ベック『Morning Phase』:トリックスターから真のシンガー・ソングライターへと完全に羽化した瞬間

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ベック(BECK)が、2026年9月18日に7年ぶりのニュー・アルバム『Ride Lonesome』をリリースする。グラミー賞を受賞した2019年の『Hyperspace』以来となるこの新作アルバムでは、ベック自身がプロデューサーを務め、長年のコラボレーターであるナイジェル・ゴッドリッチがミックスを手がけている。

そんな新作につながると言われている1枚の『Sea Change』(2002年)に続いて、もう1枚にしてグラミー賞最優秀アルバムを受賞した『Morning Phase』(2014年)についてライターの粉川しのさんに解説いただきました。

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ベックの通算12作目のオリジナル・アルバム『Morning Phase』を今こうして聴き返す時、思い出すのはやはり2015年2月のグラミー賞授賞式の光景だ。本作で同年の「最優秀アルバム賞」を受賞し、敬愛するプリンスからトロフィーを手渡されたベックは少し戸惑っているように見えたし、本命視されていたビヨンセの敗北への抗議もこめて、カニエ・ウェストがステージに乱入しかけるハプニングもあった。

そう、『Morning Phase』のグラミー受賞は図らずも当時の音楽シーンに生じていた分断と、その中でベックが成し遂げたことの特異性を象徴するシーンだったと言える。

 

オルタナ斜陽の時代での最高の栄誉

2010年代初頭から半ばにかけてのポップ・ミュージック・シーンは、めまぐるしく変動し続けてきた。EDMがフェス・カルチャーを飲み込み、巨大ビジネスとしてメインストリームを制覇。ポップスはより刺激的なドロップと高速BPMを求め、同時にストリーミング・サービスが本格的に普及し始めたことで、「アルバム」というフォーマットから「プレイリスト」へ、リスニングマナーの移行が急速に進んでいた時期でもある。

EDM、ヒップホップ、そしてR&Bがポップ・ミュージックの絶対的主導権を握る一方で、オルタナティヴ・ロックは明らかな、そして何年にも及ぶ不振に喘いでいた。メインストリームで生き残るために、多くのロックバンドがシンセサイザーを多用し、時にはギターすらも諦めながらポップ化を果たしていき、ロックがポップのニッチないちジャンルと化したのもこの頃のことだ。売れるためにはR&Bのグルーヴがほぼ不可欠になり、オルタナティヴ・ロックは急速にシュリンク。逆に、極端にアンダーグラウンドなインディー・シーンへの退避も進んだ。

そんな逆風の時代に、ベックはアコースティック・ギターの静かな爪弾きと、周りの激動に何一つ動じない悠久のテンポ、そして壮麗なオーケストレーションだけで構成された『Morning Phase』をリリースしたわけで、ともすれば時代錯誤の遺物、現実逃避、オルタナティヴの敗北宣言のようにすら響く可能性もあっただろう。しかし、結果として本作はノイズだらけの時代を静かに貫き、グラミーという最高の栄誉を手にするに至ったのだ。

 

リハビリであり魂の再生の記録

ちなみにベックが2014年にこれほどまでに内省的で、静かな湖畔のようなアルバムを作ったのは、単なる音楽的な揺り戻しや、気まぐれなモード・チェンジではなかった。そこには非常に個人的な、そしてどうしようもないほど辛い肉体的な事情があった。2008年の『Modern Guilt』リリース後、彼は脊椎に重篤な損傷を負い、激しい痛みに苛まれる日々を送っていた。一時期はギターを持つことすら困難な状態に陥り、もちろん歌って踊るエンターテイメントなライブなんて、当時の彼には到底無理な話だった。

つまり、ベックが『Morning Phase』で自身の内側の最も深い場所に向き合うことになったのは、この絶望的な現実の痛み、そして精神的な停滞の中で避けざる結果だったと言えるだろう。本作における夜明けを待つような祈りのサウンドは、ベックの文字通りの意味においてリハビリテーションであり、魂の再生の記録であった。

腰や背中に激痛を抱えたその肉体的な制約が、必然として音数の少ないアコースティックな表現へと彼を導いたのは想像に難くない。本作はしばしば2002年の傑作『Sea Change』の精神的な続編としても語られる。実際、ベック本人もかつて『Morning Phase』で『Sea Change』の内省的な流れへと立ち返ったと語っており、レコーディングには最新アルバム『Ride Lonesome』でも再結集した馴染みのミュージシャンたちが集められた。

しかし、この二枚のアルバムの根底にあるベクトルは似て非なるものだ。『Sea Change』が長年のパートナーとの破局という喪失から生まれ、前回のコラムで書いたように「移動しているのに、どこにも行けない」という奇妙な停滞感、全てが失われた後の「空白」を鳴らしていたアルバムであるのに対し、『Morning Phase』に流れているのは、深い闇の底から見上げる回復と希望への微かな、しかし確かな渇望なのだ。

アルバム前半のムードを決定づける「Morning」は、まさに冷たい夜を耐え忍んだ後にようやく差し込んだ、柔らかな朝陽そのものだ。深いリバーブに柔らかく包まれた空間に響くアコギと、何層にも重ねられたコーラスには温かな血が通い、彼の苦痛を癒していく肯定感に満ちている。「Heart Is a Drum」では、ニック・ドレイクを彷彿とさせるフォーキーなアルペジオに乗せて、心臓の鼓動(drum)を確かめるように、再び自らの足で歩みを進める生命力が歌われる。

ファーストシングルだった「Blue Moon」の響きも特筆すべきだ。マンドリンの音色も美しいこの曲は、『Sea Change』がそうだったような、果てしなく孤独に宇宙を漂うような感覚を描きながらも、「僕をひとりぼっちにしないでくれ」と他者との繋がりを強く希求している。

例えば『Sea Change』の「Lost Cause」が孤独と喪失を諦念で受け入れた先の漂白された美しさだったのに対し、「Blue Moon」のベックはジタバタと諦めが悪く、必死に外の世界へと手を伸ばそうとしているのだ。

そしてアルバムの終着点の「Waking Light」では、長く抑制されていた感情が遂に決壊するかのように、うねるシンセサイザーと力強いエレクトリック・ギターのソロが、ベックの感情の堰を切った奔流となって鳴り響く。言うまでもなくそれは、「朝」を完全に迎え入れた勝利のフィナーレだ。

 

新作に連なる『Sea Change』と『Morning Phase』

2026年現在、ベックが再びかつての馴染みのミュージシャンたちを集結させ、『Sea Change』の流れを汲むニュー・アルバム『Ride Lonesome』を聴いた後では、そんな『Morning Phase』が彼の全キャリアにおいて果たした役割が、より鮮明に浮かび上がってくるのではないか。

ポストモダンなポップ・スターとして生きた90年代、そんな彼が素顔で歌い始めた2002年の『Sea Change』を経て、傷ついた肉体から絞り出すように生み出された『Morning Phase』は、この極めてパーソナルで生々しい表現スタイルを、ベック自身の表現の確固たるコアとして世界に完全に認知させたのだ。

1996年の『Odelay』を筆頭に、ベックの過去のグラミーは全てオルタナティヴ・ロックとして評価されたものだった。そんな彼が自身の傷と向き合い、流行の音を一切纏うことなく、声と楽器と普遍的なソングライティングのみで象られた『Morning Phase』でジャンルを超え、グラミーの頂点を極めたのは、ベックというアーティストが時代のトリックスターから、時代を超越する真のシンガー・ソングライターへと完全に羽化した瞬間であった。

Written By 粉川しの


ベック『Morning Phase』
2014年2月21日発売
iTunes Stores /Apple Music / Spotify /Amazon Music / YouTube Music


新作アルバム

ベック『Ride Lonesome』
2026年9月18日発売
CD&LP / iTunes Store / Apple Music / Spotify / Amazon Music / YouTube Music



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