も激しい衝撃を世に与えていた。そしてDIY精神から(概して)反性差別主義的なスタンスに至るまで、その功績は、現在もあらゆることの中に感じることが出来る。難点がありつつも刺激的だったこの時代については、これまで数えきれないほどの見直しが行われてきたが、どの場合でもほぼ常に、パンクはあくまで大西洋を挟んだ英米両国で起きた現象であるとされている。

それも全く無理もないことだ。というのも、英米両国共に、自国こそがパンク発祥地であると主張するに足る理由があるからである。北米では70年代が明けて間もない頃、スーサイドやニューヨーク・ドールズといった、注目すべきプロト・パンクのアクトがニューヨークから輩出。その後、1974年から76年にかけて、ペル・ウブや、パティ・スミス、ラモーンズ、そしてブロンディといった米国の先駆的な“不服従者”達が、キャリアを決定づける名盤を世に送り出していた。

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英国のパンク

ビル・グランディが司会を務める英民放テムズTVの夕方の生番組『トゥデイ』で、セックス・ピストルズのメンバーが放送禁止用語を連発するという事件を起こして全英を騒然とさせると、パンクの重点は英国に移行した。しかし、1977年に入ると英米の両国から、圧倒的に多彩かつ未来志向のアルバムが次々とリリースされ、ファンを驚嘆させたのだ。

この頃のアルバムといえば、例えば、テレヴィジョンの『Marquee Moon』や、デッド・ボーイズの『Young, Loud & Snotty』から、ザ・ダムドの『Damned Damned Damned』、ザ・ジャムの『In The City』、そしてセックス・ピストルズの『Never Mind The Bollocks, Here’s The Sex Pistols(勝手にしやがれ!)』まで、それは多岐に渡っている。

時代を象徴するこういったアルバムの重要性を軽視したり、あるいは過去40年以上の間に生み出された多くの音楽にそれらが与えた影響を否定することは、不可能に近い。しかしながら、英米両国が互いにパンク陣地の所有権を主張し続けている一方で、パンクはそれより遥か広範囲に変化をもたらしてきた。その影響は地球の隅々にまで及んでいるのだ。

 

オーストラリアのパンク

例えば、ジョン・ライドンはセックス・ピストルズの悪名高い「God Save The Queen」の中で、“ファシスト体制”について辛辣に言及していた。そんな頃、オーストラリアのクイーンズランド州は、強硬な極右の独裁者ジョン・ビェルケ=ピーターセン州首相の統治下にあった。ストラングラーズの全英トップ40ヒット「Nuclear Device」(1979年)の主題としても取り上げられたジョン・ビェルケ=ピーターセンは、警察権力を悪用してデモを暴力的に抑え込み、政治的な反対勢力に盗聴器を仕掛け、また自身に有利になるよう議員定数を不均衡に配分し、1987年まで政権を維持し続けていた。

しかしジョン・ビェルケ=ピーターセンの暴虐的な体制も、オーストラリアで最も過激なオリジナル・パンク・バンドと称されるクイーンズランド州都ブリスベン出身のザ・セインツの登場を阻むことは出来なかった。地理的に他の大陸から隔絶されていたにもかかわらず、彼らが自主制作でリリースした体制側には耳障りなデビュー・シングル「(I’m) Stranded」は英国で大評判を呼び、1976年9月には英ロック週刊誌サウンズで、誰もが憧れる<今週のベスト・シングル>に選出されている。

英国初の本物のパンク・シングルと言われるザ・ダムドの「New Rose」がリリースされる1ヶ月前に発表した「(I’m) Stranded」によって、ザ・セインツはEMIとアルバム3枚の契約を取り付けた。そして彼らはアドレナリン全開の「This Perfect Day」で全英トップ40のヒットを記録。だがそれよりも核心的なのは、オーストラリアで最も息の長いロック・バンドの幾つかが、ザ・セインツの成功に刺激を受けて誕生したことだろう。

その中には、長年に渡って活動を続けているウェスタン・オーストラリア州出身のパンク・バンド、ザ・サイエンティスツもいた。また、メルボルン出身のパンク・バンド、ボーイズ・ネクスト・ドア(ヴォーカリストのニック・ケイヴと、マルチ楽器奏者のミック・ハーヴェイが在籍)は、間もなくバースデイ・パーティーへと脱皮。彼らは後に、ニック・ケイヴ&ザ・バッド・シーズに姿を変えている。

そしてオーストラリアのシドニーからは、レディオ・バードマンが登場。地元の小規模レーベル、トラファルガーから1977年にリリースした彼らのデビュー作『Radio Appear』は、オーストラリア国内で通信販売を介して流通した初のインディ・パンクLPであった。同作のリリースを礎に、オーストラリアではその後、DIY的な活動を行うパンク・バンドが爆発的に増加していく。

 

南アフリカ共和国のパンク

ジョン・ビェルケ=ピーターセンが支配する腐敗したオーストラリアのクイーンズランド州政府は、アパルトヘイト政策下の南アフリカ共和国のことも公然と支持。圧政が敷かれ、公式に人種隔離政策が行われていた同国では、70年代を通じ、新聞は厳しい検閲を受けており、(当時投獄されていた)アフリカ民族会議議長ネルソン・マンデラの写真を一般に公開することは違法行為とされていた。

そんな政治情勢にもかかわらず、南アフリカではアンダーグラウンドのパンク・シーンが誕生し、盛り上がりを見せていた。南アフリカのバンドの多くは当時、ディスコ・ミュージックとソフト・ロックがラジオやテレビの電波を支配している抑圧的な社会に不満を抱いており、加えて、政治情勢を理由に、大多数の国際的なアーティストが同国での活動をボイコットしていたのである。

南アフリカの4大パンク・バンドといえば、サファリ・スーツ、ハウスワイヴズ・チョイス、ワイルド・ユース、そしてナショナル・ウェイクだ。この4バンドは、1979年12月に行われた同国初の独立系パンク・パッケージ・ツアー<ロック・ライオット>に参加。そして後者2つのバンドは、他の大陸でリリースされた最重要パンク・シングル群にも引けを取らない曲をレコーディングしていた。

ダーバン出身の3人組ワイルド・ユースがリリースした、ストゥージズ調の輝かしいシングル「Wot About Me?」には、現在インターネット・オークションで1,000ドルの値が付けられている。

一方、南アフリカ・ヨハネスブルグ出身の4人組ナショナル・ウェイクの唯一のアルバムで、メディアによる言論弾圧に反対する激情のナンバー「International News」を収録した『National Wake』は、1981年にWEAインターナショナルからリリースされたものの、南アフリカ当局によってブラックリストに載せられ、短期間で店頭から撤去された。

ナショナル・ウェイクは、熱いパンクから、スペイシーなダブ・レゲエ、そしてアフリカン・ファンク調ポップまでを呑み込んだ、クラッシュ風の器用なバンドだったが、大胆な多民族混合のラインナップを誇っており、割り当てられた居住区(タウンシップ)外で黒人の市民が自由に移動することを厳格に禁じる『パス法』を無視して活動。しかし、彼らが共同生活を送っていたヨハネスブルグのパークタウン地区の住居は、繰り返し当局の手入れを受け、最終的にバンドは解散に至ることとなる。

ワイルド・ユースとナショナル・ウェイクは、残念なことに両者共、早過ぎる終わりを迎えたものの、ケープタウン出身のザ・ジェニュインズやハードコア指向のパワーレイジといった、後の世代の南アフリカ・バンド勢は、80年代を通じて当局を苛立たせ続けた。

そういった彼らの活動は、高い評価を受けたデオン・マースとキース・ジョーンズ両監督によるドキュメンタリー映画『Punk In Africa』(2012年)の中で丹念に記録されている。同映画では、ケープタウン出身のスカ・パンク・バンド、ホッグ・ホッギディ・ホッグや、グランジに影響を受けたエヴィクティッドといった、パンクに刺激を受けたアパルトヘイト後のアクトについても描かれていた。

 

東西ドイツのパンク

ヨーロッパ本土に目を移すと、パンクの可能性に活気づけられた様々なバンドが、統一前の東西ドイツ両方で誕生している。ハノーファーのロッツコッツ(Rotzkotz)、デュッセルドルフのメイル (Male)、西ベルリンのPVCらは、UKパンクの第一波(PVCは、1977年2月に英国のアドヴァーツがベルリン公演を行った後に結成)に影響を受けていた。

だが80年代始めになると、西ドイツでは独自の多様なパンク・シーンが発展。そこに含まれていたのが、インダストリアル/エレクトロ・ポップの草分けであるディー・クルップスや、荒涼としたハンブルクのポストパンク・バンド、アプヴェルツ (Abwärts)、そしてハードコアの先駆者スライム(Slime)といったバンドである。

スライムは、過激な左翼政治思想を信奉する“ドイチェパンク”の生みの親のひとつと見なされており、「Deutschland」「Bullenschweine」「Polizei SA/SS」等、論議を呼んだ冷戦関連の曲や歌詞で知られ、彼らの曲の多くが発売禁止措置を受けたり、検閲に遭ったりしていた。

裕福な“西”と抑圧された苛酷な共産圏の“東”という二つの異なる区域に分断されていた都市ベルリンは、ヨーロッパでも独特の位置付けにあり、この街が様々なタイプのパンクで溢れ返っていたのは必然的なことであった。セックス・ピストルズがベルリンに短期滞在した折、あの悪名高いベルリンの壁を直接目の当たりにした経験に刺激されて書いた曲が「Holidays In The Sun」である。

一方、リベラルな気質の西ベルリンのクロイツベルク地区には、ヨーロッパ屈指のパンク/ポスト・パンク・クラブ SO36があった(店名は郵便番号に由来)。パンク・パンドがヨーロッパ・ツアーを行う際、その大半が立ち寄るのを心待ちにしていたこのライヴ・ハウスに不朽の名声を与えたのは、西ロンドンのポストパンク・バンド、キリング・ジョークだ。1980年に発表した、バンドと同名の彼らのデビュー・アルバムには、「SO36」という、その名に相応しい重苦しい曲が収録されている。

そして極めて重要だったのは、80年代半ばから後半にかけ、パンクの影響がベルリンの壁を越えて拡大したことだ。厳しい抑圧で知られるドイツ民主共和国(東ドイツ)では、晩年、パンク・シーンが極秘に発展を遂げていた。

“ディー・アンデレン・バンド/Die Anderen Bands”(直訳すると“他のバンド達”という意味)と呼ばれることの多かったこれらのバンド群は、厳密には必ずしも全てがパンクというわけではなく、エレクトロニックや、ブルース、また例えばヘルプスト・イン・ペキン/Herbst In Peking(=“北京の秋”)などのようにプロト・インディのバンドも含まれていたが、彼らは皆、パンク的な独立精神を共有。そのスピリットは、国民を厳重な監視下に置いていた東ドイツの秘密警察シュタージ(国家保安省)の顰蹙を買っていた。

様々な制約があったにもかかわらず、パンクのDIY美学は東ドイツにおいて、控えめだが飛躍的な幾つかの前進で仲介役を果たしていた。東ドイツの国営レーベル、アミガ (Amiga:東西ドイツ統一後、BMGナショナルに売却)から限定発売のみが認められた1988年のコンピレーション盤『Kleeblatt Nr 23:Die Anderen Bands』には、4つのバンドの楽曲が収録されており、その中には、“フラケ”ことクリスチャン・ロレンツとパウル・ランダースが在籍していたパンク・バンド、フィーリングBがいた。この2人は後に、様々な物議を醸すことになるドイツのインダストリアル・メタル界の巨人、ラムシュタインを結成する。

ベルリンの壁が崩壊し、東ドイツ共産党が民主的に選出された政府に権力の座を明け渡した1989年から1990年、“ディー・ヴェンデ / 革命的大転換”として知られるその時期に、パンクは果たすべき役割を果たした。例えばヘルプスト・イン・ペキンの「Bakschischrepublik」という曲は、急速に変化するこの時代を歴史に留める東ドイツ・ロック賛歌となっている。

 

ラテンの国のパンク

しかし、暴政との闘いに喘いでいたのは、“鉄のカーテン”の後ろに閉じ込められた国々だけではない。アルゼンチン、ブラジル、メキシコ、コロンビアなどのラテンアメリカ諸国は皆、独裁政権や貧困、政治的抑圧の歴史を共有しており、パンクはこれらの国々で、若者達が耐え苦しんでいる逆境や弾圧に抗議するための理想的な表現手段となった。

パンクのラテン系統は、ザ・プラグズ(The Plugz)、ザ・バッグズ (The Bags)、ザ・ゼロズ (The Zeros)、ロス・イリーガルズ (Los Illegals)といったカリフォルニア拠点のバンドに遡ることが出来る。一方、70年代後半には、イーストロサンゼルス近隣のラテンアメリカ系やメキシコ系のパンクス勢が( “イーストサイド・ルネサンス”として知られるムーヴメントの一端として)自分達のコミュニティ内でライヴを開催するようになっていた。

90年代を通じても、抗議の形としてのパンクは更に拡大化し、ユース・アゲインスト(Youth Against)や、ロス・クルードス(Los Crudos)、ワシプンゴ (Huasipungo)、トラス・デ・ナーダ (Tras De Nada)ら、米国に拠点を置くラティーノ・ハードコア・バンドが台頭。対立を生む可能性を孕んだ一連の政治問題に北米大陸が襲われる中、共同体としての機能を果たすようになった。

その政治問題に含まれていたのが、例えばカリフォルニア州住民提案187号(カリフォルニア州において、不法移民に対し緊急時を除く医療サービスと公的教育を提供することを禁止する、州の審査制度)や、NAFTA(アメリカ、カナダ、メキシコ間の自由貿易協定。先住民の共有地の売却や私有地化を防止するメキシコ憲法27条の、事実上の廃止が含まれていた)、そしてそれに続いて起きたメキシコのザパティスタの反乱(NAFTAの発行に対し、先住民中心のゲリラ組織が武装蜂起した事件)だ。

1970年代後半から80年代にかけて中南米で生まれたパンク・グループは、その時代、他の大陸ではよく知られないままでいた。ブラジル、アルゼンチン、メキシコにおけるパンク・シーンは当初、米国や英国からもたらされたパンクの輸入盤を入手出来るような環境にあった国内でも経済的に豊かな層に生まれ育った若者達を通じて確立されていたのである。

それでもやはり最終的には、南米諸国の大部分で、多くの人々が日常的な抑圧に苦しんでいることもあり、やがて健全なパンク・シーンが栄えるようになった。例えばブラジルでは、1964年にジョアン・ゴラール大統領がクーデターによって失脚させられた後、軍事独裁政権が1985年まで権力を維持。その間、言論の自由と政治的敵対勢力は、どちらも抑え込まれていた。

だがそれに反し、Al-5や、NAI、レストス・デ・ナーダ(Restos De Nada : “何も残っていない”という意味)を始めとする創始者的な面々によって、パンク・シーンは果敢に成長。1978年にサンパウロで結成された、ストゥージズやMC5風のレストス・デ・ナーダは、一般的にブラジル初の本格的なパンク・グループと見なされているが、彼らのバンド名を冠したデビュー・アルバムがデヴィル・ドライヴズ傘下のレーベルを通じてリリースされたのは、その約10年後、1987年のことであった。

アルゼンチンもまた、独裁、軍事クーデター、そしていわゆる“汚い戦争”(社会主義的な反体制派であろうと思われる人々を国家の資金提供を受けた軍部や警察が弾圧したテロ行為で、それにより数万人の市民が不法に投獄され、“行方不明”となった)に、数10年もの間、苦しんでいた。それにもかかわらず、ロス・ヴィオラドレス(Los Violadores:“違反者”)、アレルタ・ロハ(Alerta Roja:“非常警報”)、コマンド・スイシーダ(Comando Suicida:“自殺隊”)などのパンク・バンドが、80年代初頭から半ばにかけて次々と登場。

軍事政権側は、度々ロス・ヴィオラドレスの曲を検閲しようとしたが、彼らはそれでも尚、1983年にはセルフ・タイトルのアルバム・リリースに成功する。1985年のシングル「Uno, Dos, Ultraviolento」(“1、2、超暴力”という意味)は同年、人々に繰り返し聴かれるアンセムとなった。

 

中国のパンク

ラテンアメリカの様々な独裁政権や軍事政権は、彼らの主張に従うならば、共産主義と戦っていたのかもしれない。だが世界で最も人口の多い国である中国は、1949年に国共内戦が終結した後、共産主義による強力な支配の締め付けに遭っていた。

西洋でパンクが正式に勃発した1976年、中国は依然として、毛沢東主席が主導した『文化大革命』(実際には、10年間に渡って展開された権力闘争と社会的な大変動で、何百万人もの市民に悪影響を及ぼした)による混乱が続いていたのだった。

80年代までに中国のメディアは完全に国営化されていたという事実からすれば、80年代より以前には確実に、 “ヤオグン”(揺滾:中国のロック)は存在していなかったと言える。崔健(ツイ・ジェン:現在では“中国ロック界の父”と呼ばれている)のような国内アーティストが知られるようになって初めて、中国の若者達は抑圧的な制度に疑問を抱き始めたのであった。

80年代半ば、北京では幾つかの“オルタナティヴ”・バンドが活動を始めたが、その聴き手はほぼ大学生のみに限られていた。中国で広く知られるようになった初のロック・アンセム「Nothing To My Name」(原題:一无所有/一無所有)が収録されたアルバムを崔健が発表したのは、1989年のことである。

この曲は同じ年の春、民主化を求める学生達が北京の天安門広場で抗議デモを行った際、その運動を事実上代表する愛唱歌となった。悲劇的にも、現在では“天安門大虐殺事件”として知られる通り、天安門広場への武力介入を阻止しようとしていた学生デモ隊は、その後、中国共産党政府の命(めい)による人民解放軍の戦車や銃を用いた武力弾圧により、少なくとも数百人が殺害されている。

天安門広場の悲劇の余波を受け、パンク・ロックは中国の都市若者文化の一部となった。そして不倒翁楽隊(ブゥダオウォン / 英名 Infallible)や、ハード・ロック/メタル系の唐朝楽隊(タンチャオ / 英名 Tang Dynasty)、パンク調グラム・ロックの黒豹楽隊(ヘイバオ / 英名 Black Panther )といった北京のバンド勢がその名を知られるようになる。

1990年2月には、ロックに特化した中国の最大のコンサートが北京首都体育館で二夜に渡って開催され、唐朝楽隊や、崔建が率いるADOらが出演。また1992年には、黒豹楽隊のデビュー・アルバム『黒豹(Black Panther)』が発売され、中国ロック史上初のミリオン・セラーとなった。

以来、中国の音楽史は運命の浮沈を経験し続けている。90年代半ば、グランジとパンクのDIY精神に影響を受けた健全なインディ・シーンが誕生した後、90年代後半には共産党の検閲により、パンク、そしてロック一般は再び厳しく取り締まられるようになった。

しかし、2000年以降は、ポストパンクとエクストリーム・メタルのシーンが繁栄。2005年には、アメリカのケヴィン・フリッツ監督によるドキュメンタリー映画『Wasted Orient』が製作された。同映画は、ペネロープ・スフィーリス監督が手掛けた伝説のLAパンク・ドキュメンタリー映画『ザ・メタルイヤーズ』の中国版に当たり、北京のパンク・バンド、母国でツアーを敢行しようとしているJoyside楽隊の姿を追っている。中国では当時、ロック・ミュージックに対する評価は依然として真っ二つに分かれていた。

 

日本のパンク

ロックン・ロールの精髄に心を奪われていることで知られる極東の国は、もうひとつある。そう、日本だ。日本は必然的に、誕生直後からパンクを喜んで受け入れており、1976年には東京の歓楽街の中心に新宿ロフトと呼ばれるライヴ・ハウスが開店した。地元ではロフトとして知られるその店は、間もなく東京周辺の自由人達の溜まり場となり、当初はニュー・ミュージック系のバンドが多く出演していたが、1978年以降には、ラモーンズや、セックス・ピストルズ、ザ・クラッシュらに影響を受けた、全く新しいタイプの生え抜きバンドがステージに立つようになっていく。

それからの12ヶ月間、東京のパンク・シーンは勢いを加速。S-KENスタジオを始めとするライバル的なライヴ・ハウスが続々オープンし、ライヴ・コンピレーション・アルバム『東京ニュー・ウェイヴ79』及び『東京ROCKERS』が発売された。この2作で紹介されていたのは、スター・クラブや、SEX、PAIN、フリクション、ミラーズ、BOLSIEなど、精力的な地元バンド勢で、皆ロフトの常連出演者であった。

その後、流行の盛衰にかかわらず、日本はパンクを熱心に受け入れ続け、80年代にはニューヨークのノー・ウェイヴ・シーンを手本に、“関西ノー・ウェイヴ”と呼ばれるシーンも誕生。そして高く評価されているバンドであり、デッド・ケネディーズの系譜に連なるザ・スターリンが、 デビュー・アルバム『trash』を1981年にリリースし、80年代の健全なハードコア・シーンの到来を告げた。

また1981年後半には、大阪のポップ・パンク女子3人組、少年ナイフが結成。ソニック・ユースやニルヴァーナら、先駆的かつ重要な90年代USロックの大物達は、彼女達の熱烈なファンとなった。少年ナイフはこれまでに20作のスタジオ・アルバムを発表。中でも2011年の『大阪ラモーンズ』には、 ラモーンズの最も愛されている人気曲のうち13曲のカヴァーが収録されている。

 

旧ソ連のパンク

しかしながら、全体主義と自国民に対する激しい弾圧という点で、旧ソ連と張り合える国はないだろう。だが70年代後半になると、いわゆる退廃的な “西側”から伝わってくる音楽の流れの変化が、この広大な土地にも浸透。ディスコはあっという間にメインストリームに入り込み、ソビエト連邦公認の作曲家達は、ディスコ・ビートをポップに取り入れ、プロレタリアート向けの愛国的な歌にダンスフロア志向のリズムを加えすらしていた。

しかしパンクの知性と怒りは、ソ連のほとんどの若者達の心を惹き付けた。とりわけソビエト連邦では、一般庶民のほとんどがかなり貧しかったからである。英国のように、厳しい非難対象とすべき保守的な上流階級の“支配層”は存在していなったかもしれないが、人々の基本的な“自由”の条件は、隅々まで行き渡っていた共産主義体制によって規定されていたのであった。

ソ連政府による宣伝工作により、パンク・バンドは“国家の敵”と見なされていたものの、それでも確固たるシーンがゆっくりと進化を遂げていた。旧ロシア帝国の首都レニングラード(現サンクトペテルブルク)からは、アンドレイ・パノフ(Andrei Panov)率いるアヴトマティチェスキー・ウドヴレットヴォリチェリ/ Avtomaticheskye Udovletvoritely(“自動式に満足をもたらしてくれる者”という意味)を輩出。

セックス・ピストルズ狂のアンドレイ・パノフは、パフォーマンス中に自分の尿を飲むなど、イギー・ポップのようなステージ上の突飛な行動で知られていた。アンドレイ・パノフは1998年に僅か38歳で死去したが、その頃までに彼のバンドは、1987年の『Reagan, Provocateur』を含む数作のアルバムをリリースしている。

一方モスクワでは、知性派ドラマーのセルゲイ・ジャリコフ(Sergei Zharikov)が率いるDKが活躍。ブルース・ロック、フリー・ジャズ、アヴァンギャルドからの影響を先駆的なアート・パンク・サウンドに取り入れた彼らは、1980年から90年にかけ、40作のLPをレコーディングしたと言われている。

その過程でDKは、シベリアのパンク・ロック・ムーヴメントにも刺激を与えており、オムスク出身のグラズダンスカヤ・オボロナ( Grazhdanskaya Oborona:直訳すると“民間防衛隊”という意味だが、通常彼らは“棺”を意味する略称の“グロブ=Grob”と呼ばれていた)にも影響を与えた。

アーサー・リーや、テレヴィジョン、スロッビング・グリッスルのファンであるイェゴール・レトフ(Yegor Letov)が率いるグロブもまた、1985年から2008年に相当な数の作品をレコーディングしたが、彼のバンドの反権力主義的スタンスや「I Hate The Red Color」(※“赤い色が嫌い”=反共という意味)といった曲のタイトルは、ロシアの忌まわしき秘密警察KGBの注意を引き、彼らは一時的にレトフを精神病院に収容した。

グロブのベーシスト、コンスタンティン・リャビノフ(Konstantin Ryabinov)は軍隊に召集された。 しかし、イェゴール・レトフは口封じされることを拒否し、アパートの部屋に設営した基本的な機材しかないスタジオで、ノイジーかつローファイなパンクのアルバムの制作を続行。ソ連当局による厳しい検閲にもかかわらず、その音楽はテープにコピーされ、口コミでファンの手に渡っていった。

90年代初めには、ニルヴァーナやグリーン・デイらに刺激を受けた新しいタイプの非政治的なポップ・パンク・バンドが、ソ連崩壊後にロシアに出現。しかしパンクはやがて、反体制的な激しい抗議の表現手段として、再びロシアで復活する。2012年2月、フェミニスト・パンク・ロッカーのプッシー・ライオットが、ロシアのプーチン大統領を正教会が支持していることに対する抗議活動の一環として、モスクワの救世主ハリストス大聖堂で規制を無視した即興パフォーマンスを行ったのだ。

その事件自体は世界中のメディアの見出しを飾ったが、逮捕されたバンドのメンバー3人は、2012年3月、“宗教的憎悪を動機とする暴徒行為”で有罪判決を受け、2年の禁固刑が言い渡された。この裁判と判決は激しい怒りを世界に巻き起こし、アムネスティ・インターナショナルを含む複数の人権団体がこの訴訟を取り上げ、メンバーは最終的に早期釈放されている。パンクは再び、歯に衣着せないストレートな言動で、世界中のマスコミを賑わせたのだった。

プッシー・ライオットが、マドンナや、ポール・マッカートニー、レディー・ガガといった、著名なスター達の支持を得たことで、パンクとそれに付随する考え方は再び注目を集めた。しかし、セックス・ピストルズとザ・クラッシュが大手レコード会社と契約を結んだ時点でパンクの名誉は汚されてしまったと、あの時以来そんな信念を長年抱き続けている評論家もいる。だがその一方、パンクの本来の理想の精髄は、21世紀の社会においても今日的な意義があり、欠くことの出来ないものであると論証することも、同じくらい簡単なはずだ。

例えば、レディオヘッドやナイン・インチ・ネイルズを始めとする大物アーティストが、‘価格は買い手次第’という原則に基づいて新作をリリースし、伝統的な音楽業界の楽曲発表方式を崩壊させたというやり方の中にも、アティテュード(姿勢)としてのパンクは容易に探り当てられる。

その他の分野では、ワシントンDCのポジティヴ・フォース等といった活動家団体の中に、パンクの哲学が感じ取れる。この活動は当初、バッド・ブレインズや、マイナー・スレット、ライツ・オブ・スプリングらを含む、80年代のハードコア・バンド勢が開拓した地元シーンから発生したものだが、その後、ホームレスを支援するプロジェクトOAPなど、重要な社会事業において指導力を発揮し続けている。

実際パンクは確かに、最も有り得そうにない場所や状況と関わり合うことがしばしばある。例えば、シュルレアリストのコメディアン俳優ヨン・ナールが、2010年にアイスランドの首都レイキャビクの市長になった際、彼はUKアナーコ・パンク(無政府主義パンク)バンドのクラスが掲げていた独自哲学の要素に基づいたマニフェストを実行し、その後4年間に渡って同市の運営に成功した。

しかし現代の生活において、パンクが最も広く影響を与え続けているのは、恐らくソーシャルメディアの台頭ではないだろうか。この新たなDIY志向の媒体が最初に重要な役割を果たしたのは、MySpaceが支配的な立場にあった2010年以前の時代、アークティック・モンキーズを始めとするバンド勢が飛躍する足掛かりとなった時だった。

だが現在、メディアに精通した21世紀のパンクスが、人々を扇動し、啓発し、団結を促す探求の旅を続ける中で活用しているのは、手作りのチラシやミックステープの配布の他、TwitterやFacebook、Instagramなどになっている。

Written By Tim Peacock


プレイリスト『世界中のベスト・パンク・バンド』
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