U2はいかにして“U2の音”を作ったのか? サウンドの変遷を追う:9年ぶり新作発売記念連載④
U2の16作目のスタジオ・アルバムにして、9年ぶりの全編新曲『Carnaval De Luz(邦題:光の祝祭~カルナバル・デ・ルス)』が2026年11月13日にリリースされることが発表された。
この発売にあわせて、元ロッキング・オン編集長であり、U2を追い続けてきた宮嵜広司さんに様々な角度で長期連載として寄稿いただきます。第4回はU2のサウンドについて。
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わたしたちがU2と聞いて思い浮かべるのは、どんな音だろうか。民衆の行進をけしかけるような力強い太鼓の轟きだろうか。路地裏のクラブに木霊している重低音の弦の揺れだろうか。それとも独り内省の果てにたどり着いた場所で聴こえてくる、文字通り永遠の響きだろうか。
ここに挙げたのはどれもがすぐさま脳内再生できる、まさに彼らのシグニチャー・サウンドばかりだ。だからこそ逆に、ここまで色合いの異なるサウンドがひとつのバンドから鳴らされてきたことにあらためて驚かされる。U2は50年のキャリアを一芸を極めるために費やしてきたわけではない。むしろ、4人のロック・バンドがどれだけ自分たちの音、そしてロックの音の可能性を拡げられるか、そのトライ・アンド・エラーが彼らの軌跡だった。
パンクだったデビュー時代
結果的に高い目標と結果を積んできたU2だが、その始まりは、いたって普通のティーンエイジャーたちの集まりだった。とにかくバンドをやってみたかったけど、誘ってきた友達がギターをやるというからやむなくベースを買ってしまったアダム・クレイトンと、ピアノ教室の帰りにみた老ドラマーのプレイに引き寄せられドラムへの転向を親に頼んだラリー・マレン・ジュニアと、7歳のときに買ってもらったギターをあまりにも毎日弾きまくるので母親から怒られていたジ・エッジと、最初期のジャム・セッションの場でそのジ・エッジからほとんど一発でギターが上手くないと見抜かれていたボノ。
そんな彼らのスタートは、あまりにも音楽的バックボーンに欠けていたし、何より技術が追い付いていないものだった。しかし、幸運なことに時代はパンクだった。
「転機の瞬間は、『トップ・オブ・ザ・ポップス』でザ・ジャムを観た時だ。楽器の弾き方を知らないのはあまり問題じゃない。こうしたバンドは非常にシンプルな曲を、僕らが普段やっているように全身全霊を込めて、適正なテンポより10倍速く、細かいことなんか全く気にせずに、演奏していた」
(ジ・エッジ:『U2 by U2』より)
1970年代後半のロック・シーンに突如現れたパンクは、幼き当時のU2にとって何よりもまず、「エネルギーさえあればいい」というメッセージとして受け止められた。そして、なかなか上手くいかないリハーサルよりも実際のライブで勢いのままの演奏が観客を魅了するのを目の当たりにしていた彼らが、後にファースト・アルバムとしてまとめられる『Boy』のサウンドをあのようにダイレクトでエネルギッシュな世界にしたのは、必然だっただろう。
しかし、それだけではなかった。
ボノがピンク・フロイドの『Animals』からヒントを得てジ・エッジにエコー・ユニットの導入を勧めたことは、ボノ曰く「交響曲付きのパンク・ロック」だったし、そのジ・エッジ自身も「ポリスなんかがちょっとだけ持ち込んでいたけど、他で耳にしたことはなかった」ハーモニクス奏法を活用することで、このバンド特有のスタイル作り、つまりはU2らしさは徐々にしかし着実に形成されていった。そして「I Will Follow」を完成させたとき、ジ・エッジは「自分たちが本当に何かスペシャルなものを掘り当てた」と思えたそうだ。
そんなU2の初めてのシングル・ヒットがとにかくドラム・サウンドが飛び抜けて印象的だったのも面白い。イントロから終わりまで、ラリーのマーチング・バンドさながらのドラムが鳴り響く「Sunday Bloody Sunday」は、ジ・エッジのギター、アダムのベース、ボノのボーカルと、それぞれの「個」がそれぞれに自分の音をついにモノにした感もあって、初期U2を象徴するナンバーとなった(余談だが、ラリーはU2を始める前に郵便局員たちのバンドに加わりマーチング・バンド式のドラムを叩いていた時期がある。なお、この曲のヴァイオリンは、ジ・エッジがある日ギターを持ってバス停にいた際、突然話しかけてきた若きヴァイオリニストの演奏だ。彼=スティーヴ・ウィッカムはU2を知っていて「アルバムにヴァイオリンを入れることを考えたことある?」と提案してきたのだとか。その出会いから3日後、彼はU2が作業していたスタジオに呼ばれ、たった半日でレコーディングを終えている)。
磨かれ丸みを帯びたサウンド
「僕らの頭にあったのは、ビッグな音楽を作るということだった。それが、僕らなんだ。僕らはインディ・バンドじゃない。僕らは惨めじゃない。僕らは喜びに満ちている。そして、フィル・スペクターが停止したところから先を、僕らが引き継ぐんだ。ビッグなアイディア、ビッグなテーマ、ビッグなサウンド。僕らはリスクを冒すし、ロック・バンドがいかに柔軟になれるかを証明するんだ」
(ボノ:『U2 by U2』より)
『The Unforgettable Fire』に挑む当時のバンドのモードが集約された言葉だろう。それまで触れるもの全てを傷つけんとばかりに尖っていたサウンドは、新たなプロデューサー・チーム(ブライアン・イーノとダニエル・ラノア)によって丁寧に磨かれ丸みを帯び、ロキシー・ミュージック由来のヨーロッパな香りも漂わせつつ、かつてない深さを獲得していた。
その方向性は、続く『The Joshua Tree』でさらに追求された。「Where The Streets Have No Name」では、ジ・エッジのディレイ・ギターの効果が曲そのものの構造となっていて、ラリーのドラム、アダムのベースとともに力強く高みへと昇っていく。
そして、彼らにとって初の全米ナンバー・ワン・シングルとなった「With Or Without You」では、U2サウンドの代名詞とでもいうべきインフィニット・ギターが披露されている(インフィニット・ギターを作ったのは、テクニカル・ギターの権威マイケル・ブルックだったが、彼とジ・エッジは映画『Captive』のサウンドトラックで出会っている。なお、インフィニット・ギターとは、音を無限に持続させることを目的に考案されたもので、ピックアップからの信号を増幅し、別のピックアップ・コイルに戻す電子回路で構成されている)。
独自の音の武器をいくつも持つようになり、シングル、アルバムともに世界的成功を収めるようになったこのときのU2が、その陰で、逆に音楽の勉強を強いられるような挫折を味わっていたことも興味深い。
学習の必要性を知らしめたのは、今一番ホットなバンドのライブを観ようとゲスト・リストに名を連ねた先輩ミュージシャンたちで、彼らはライブ後の打ち上げに付き物のジャム・セッションで、U2がいかに「ルーツに疎いか」を嫌というほど思い知らせた。「古典」を通っていれば難なくセッションに加われる。「ルール」を知っていれば目配せだけでグルーヴを生み出せる。
ディランやストーンズのメンバーたちとの光栄な時間は、パンク出身でアートスクールにも通っていないU2には、自身の音楽的素養の貧しさを突きつけるものだったに違いない。パンク仕込みのDIY精神でなんとか音楽をこしらえてきたU2は、だからこそ立つことのできた世界の頂点で、いちから音楽の勉強を始めた。ロックの源流としてのアメリカン・ルーツ・ミュージックを探求したそのドキュメントが『Rattle And Hum』に記録されているのは周知の通りだ。そして、このとき学んだロック・ミュージックの教養は、その後のU2のキャリアを間違いなく助けたと思う。
90年代:グラム・ロックとエレクトロニカ
1990年代のU2の音を大雑把に一言で言えば、グラム・ロックとエレクトロニカになるだろう。アコースティック・ギターを大事そうに抱え、実直こそ正義のサウンド作りを身上としていた敬虔なルーツ・ロックの信者たちは、20世紀最後の10年間を迎えて、突如ギラギラのグリッター・サウンドを弾き散らかし、マッドチェスターよりもダンスしようと奮闘し、あげくエレクトロニカ・サウンドに仮想現実の夢を見ていた。「Even Better Than The Real Thing」はまだかろうじて「わたしたちの知っている1980年代U2」の痕跡を感じとれるが、「Mofo」まで行くともうケミカル・ブラザーズの方が親戚だった。
カオティックだったこの10年で、個人的にもカオスを経験していたであろうアダムのベースについては触れておきたい。「Mysterious Ways」で聴くことのできる彼のベースの重さとうねりは、表層に戯れたこの時期のU2が逆に(例えラリっていたとしても)どれだけシリアスだったかを示しているかのようで、実にエモーショナルだ。
等身大の個へ
「僕らは、もう一度バンド・サウンドを聴きたいと感じるようになっていたんだ」ーーそうジ・エッジが述懐したように、新世紀を迎えたU2は、ロック・バンドの定型を極限まで破壊した1990年代の企画書を閉じることにした。
白塗りの悪魔から等身大の人間へ。そうして作られたのが彼らにとってもうひとつのメガヒット・シングル「Beautiful Day」で、この曲でジ・エッジは、1980年代前半以降レコーディングではいっさい使ってこなかったギブソンのエクスプローラーを引っ張り出している。
ジ・エッジはこのギターを手にした当時を振り返って「エクスプローラーは何か訴えかけてくるような感じがしたんだ。エクスプローラーの中には楽曲が宿っているな、と感じたんだ」と語っているほどで、初期のU2に多大な貢献があったことを認めている。しかし、だからといって新世紀のU2が単純な原点回帰を選んだわけではなかったのは、同曲全編にわたってドラム・マシーンが使用されていたことからも明らかだ。
ひょっとすると、すでに20年以上のキャリアを積んできていた当時のU2からすれば、新作制作をモチベートする起爆剤のひとつとして自らの過去すらも活用したということだったのかもしれない。これもメガヒットとなった「Vertigo」には、1stアルバム『Boy』収録の「I Will Follow」からギター・フレーズが、同じく「Stories For Boys」から「Hello Hello」のボーカル部分が引用されていた。過去の音に戻りたいわけではなかった。先に進むために過去の自分たちのエネルギーを参照したのだ。
原点を見つめるという意味では、ボノにとっても大きなタイミングがあった。長年確執のあった父親との関係が大きなテーマとなっていたアルバム『How To Dismantle An Atomic Bomb』に収録された「Sometimes You Can’t Make It On Your Own」には、「You’re The Reason I Sing, You’re The Reason Why The Opera Is In Me (「あなたこそが、僕が歌う理由。あなたこそが、僕の中にオペラが息づいている理由」)」という歌詞がある。
ボノは自分の声を女性的だと評していて、およそパンク・バンドには似つかわしくないタイプだと自認していた。そして、歌い方にしてもロックというよりは時にオペラ歌手を思わせてきた。決して親密とは言えなかった父親はアマチュアのテノール歌手で、家ではオペラのレコードがしょっちゅうかけられていたという。自分の声の先にずっと感じていた父親の影をついに認めたこの歌は、あまりにオペラ的であり、あまりに感動的だが、その独特な声質と歌唱法が、U2サウンドを何よりも特別にしてきたことがあらためてわかる曲になっている。
直近の作品を振り返っておくと、『Songs Of Innocence』は、まさにU2はいかにしてU2の音を作ったのか、自らによるバンドとロック史の相関関係に焦点をあてた作品で、続く『Songs Of Experience』は、得てきた経験値を円熟という形で提示した作品だった。『Songs Of Surrender』を聴けば、コロナ禍の世界がどんな音だったか、全ての人類が内省を強いられていた当時の音がする。
そんなふうに、U2は常にU2の音を時代と自己との摩擦として鳴らしてきた。その軋む音に、唯一無二のリアルがあった。とすれば、来たるニュー・アルバムもそういうことだろう。それは間違いない。
Written By 宮嵜 広司
U2『Carnaval De Luz』
2026年11月13日発売
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