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「誰が最初にブルース・ソングを書いたのか?」:ブルースと誕生とレコード会社の変遷

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誰が最初にブルース・ソングを書いたのか、それは決して分からない――最初はブルースという言葉自体が、誤った形で使われていたほどである。ブルースは、アフリカをベースとする音楽が複雑な形で口承されて発展し、19世紀の後半40年で急速に変化した。

‘フォーク・ミュージック(民族音楽)’(ブルースはフォーク・ミュージックである)が伝承されるプロセスは複雑だ。テレビ、ラジオ、CD、レコード、カセットなど、録音音楽を聴く手段なしで、音楽は文字通り‘口伝え’で広がっていった。

我々が詳細を知り得ない理由のひとつに、録音機器がなかったことが挙げられるが、当時の人々は、録音機器といったものにあまり興味を持っていなかった。20世紀前半は、皆が生き延びるため必死に働いていたのだ。自分の音楽に興味を持つ人が、自分の地元以外、ひいては自分の祖国の外にいるなど、全く考えつかなかったのである。

1912年、W.C.ハンディは「Memphis Blues」を出版した。しかし皮肉にも、これはブルース・ソングではなく、インストゥルメンタルのケークウォーク(*訳注:黒人の間で発祥したダンスの一種)だった。W.C.ハンディの同曲は、タイトル中に‘ブルース’と言う言葉を使った3番目の曲となった。ハート・ワンドの「Dallas Blues」が最初にブルースという言葉を使った楽曲で、2番目はアーサー・シールズの「Baby Seals’ Blues」だ。3人のうち、アーサー・シールズとW.C.ハンディは黒人、ハート・ワンドは白人で、実際にブルースだったのは、白人のハート・ワンドの楽曲である。

W. C. Handy – St Louis Blues
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1920年8月10日、火曜日の午後、クラリネット奏者のジョニー・ダンとアーネスト・エリオット、トロンボーン奏者のドープ・アンドリュース、ピアニストのペリー・ブラッドフォード(彼らはザ・ジャズ・ハウンズというミュージシャン集団として知られていた)は、スタジオにいた。自分たちがこれから歴史を作ることになるなど、一瞬たりとも彼らの脳裏を横切ることはなかった。彼らはただ、ペリー・ブラッドフォードが作った曲を演奏することしか考えていなかったのだ。ここにシンガーのマミー・スミスが加わって録音された「Crazy Blues」は、初のブルース・レコードとなった。

マミー・スミスはブルース・シンガーというわけではなく、どちらかといえばヴォードビル/キャバレー・アーティストだった。しかしよく考えてみれば、当時‘ブルース・シンガー’なるものは存在しなかった。歴史に名を残したこの時、マミー・スミスは37歳。1918年、彼女はニューヨークでペリー・ブラッドフォードに出会い、彼が率いる歌劇団で仕事をしていた。

「Crazy Blues」はヒットした。リリースから1カ月で75,000枚、1年で100万枚売れたという報告も存在するが、この数字はさすがに誇張されているだろう。それから3年の間にマミー・スミスはオーケー・レコードで約60曲をレコーディングした。ただし、そのうちの大半はブルースよりもヴォードヴィルに近かった。

Mamie Smith "Harlem Blues" 1935

 

マミー・スミスが「Crazy Blues」をレコーディングする4カ月前、とある黒人男性が‘ブルース’という言葉をタイトルに冠した曲をレコーディングしていたが、この曲はブルースではなかった。ミュージカル映画『ジーグフェルド・フォリーズ』 で主演を務めたエグバート・(バート)・ウィリアムズは、20世紀前半で特に人気の高かった黒人アーティストだ。ヴェテラン・シンガーだった彼は、1920年4月にコロンビア・レコードで「Unlucky Blues」をレコーディングした。

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カントリー・ブルース・ミュージシャンとして最初にレコーディングのチャンスを得た黒人男性は、シンガーではなくギタリストだ。ケンタッキー州ルイヴィル出身のシルヴェスター・ウィーヴァーは1923年10月、サラ・マーティンのバックを務めるべく、オーケー・レコードのニューヨーク・スタジオに足を運んだ。そして翌月、彼は「Guitar Blues」、「Guitar Rag」という自作曲をレコーディングする。特に後者は、黒人ブルース・ミュージシャン、白人カントリー・ミュージシャンの双方にインスピレーションを与えた。

パパ・チャーリー・ジャクスンが、レコードを作った最初のカントリー・ブルース・シンガーだと示唆する人は多いが、これは事実に反する。パパ・チャーリー・ジャクスンは輝かしいキャリアを誇っていたが、エド・アンドリュースという謎の人物が1923年10月に3曲をレコーディングしていたのだ。なお、3曲のうちの1曲「Sing ‘Em Blues」は、1912年にベイビー・F・シールズが発表した「Baby Seals Blues」と同じ曲である。

エド・アンドリュースも、ほとんど素性不明なミュージシャンだ。オーケー・レコードは1924年3月下旬から4月上旬にかけて、ジョージア州アトランタに遠征し、レコーディングを行っていた。エド・アンドリュースの歌声は、アトランタに数多く存在したバレルハウスや酒場からそのまま出てきたかのような、真のカントリー・ブルース・ミュージシャンに聞こえる。「Barrel House Blues」も、彼がレコーディングした1曲だ。しかしこれ以降、彼の音沙汰は全くなくなった。しかし、当時のレコーディング事情を鑑みれば、驚くには当たらない。

オーケー・レコードは既に、初期のブルース・レコードを頻繁にリリースしていた。当初は蓄音機を作っていた同社だが、1918年にはレコード・ビジネスに乗り出す。マミー・スミスでまず成功を収めると、1922年には自社ニューヨーク・スタジオの‘レース・レコード’を統括するディレクターとしてクラレンス・ウィリアムズを雇い入れた。その後、オーケー・レコードはシカゴにスタジオをオープンし、キング・オリヴァー、ルシール・ボーガン、シドニー・ベシェ、ハティ・マクダニエル、ルイ・アームストロング、デューク・エリントン等、ごく初期のジャズ・アーティスト、ブルース・アーティストをレコーディングした。

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北部で地位を確立したレコード会社の多くは、ブルースを録音するために、現地へと赴いてレコーディングを行った。1929年にRCAに買収されたビクターは、買収される前の3年間、メンフィス・ジャグ・バンド、ルーク・ジョーダン、ブラインド・ウィリー・マクテル、キャノンズ・ジャグ・ストンパーズ、フランク・ストークス、イシュマン・ブレイシー、フューリー・ルイス、ロバート・ウィルキンスといったアーティストをレコーディングしていた。また、ほぼ同時期にコロンビア(1929年にオーケー・レコードを買収)もペグ・レッグ・ハウエル、バーベキュー・ボブ、ブラインド・ウィリー・ジョンソン、ピンク・アンダーソンをレコーディングした。(なお、ピンク・アンダーソンはピンク・フロイドのバンド名の‘ピンク’部分の由来となったアーティストだ。‘フロイド’部分は、ニューヨークのARCレコードでレコーディングを行ったフロイド・カウンシルが由来である)。

1920年代半ばにヴォカリオン・レコードを買収したが、ヴォカリオンのレーベル名を残してレコード・リリースを続けたブランズウィック・レコードは、南部へと赴くと、リロイ・カー、ボー・チャットマン、チャーリー・マッコイ、ファリー・ルイス、スペックルド・レッドのレコーディングを行った。1929年に設立されたARC(アメリカン・レコード・コーポレーション)は、1934年に遠征レコ―ディングを開始。同社は主にテキサスでアーティストを発掘し、テキサス・アレクサンダー、ブラック・ボーイ・シャインをレコーディングする。そして1936年には、サンアントニオで初めてロバート・ジョンソンをレコーディングした。

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‘レース・レコード’を専門とするレコード会社の多くは、自社スタジオでのレコーディングを好んだが、特にウィスコンシン州ポート・ワシントンに本拠を置くパラマウント・レコードは、自社スタジオでのレコーディングにこだわった。同社の親会社は、蓄音機も製造していたウィスコンシン・チェア・カンパニーで、自社の蓄音機とともにレコードを配れるよう、レコード製造への進出に先立ち、蓄音機も製造していた。

パラマウントは1922年、オーケー・レコードに1年遅れて、黒人アーティストによるレコードのリリースを開始すると、大卒の黒人、メイヨー・ウィリアムズをスカウト係に任命する。メイヨー・ウィリアムズはアルバータ・ハンター、アイダ・コックス、マ・レイニーと契約を結んだ。また、男性アーティストを探してシカゴのマックスウェル・ストリートを訪れると、6弦バンジョーを弾くパパ・チャーリー・ジャクスンを発掘する。パパ・チャーリー・ジャクスンの成功をきっかけに、パラマウントは男性アーティスト発掘を強化。ブラインド・レモン・ジェファーソン、ブラインド・ブレイクが同社でレコーディングを行った。また同社は、スキップ・ジェイムス、ビッグ・ビル・ブルーンジー、バンブル・ビー・スリムを擁した。

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パラマウントは‘現地スカウト’を使い、新人発掘を行った。とはいえ、これはいささか大袈裟な肩書である。例えばH.C.スピアは、南部で商店を経営しており、彼がやることといえば、地元ミュージシャンに目を光らせるだけだったのだから。パラマウントはH.C.スピアを通じてトミー・ジョンソン、そして最も重要なことに、チャーリー・パットンをレコーディングした。1930年、グラフトンに完成したパラマウントの新スタジオにサン・ハウス、ウィリー・ブラウン、ルイーズ・ジョンソンを連れて行ったのは、チャーリー・パットンである。

パラマウントは10年続き、1,100枚以上のアルバムをリリースした。そのうちの大半は現在もコレクターに珍重されている(そもそもプレス枚数が少ないため)。パラマウントのレコードは安価で、雑音が目立ち、質も悪いことが多かった。そして1932年、世界恐慌のあおりを受け、同レーベルはレコーディングから撤退する。第2次世界大戦前にブルースをレコーディングして後世に残したレーベルは、パラマウントの他にブラック・パティ、ブラック・スワン、QRS、デッカ(英国にあるレーベルの米子会社)が挙げられる。

1941年が終わる頃には、第2次世界大戦がヨーロッパで勃発してから2年が経っており、アメリカも参戦していた。ブルース・レコードの歴史において、世界大恐慌が句読点だとするならば、第2次世界大戦は、章の終わりだと言えるだろう。また、同大戦で音楽業界も完全に様変わりした。人員、機械、原材料が必要とされたため、エンターテインメント業界全体に変化が起こったのだ。音楽とエンターテイメントがなくなることはなく、レコードの製造・販売も続いた――それでも、数々の問題が差し迫っていた。

1939年には、アメリカに22万5000台のジュークボックスがあった。そのため、米国音楽家連盟の会長は、レコードを‘1番卑劣なもの’と称した。同会長と会員は レコード会社がミュージシャンから仕事を奪っていると感じていたのだ。そして1942年、同連盟は会員にストライキを呼びかけ、これが1944年まで続くと、まずはデッカ、それからビクター、コロンビアが同年後半に降伏した。

こうした動き全てがブルースに影響を与え、レコーディング活動が削減された。1942年上半期、純粋なブルースのリリースは激減。これは主に、音楽的な嗜好の変化によるものである。この時期にレコードを出したアーティストは、サニー・ボーイ・ウィリアムソン、タンパ・レッド、ロニー・ジョンソン、ロゼッタ・タープ、ルーズヴェルト・サイクス、ジョー・ターナーと、売上が確実に見込める大御所アーティストばかりだ。

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アメリカの西海岸では、新興レコード・レーベルが力を誇示していた(ただし、キャピトル・レコードは、ブルース専門のレーベルではない)。1942年、キャピトルはTボーン・ウォーカーと契約を結ぶと、彼はフレディ・スラック&ヒズ・オーケストラのメイン・ギタリストになった。Tボーン・ウォーカーがフレディ・スラックスと共演した「I Got A Break, Baby」、「Mean Old World」が大きな助けとなり、Tボーン・ウォーカーは名声を確立すると、若かりし頃のB.B.キング(Tボーン・ウォーカーの大ファンだった)に影響を与えた。どちらの曲も、現在ではウェスト・コースト・ブルースと呼ばれるサウンドの創造に大きな影響を及ぼした。メロウで洗練されたリフを持つレイドバックしたグルーヴの典型ともいえるウェスト・コースト・ブルースは、B.B.キング・サウンドの先例となっている。

コロンビアの子会社、ブルーバードは低価格なレコードで30年代に大きな成功を収めたが、1942 年までにはレコーディングのペースを大幅に落としていた。しかし、1944 年12月、同レーベルはブルースを再発見すると、ルーズヴェルト・サイクス、タンパ・レッド、ロニー・ジョンソン、サニー・ボーイ・ウィリアムソンなどをレコーディングした。サニー・ボーイ・ウィリアムソンは「Win The War Blues」までリリースした。これは、ブルース・シンガーが戦時中の愛国心を歌った珍しい歌である。ルーズヴェルト・サイクスがリリースした曲のひとつに「I Wonder」があるが、これは1945年に新設されたブラック・ミュージック・チャート、‘ジューク・ボックス・レース・レコード’チャートで1位になった2番目の曲である。

戦争が終わると、状況は平常に戻っていったが、ブルースにとっての‘平常’を定義するのは難しい。カントリー・ブルースからアーバン・ブルースへの進化は30年代から始まっていたが、これが革命を引き起こそうとしていた。

ブルースのオーディエンスは、南部から北部―そして西部―へと変化し、これが大きな音楽的変化をもたらした。この大移動によって新たな市場が生まれ、そこからレコードの製造・販売方法も変化した。ほどなくすると、独立系レコード会社が全米に続々と誕生する。

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1941年2月、Billboard誌は初のブラック・ミュージック専門チャートを導入し、‘ハーレム・ヒット・パレード’と名づけた。その後、同チャートは‘ジューク・ボックス・レース・レコード・チャート’に改名され、1949年には‘リズム&ブルース・チャート’となった。‘ブラック・ミュージック’チャートが導入されてから5年の間は、ベストセラー・レコードはメジャー・レーベルのリリースが大部分を占めており、特にデッカが強く、ルイ・ジョーダンの楽曲が多かった。‘キング・オブ・ザ・ジュークボックス’と讃えられていたルイ・ジョーダンは、録音音楽史上で最も大きな影響力を誇るブラック・アーティストの1人となった。

1942年10月から1947年の末までにチャートの首位に立った57曲のうち、31曲(54パーセント)がデッカのレコードだった。残りは9曲がキャピトル、9曲がビクター/ブルーバードで、同期間において首位に立ったインディ・レコードは6曲しかなかった。しかし、この状況が1948年から1949年で一変する。この2年間でチャートの首位に立った31曲のうち、デッカ、ビクター、キャピトルの楽曲はわずか5曲。こうして独立系レーベルの時代が始まった。

移住によって都市が大きくなるにつれて、都市部の市場が大きくなると、レコード業界の経済的側面も変化し、個々の都市が地元レーベルを支援できるほどの規模となった。全米ヒットを出すことなく、企業は利益を上げることができたのだ。そして、アーティストは地域的な宣伝活動を行った。地元密着型のレーベルは、本拠とする都市での音楽トレンドにより注意深く耳を傾けていた。

40年代に成功した最初の独立系レーベルはサヴォイだ。1943年3月、ボニー・デイヴィスの「Don’t Stop Now」でハーレム・ヒット・パレード・チャートの首位を獲得した。1942年、ハーマン・ルビンスキーにより、ニュージャージー州ニューアークで創設されたサヴォイは、ジャズ・レーベルとしてスタートしたが、すぐにビッグ・ジェイ・マクニーリーズ・ブルー・ジェイズ、ポール・ウィリアムズ&ヒズ・ハックルバッカーズ、ハル・シンガー・セクステットなど、R&Bアーティストと契約を結ぶようになる。さらに後年、同レーベルはリトル・エスター・フィリップス、ジョニー・オーティス、ナッピー・ブラウン、ザ・ロビンスとも契約を交わした。

西海岸では、サヴォイ創設と同時期に、レオンとオーティスのルネ兄弟がエクセルシオール・レコードを設立した。レーベル名をエクスクルーシヴに変更した後、ジョー・リギンスによる「The Honeydripper」が大ヒットを記録する。それから2年後、UCLAを卒業したピッツバーグ出身のアート・ループがジュークボックス・レコードを設立。ジュークボックスのリリース第1弾はセピア・トーンズの「Boogie No. 1」。7万枚のセールスを記録し、これによって同レーベルの短期的未来が確実なものとなった。1946年にジュークボックスはスペシャルティと改名すると、ロイ・ミルトン&ヒズ・ソリッド・センダーズの「RM Blues」が大ヒットし、さらに明るい未来が約束された。同バンドとレーベルは7年にわたり、19曲ものR&Bヒットを生み出したが、この曲は彼らにとってのヒット第1号である。さらに、スペシャルティは50年代にパーシー・メイフィールドと契約を結び、ロイド・プライス、ギター・スリム、サム・クック、リトル・リチャードが在籍するようになる。

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元軍人や移民で人口が膨れ上がったロサンゼルスは、ブロンズ、フォー・スター、スーパー・ディスク、インペリアル、ギルト・エッジ、モダン、アラディン(1944年の設立当初はファイロと呼ばれていたが、それから2年後にアラディンへと改名)等、多数の独立系レーベルの本拠地となった。アラディンの創立者、エディとレオのメスナー兄弟は、エイモス・ミルバーンやチャールズ・ブラウン等、南カリフォルニア屈指のジャンプ・ブルース・アーティストと契約を結んだ。

アラディンから遅れること数カ月、モダン・レコードはギター・ブルースを愛するジュールズ、ジョー、サウルのビハール兄弟によって設立された。モダンが初期に契約したアーティストの中には、ピー・ウィー・クレイトン、ジョニー・‘ギター’・ワトソンもいる。また、モダンはさらに小さなレーベルのレコードの流通も担っていた。モダンの流通は、B.B.キングやエルモア・ジェイムズ(前者はRPMレコード、後者はフレア・レコードと、どちらもモダンの子会社に所属)の初期の成功に極めて重要な役割を果たしている。

ミラクル・レコードは、シカゴで最初に誕生した独立系レーベルのひとつだ。デルタ・ブルースにあまり重点を置いてはおらず、大半はジャズやバラードのシンガーをレコーディングしていたが、メンフィス・スリムと契約していた。そして同アーティストは1948 年、「Messin’ Around」でレーベルにナンバーワン・ヒットをもたらした。

ヴィージェイ・レコードも、シカゴ音楽シーンの巨頭だった。1952 年に事業をスタートし、ほぼ全てのレーベルがユダヤ人の所有だった当時では珍しく、黒人が所有するレーベルだった。モータウンが登場するまで、ヴィージェイは最も成功した黒人所有のレーベルとなった。ヴィヴィアン・カーター(「V」)と夫のジミー・ブラッケン(「J」)によって設立された同レーベル(Vee-Jay)は、ジミー・リード、ジョン・リー・フッカー、ビリー・ボーイ・アーノルドと契約を交わした。

テネシー州メンフィスでは、アラバマ州フローレンス出身の無線技士、サミュエル・コーネリアス・フィリップスがヴィジョンを抱き、’なんでも、いつでも、どこでも’レコーディングできるよう、1950 年1月にユニオン・アヴェニュー706番地にメンフィス・レコーディング・スタジオを設立。まずは地元アーティストをレコーディングし、フォー・スター・レコードやモダン・レコード、そしてモダン・レコードの子会社RPM等の有名レーベルにレコードを売っていた。フィリップスがレコーディングしたアーティストの中には、ロスト・ジョン・ハンターやジョー・ヒル・ルイスもおり、1951年初頭には、フィリップスはB.B.キングのRPMでリリースした最初の楽曲や、ウォルター・ホートンがモダン・レコードのオーディション用に作ったアセテート盤もレコーディングした。

B.B. King – Everyday I Have The Blues (Live)

 

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フィリップスの見事な腕前は、プロデュースしすぎない点にあった。パフォーマーが伸び伸びと演奏できるように計らったのだ。臨機応変さが、技術に勝ったのである。フィリップスの最初のヒットはジャッキー・ブレストンの「Rocket 88」で、彼はこれをシカゴのチェス・レコードに売った。また、フィリップスはチェス・レコード向けに「Mr. Highway Man」等、ハウリン・ウルフの楽曲もレコーディングしている。

Howlin' Wolf – How Many More Years

 

チェス・レコードは50年代から60年代の間、シカゴ最大のレコード会社となったが、その始まりは慎ましいものだった。40年代初頭、ポーランド生まれの兄弟、レナード・チェスとフィリップ・チェス(本名はChez/チェズ)は、シカゴ南部のマコンバ・ラウンジをはじめとする同市のナイトクラブを数軒所有していた。1947年、チェス兄弟はジャズとジャンプ・ブルースのレーベル、アリストクラット・レコードの共同所有者となる。チェス兄弟がレーベルに加わり、アリストクラット初の大ヒットとなったのが、マディ・ウォーターズの「I Can’t Be Satisfied」である。1949 年には、チェス兄弟は創立者から同レーベルを買い取り、チェス・レコードと改名した。

Muddy Waters – Hoochie Coochie Man (Live)

 

チェス・レコードに改名後、同レーベルは続々と契約を結び、ジミー・ロジャース(マディ・ウォーターズのバンドの主要ミュージシャン)、エディ・ボイド&ヒズ・チェス・メン、ウィリー・マボン、メンフィス・スリム、ハウリン・ウルフ等を獲得。1950年にはジョン・リー・フッカーのレコードもリリースしているが、チェス兄弟がフッカーと契約したというのは正しくないだろう。なぜなら、フッカーは現金を前払いしてくれるレーベルとならどこでも喜んでレコーディングしたからだ。

John Lee Hooker – Hobo blues

 

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1952年、チェス兄弟はチェッカー・レコードを設立し、エルモア・ジェイムズ、リトル・ウォルター、メンフィス・ミニー、サニー・ボーイ・ウィリアムソンと契約。その2年後、ローウェル・フルスンが「Reconsider Baby」の大ヒットを飛ばす。1955年には、チェス・レコードはさらに拡張し、チャック・ベリーとボ・ディドリーで白人ロックン・ロール市場にもクロスオーヴァ―する。こうした成功を背景に、オーティス・ラッシュやバディ・ガイといったブルースマンも新たに獲得した。

60年代、チェス・レコードの成功にも陰りが見えてきた。白人の若手ロック・バンドがチェスの音楽を雛型として多用し、こうした白人ロック・バンドが同レーベルのサウンドを奪ったのだ。そして1969年、レナード・チェスが他界し、レーベルは売却された。その後、多数のレーベル買収を経て、チェス・レコードはユニバーサルミュージックグループの一部となった。なお、‘ブルース・レーベル’の大半が‘合併、買収、レーベル売却’とチェス・レコードと同じ運命を辿っている。そしてこれは、ブルース専門レーベルの全盛期は終わったことを意味した。また、公民権運動により、ラジオ局の人種融合と同じようにレコード・レーベルの人種融合も促進された。

しかしそれ以来、ブルースを専門とするレコード・レーベルがなくなったというわけではない。英国のブルー・ホライズンが短期間ではあるが奮闘し、アリゲーター・レコード、デルマーク、アーフーリー・レコード、ヤズー・レコードといったレーベルも、現代のブルース・アーティストのレコーディングに大きく貢献した。しかし、世界の変化に伴い、ブルース・レーベルも変化したのだった。

Written By Richard Havers



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