ジョン・リー・フッカーの20曲:人々を圧倒してきたブルースの生き証人

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Photo: Universal Music Group

ジョン・リー・フッカーはマディ・ウォーターズが自然と身につけていたような権威をひけらかすようなことはなかった。彼はボ・ディドリーのように目覚ましい人気を獲得出来るキャラクターでもなかった。ハウリン・ウルフのように部屋の向こうから人を怖がらせることもなかった。だがジョン・リー・フッカーはブルースの生き証人であり、人々を圧倒するミュージシャンである。彼は賢く、順応性があり、創造力があった。彼の武器は、ギターと、ダークでムーディーで、時に押さえ気味に、時に吠えるヴォーカルでもあった。それらの武器を使って、彼は人々を踊らせるのだ。かつてそれは「Boogie Chillen」と呼ばれた。

この曲でジョン・リー・フッカーのプレイリストを始めよう。これが彼のデビュー・シングルだからだ。1948年発表のこのアンセムは人々を踊らせた。しかしブルースというのは虐げられている気の毒なアフリカ系アメリカ人の新たな叫びではないのか? もちろんそうだ。しかしジョン・リー・フッカーは、足があるならブルースのビートを叩くのに使えるということを我々に教えてくれている。

ジョン・リー・フッカーはミシシッピー州のバプティスト協会の司祭で農業も営んでいた父親の11番目の子供で、末っ子だった。家は貧しく、神を畏れ敬うように教わって育ったが、1921年、彼が9歳(彼の誕生日にはいくつかの説がある)の時に両親が離婚し、状況が変わった。母親の再婚相手、ウィリアム・ムーアはブルース・ギタリストで、唸り声のような目立つスタイルでギターを演奏しており、ジョン・リー・フッカーはそのスタイルを受け継いで、1971年の曲「Endless Boogie, Parts 27& 28」で半ばパロディのように披露している。ジョン・リー・フッカーは音楽上のステレオタイプとは無縁だったが、それはこのプレイリストで聴いていただければわかるはずだ。

ジョン・リー・フッカーがまだ未成年だった時に、姉の紹介で会ったもう一人のブルース・マン、トニー・ホリンズが彼にギターと曲を教えた。その中にジョン・リー・フッカーのどのプレイリストにも欠かせない曲、「Crawlin’ King Snake」が入っていた。ジョン・リー・フッカーはこの曲を1949年に初めてレコーディングし、著作権を獲得。ロックが誕生して、ザ・ドアーズが1971年にアルバム『L.A. Woman』でこの曲をカヴァーした時、ジョン・リー・フッカーは収益を得たのだ。それから彼が、自らこの曲を何度もレコーディングしている。

ジョン・リー・フッカーは14歳で家を出て、2度と振り返らなかった。実際、彼は一度も家に戻らず、母親と義父の顔を再び見ることはなかった。彼はテネシー州のメンフィスに行き、生活のために昼間は働いて、夜はホーム・パーティで演奏した。彼は、南部のフォーク・ミュージシャン達が仕事を求めて北部に大移動するのに加わり、第二次世界大戦中は、デトロイトのフォード社の工場で仕事をしていた。そこで稼いだお金で、彼はアコースティック・ギターから、エレクトリック・ギターに買い替えたのだ。

都会生活に対抗するラウドなギターを手にした彼は、デトロイトのイーストサイドにある数々のクラブで定期的に演奏を始める。そして、彼のデモがロサンゼルスのモダン・レコードに届き、「Boogie Chillen’」として発表されたのだ。この曲はR&Bシングル・チャートで1位を達成し、ジョン・リー・フッカーのキャリアがスタートした。

次に発表された「Hobo Blues」は再びR&Bチャートでヒットした。それから彼はレコード・レーベルを渡り歩き、次に一番支払いをしてくれそうなところを選んでキャリアを進めていった。

彼はシンシナティの外で、テキサス・スリムの名前でキング・レコードのために、そして、デルタ・ジョンの名前でリージェント/サーヴォイのために仕事をした。そして小さなレーベルでは、バーニンガム・サムとザ・ブギー・マンとして録音をしている。これらの曲で彼の音が聴き取れないとしたら、あなたは耳が聴こえないに違いない。

レーベル移籍はその後も続き、お金のあるレーベルはどこもジョン・リー・フッカーのレコードを発表しているようにすら思われた。1951年には再びR&Bシングル・チャートの首位を獲得した「I’m In The Mood」(ジョン・リー・フッカーは長年の間にこの曲を8回もレコーディングし、何十年も後にボニー・レイットが彼とデュエットをしている)をモダン・レコードから発表した後、彼はこのレーベルを離れ、シカゴのレーベル、チェスと仕事をし始めた。しかし、チェスは1952年、シングル「Ground Hog Blues」が理由でモダンに訴えられた。なぜそんなことになったかといえば、ジョン・リー・フッカーがスターだったからだ。激しくロックする彼のブギー・スタイルは、誰にも真似の出来ないものであり、誰もが競って彼を獲得しようとした。モダンは、1995年発表のシングル「I’m Ready」を機に、遂に手に負えないほど絡み合った彼のキャリアから手を引いた。もし彼らがその先に訪れるものを予想できていたら、止めることはなかったかもしれない。

ヴィー・ジェイと契約したジョン・リー・フッカーは、1956年、「Dimples」を発表。今や彼はフル・バンドを従えてレコーディングしており、引き延ばされた死後の時間を楽しむ魅力的な女性についての曲は、軽々とヒットした。1959年、ヴィー・ジェイは全米で盛り上がっているフォーク・ブームが、ジョン・リー・フッカーに良い機会をもたらすかもしれないと気づき、このレーベルでは足りないと、ニューヨークの会社リヴァーサイドとジョン・リー・フッカーの作品を発表する契約を結んだ。

そのレーベルから発表した2枚のアルバムで、ジョン・リー・フッカーは白人のリスナーにまで手を広げることになる。1枚目の『The Country Blues Of』には、ジョン・リー・フッカーのプレイリストには不可欠なもうひとつの曲、「Tupelo Blues」を収録。エルヴィス・プレスリーが誕生した街、ミシシッピーでの洪水について歌った人気の曲だ。ハウリン・ウルフの「Nathcez Burning」のように歴史を刻む曲であり、ジョン・リー・フッカーをルーツを持つ男として確立させたのだ。

もうひとつリヴァーサイド時代で取り上げておきたい曲が、後に「I’m Bad Like Jesse James」と名前を変えた「I’m Gonna Use My Rod」と、「I’m Mad Again」だ。ジョン・リー・フッカーはピース&ラヴからはほど遠い、銃を扱った彼の歌詞とは裏腹に、フォーク・シンガーとして紹介されることは気にしていないようだった。フォーク・リスナーの間で彼の評価を疑う人がいるかもしれないが、ジョン・リー・フッカーは1961年にボブ・ディランのサポート・アクトとしてニューヨークで公演を行ない、大都市でのデビューを飾っている。

しかし、フォークのみがジョン・リー・フッカーの目前に開かれた新しい市場ではなかった。ロンドンではリズム&ブルースが急速にクラブで人気のサウンドになっており、彼の曲はオリジナルのモッズによってパフォーマンスされる素敵なダンスのサウンドトラックとなっていた。

現代的な「Boom Boom」は、明らかにフォーク・バラードではなかったが64年に全米ポップ・チャート入りし、また「Dimples」のリヴァイヴァルが、イギリスのモッズが集まるナイトスポットで流されていた。この曲は全英トップ30入りを果たし、彼はこの曲を、TV番組『Ready Steady Go!』で演奏している。

ジョン・リー・フッカーは1963年から1964年まで、シュープリームスやヴァンデラス、その他のモータウンのミュージシャン達と仕事をして、有名になる直前のミュージシャンの輪に入ることになった。このプレイリストを少し違う方向に進めることになるが、「Frisco Blues」は、ジョン・リー・フッカーをまた別のジャンルに入れようと試みたアルバム『The Big Soul Of John Lee Hooker』の収録曲だ。シカゴのレーベル(ヴィー・ジェイ)ではデトロイト・サウンドとして扱われていたかもしれないが、この曲はトニー・ベネットの「I Left My Heart In San Francisco」に影響を受けている。ブルースミュージシャンにとっては珍しいインスピレーション源だが、ジョン・リー・フッカーは常に予測出来ないミュージシャンなのだ。そして、この曲と同じように、1964年の後悔を綴る名曲「It Serves Me Right」こと「It Serves You Right To Suffer」では彼らしさを発揮している。

1966年の『The Real Folk Blues』で、ジョン・リー・フッカーが激しいバンドを従えて演奏をしていたにもかかわらず、チェス・レコードは再びジョン・リー・フッカーをトラディショナルなアーティストとして売り出した。このアルバムからの最も有名な曲が「One Bourbon, One Scotch, One Beer」で、エイモス・ミルバーンが50年代の始めに演奏していた歴史がある曲だが、ジョン・リー・フッカーはそれをたちまち自分のものにした。

しかし、18ケ月が経過し、フォークはジョン・リー・フッカーの頭からは消去され、『Urban Blues』が発表された。このアルバム収録の「The Motor City Is Burning」は、1967年のデトロイト暴動についての曲だ。この街の混乱を歌詞に反映させながら、ジョン・リー・フッカーは、サイレンや通りの兵士達、スナイパー達や煙を想起させた。非常にモダンな文脈で綴られたブルース曲である。

60年代の末に、ヒッピー世代がロックン・ロールのルーツに回帰し、ジョン・リー・フッカーのブギー・スタイルにおそらく最も最も足を踏み入れていたキャンド・ヒートが、フッカーと共に2枚組のアルバム『Hooker’n’ Heat』を発表。その後も、彼らはジョン・リー・フッカーと何枚かアルバムを作ったが、このプレイリストの中では、初の有名コラボレーションである。このアルバムには、「Whiskey And Wimmen」の素晴らしいヴァージョンが収録されていた。ジョン・リー・フッカーにとって、こういったコラボレーションは実はすでに覚えのある体験であった。彼はすでに1964年に、自分が影響を与えた白人バンド、ザ・グラウンドホッグズと共にレコーディングをし、ロンドンでアルバムを発表していたのだ。このバンドはジョン・リー・フッカーの「Groundhog Blues」から、バンド名をとっていた。

ABCから発表された一連のスタジオ・アルバムの最後の作品が、1974年の『Free Beer And Chicken』だ。このアルバムでジョン・リー・フッカーは、「Make It Funky」といったタイトル通りの曲と共に、自らをファンキーな文脈に据えた。そして1980年代の彼は、一連のライブ・アルバムを発表している。

1980年に、彼は映画『ブルース・ブラザーズ』に出演して「Boom Boom」を劇中で披露した。しかしこのヴァージョンは、なぜか映画のサウンドトラックには収録されなかった。この曲があまりにリアルなために、他の収録曲が弱く聞こえてしまうことを危惧したのかもしれない。映画は大ヒットしたが彼は、そのキャリアが大きく飛躍する機会を逃してしまった。

彼が大きく復活したのは1988年アルバム『The Healer』を発売した時だ。当時、彼は78歳であった。このアルバムはロック・スター達が勢揃いして、彼らのヒーローにオマージュを捧げたアルバムである。ギター・スターのカルロス・サンタナをフィーチャーしたアルバム・タイトル曲は人々の注目を集め、アルバムは全米チャート入りし、ジョン・リー・フッカーは経済的にもアーティストとしても充実した晩年を送ることになった。

1991年、ライ・クーダーがプロデュースした「Mr Lucky」で、ジョン・リー・フッカーは再び同じことを試み、キース・リチャーズ、ジョニー・ウィンター、そして彼の長年のファンで共演者のヴァン・モリソンと共演した。スーツとネクタイとハットを着こなし、顔には皺が刻まれたジョン・リー・フッカーは、彼が黄金期にいることをその演奏で証明してみせた。アウォードを多数受賞した1995年の『Chill Out』も同じ形式に従い、似たようなゲストを迎えて作られていたが、この作品はより内省的であった。このプレイリストには「We’ll Meet Again」と、彼の60年代の曲「Deep Blue Sea」の憂いを帯びたヴァージョンを入れた。

2001年に発表された、彼が他界する前の最後のアルバムが『Don’t Look Back』である。彼の典型的なブギーと後悔を表現した感動的な作品だ。彼は自分の死期が近づいているのを確実に意識していたので、アルバム・タイトル曲「Don’t Look Back」は皮肉な意味になってしまったかもしれない。そして、彼は過去を振り返っていた。彼はこれまでにもレコーディングをしていたが、かつてこんなサウンドだったことはなかった。この曲はスピリチュアルな作品であり、彼の唯一無二のキャリアにとって適切なフィナーレであった。そしてジョン・リー・フッカーのプレイリストもまた、適切に幕を閉じるのである。

Written By Ian McCann



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