追悼ディアンジェロ:音楽的には天才だったが、それ以外は弱点や闇も抱えた普通の人間
米バージニア州リッチモンド出身のシンガー、ソングライター、プロデューサー、ディアンジェロ(D’Angelo)が膵臓がんとの闘病の末、2025年10月14日に51歳で逝去した。
今回は、彼が初めて来日した時、当時のレコード会社で渉外担当として彼に同行し、それ以降も彼や関係者に取材を重ねてきた翻訳者の押野素子さんに寄稿いただきました。
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2025年10月13日の夜、久しぶりにディアンジェロのことを思い出していた。きっかけは、刊行されたばかりのアレン・アイヴァーソンの回顧録『Misunderstood』だった。ヴァージニア州で生まれ育った50代前半の黒人男性。夜型で遅刻癖があり、コーンロウのヘアスタイルがトレードマーク。痛々しいまでに正直で、世渡りは上手くない。そんなアイヴァーソンの姿に、ディアンジェロの面影が重なった。マザー●ァッカーを連発する語り口にも、似たところがあった。2人とも、90年代半ばからそのリアルさで、ブラック・コミュニティから「我々のブラザー」として愛されてきた。
翌14日の午前、ブレイキング・ニュースが入った。ディアンジェロ死去。すい臓ガンと闘っていたという。奇しくもその日は、文筆界のディアンジェロさながらに、糖蜜のごとく豊潤な黒人文化を伝え続けた知人、故グレッグ・テイトの誕生日でもあった。
寡作で知られていたが、ディアンジェロはその3枚でシーンの音風景に絶大な影響を残した。彼の音楽性については、世界中の音楽評論家やファンが解説や分析を試みることだろう。一方、本稿では本人および周囲の人々から直接聞いた言葉に、私自身のささやかな記憶とごく私的な印象を添えて、ディアンジェロという人間の輪郭を少しでも伝えられたらと思う。(ディアンジェロのデビュー前に行った電話インタヴューから初来日同行記、アンジー・ストーンとの関係、『Voodoo』リリース前の再会については、2012年8月執筆の拙稿をお読みください。)
才能に反比例する謙虚さ
ディアンジェロについて真っ先に思い浮かぶのは、尋常ではない才能に反比例する彼の謙虚さだ。ジェイムズ・ブラウンとプリンスのツアー・マネージャーとして知られていたアラン・リーズは、マネージャーやエージェントからではなく、ディアンジェロ本人から直接仕事の打診を受けて驚いたという。
「ミスター・リーズ、マイケル・アーチャーです。僕はディアンジェロとして知られています。あなたがプリンスと仕事をしていたことも知っています。コンサート・ヴィデオはたくさん見ましたし、どれも素晴らしかった。だから、あなたに会えたら光栄です」と言われ、あまりの謙虚さと好青年ぶりに驚いた、と語っていた。
また、『Black Messiah』以降、ヴァンガードの一員としてディアンジェロを音楽的・精神的に支えたジェシー・ジョンソンは、「エゴなんて全くない。偉ぶることもない。すごく謙虚な人間だ。俺が何か弾くと、ほとんどのヤツは『悪くないね』くらいで済ますけど、あいつは『やばい! 最高!』なんて言ってくれる。リアルに、心から反応してくれる」と話していた。
私自身も、他のアーティストの話になると、「プレミアは神だ!」「ピノ・パラディーノはやばい!」「プリンスはマイ・マザー●ッカー」と興奮して饒舌になるディアンジェロの姿を見て、新鮮な驚きを覚えた一人だ。初来日時、ディアンジェロは日本人のミュージシャンにも自ら挨拶しに行っていたとリーズ氏に伝えると、「彼らしいなあ。どんなジャンルであれ、素晴らしい音楽を作って成功している人に対して、彼は敬意を示す」と、その行動に納得していた。
音楽業界は、コミュニケーション強者や駆け引き上手がしのぎを削る弱肉強食の世界だ。裏返せば、自分に利益がない者に関わる時間は無駄だと考えられることも多い。しかしディアンジェロには、そういう垣根があまりなかった。『Voodoo』リリース前に再会した時には、開口一番「また会うと思ってた」と言って笑い、2015年のある公演の後には、「ステージから見えてたよ!」と話しながら、真剣に目を見てこちらの話を聞いてくれた。
私の印象を裏づけるがごとく、リーズ氏も「彼は過去のクルーについてもよく話をする。キャリアを助けてくれた人だけではなく、数カ月ツアーに同行したセキュリティのことまで気にかけるんだ。『あいつ何してるかなあ。誰か、彼と喋った人はいる?』なんてね」と教えてくれた。そんなに大勢の人を気にかけていたら、エネルギーを使いすぎてしまうだろう。だからこそ、名声を得てからは、なるべく人を遮断せざるを得なかったのかもしれない。
正直さと不器用さ
また、謙虚さと同時に思い出すのは、その正直さと不器用さだ。通常、アーティストはどんな質問にもそつなく答えるが、ディアンジェロの場合は、「え、それは答えたくない……」「あ、それは話しちゃいけないって言われてる……」と、真っすぐな答えを返してきた。「ディアンジェロは遅く生まれすぎた」とジョークにされるほど昔気質で、名声にはこれっぽっちも興味がなかった。
2015年の時点でケンドリック・ラマーとのツアーの話が出ていたというのに実現には至らず、実入りの良い大企業向けパフォーマンスの話が来ても、高額なギャラに見向きもせず断ってしまう。スピリットが動かなければ、首を縦に振らない。その才能をビジネス面でも最大限に活かしたいと関係者たちは、もどかしさを感じていたことだろう。
スピリットは、ペンテコステ派の教会で育ったディアンジェロにとって生きる上で欠かせない要素だった。ジェシー曰く、「あそこは音がまるで宇宙みたいに響く。プラグを挿すだけで別世界の音が出る」というエレクトリック・レディ・スタジオで、ディアンジェロは『Voodoo』のレコーディング中に「ジミ(・ヘンドリックス)のスピリットを感じた。ジミがいるって分かった」と話してくれた。
また、リーズ氏によれば、ロックスターが観客に与える影響力が怖いとも語っており、スピリチュアルな点でそれは非常に恐ろしいことだと考えていたという。名声を得た後のディアンジェロには、その影響力のもたらす「恐怖」が常について回った。
しかし、世間の流れに乗ってうまく立ち回れないこの不器用さが、逆に人々を惹きつけた。普通のアーティストにとってはキャリア最高になり得る楽曲でも、納得がいかなければボツにしてしまう。完璧主義ゆえになかなか曲を完成できないというジレンマを抱えていた彼のもとには、その天才性を昇華させようと、屈指のミュージシャンが集まった。謙虚さと不器用さを兼ね備えたディアンジェロは、人間的な魅力を強烈に放っていたのだろう。
例えば、『Black Messiah』収録の「Really Love」のスペイン語部分は、元恋人のジーナ・フィゲロアが担当している。そして同曲を共作したケンドラ・フォスターは、当時ディアンジェロにとって大切な人だったはずである。そんな女性を2人、盤上で共演させるなんて、2番目、3番目、4番目の妻と一緒に写真に収まっていたモハメド・アリのようではないか……。
普通の黒人青年
音楽的には天才だったが、それ以外は弱点や闇も抱えた普通の人間。ブラック・ネイバーフッドに住んでみて、ディアンジェロとの初対面で感じた「普通の黒人青年」という印象に間違いはなかったと確信した。筋骨隆々な腕をさらけ出したいかついタンクトップ姿で威勢よく歩いていたかと思うと、年配のご婦人に気づいてドアを開け、「ありがとう、ヤング・マン」と声をかけられる青年。バス停に並んだ女性たちに「お先にどうぞ」と言えず、女性全員が乗るまで、そっぽを向いて待ち続ける少年。我が家にある機材の数々を見て、「夢みたいな部屋だね!」と目を輝かせる、両腕をタトゥーで埋めたドレッドヘアの若者。「男は泣けないから、ゲームで感情を爆発させるんだ!」と朝方までゲームをしていたクラスメイトたち(ディアンジェロもゲーマーだった)。ディアンジェロは、音楽業界で活躍する黒人男性よりも、こうした市井の人々に近かった。彼はたまたま、途方もない音楽の才という重荷を背負わされてしまっただけなのかもしれない。
メインストリームでの名声を得た後も、ディアンジェロのブラックネスは揺らがなかった。警察による暴力を語った「The Charade」のパフォーマンスでは、トレイヴォン・マーティン、エリック・ガーナー、マイケル・ブラウンに哀悼の意を表した。
彼は「どんな要素が入ろうと、僕がやっているのはブラック・ミュージック」とデビュー当時に語っていたが、その志を最期まで貫いた。彼のスピリットは常に、エヴリデイ・ブラック・ピープルーー黒人の庶民とともにあった。そして黒人ではない私たちにも、一生聴き続けられる音楽を与えてくれた。そしてひとつの教訓も。私たちは完璧でないからこそ、人間として完璧なのだ。
Written By 押野素子
*以下は押野さんご提供のライブでの写真
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