85歳を迎えた世界的ピアニスト、ウラディーミル・アシュケナージの魅力とは?

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©Sasha Gusov

2022年7月6日に85歳を迎えたデッカ・レーベルを代表する音楽家、ヴラディーミル・アシュケナージ。ピアニスト、そして指揮者としても、卓越した技術と磨き抜かれた音色でデッカ・レーベルに数々の名盤を残した。2020年にコンサート活動から引退を表明し、多くのファンからその引退が惜しまれた彼の魅力とは?ピアニスト、音楽ライターの長井進之介さんによる寄稿。


ソビエト連邦出身のピアニストであるウラディーミル・アシュケナージは、間違いなく20世紀後半の最も傑出したピアニストの一人に挙げられる。小柄で、手は決して大きくはないのにも関わらず、非常に幅広いレパートリーを誇り、技巧的に極めて難しい作品でも、決してそうとは感じさせない演奏で聴衆に大きな感動を与えてきた。

基本的に手が大きなピアニストのレパートリーとなっているラフマニノフも得意とし、“世界一難しいピアノ作品”と評されたこともある「ピアノ協奏曲第3番」は4度録音しているほどだ。透明感があり、ふくよかな響きをもつ音色が魅力だが、おそらくそれは、非常に肉厚で太い指によって生み出されているのであろう。強弱の幅が広く、非常にドラマティックな音楽づくりをするが、彼の場合それが決して大仰にはならない。卓越した技巧が自然な音楽運びを実現し、広範にわたるレパートリーのどの演奏についても完成度の高い演奏を聴かせてくれるのである。

Photo: Decca Vivianne Purdom

彼はエリザベート王妃国際音楽コンクールにチャイコフスキー国際コンクールで優勝を果たしているが、世界にその名が知れ渡るきっかけとなったのは、1955年の第5回ショパン国際ピアノ・コンクールであろう。冴えわたる技巧に美しい音色、気迫に満ちた演奏は圧倒的なものがあった。最終的には第2位という結果になったが、それを不服とした審査員の1人であるアルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリが審査結果にサインしなかったことは、今でも語り継がれている。順位については政治的要因が絡んでいたため、本人にとっても、審査員や聴衆にとっても満足のいくものではなかったが、確認できる音源でショパンの練習曲集の中でも特に難曲として挙げられる作品25-6の練習曲の演奏を聴くだけでも、彼の圧倒的な技術、比類なき美しさというものが感じられる。

1970年代からは指揮者としても活躍し、徐々にピアニストとしての活動が減っていたところ、2020年1月17日には公の場での演奏活動引退を宣言してしまったアシュケナージ。今年の7月に85歳という年齢を迎えたが、昨年(2021年)リリースされたバッハの「イギリス組曲」では、冴えわたる技巧とより深みを増した音色を聴くことができる。公開演奏では叶わなくなってしまったが、これからも録音を通して彼の音に様々な楽曲で出会えることを切に願うばかりである。

本記事では、生誕85周年を記念してリリースされたベスト盤からおすすめしたい音源をご紹介する。(もちろんどれも“名演”であり、選択は恐ろしく困難だが、筆者個人の思い入れも含め、5つセレクトしている)

ショパン:スケルツォ 第2番 変ロ短調 作品31

個人的なことで恐縮だが、筆者が小学生の頃、初めてCDでアシュケナージの音に出会ったのが、1967年録音の『バラード&スケルツォ』であり、まさに本ベスト盤に収められたこの演奏であった。今回これが収められたことを非常に嬉しく思う。全体を通して輝かしい音色によって奏でられ、その音色によって美しくのびやかに歌われる旋律が魅力的。アシュケナージの演奏の特徴でもあるが、強弱のコントラストの烈しさがここでも存分に発揮されており、それがスケルツォの“気まぐれ”な雰囲気を見事に表している。そして中間部から再現部にかけてのゾクゾクさせられる盛り上げ方と、爽快なまでに速いテンポで終結部へと向かっていくクライマックスには魅了されずにはいられない。

ショパン:練習曲第23番イ短調作品25の11《木枯らし》

ピアノを弾くものはもちろん、聴くことが大好きな方であれば、ショパンの練習曲集に何らかの形で出会うことであろう。そして数多く存在する音源の中でもアシュケナージのものは“必ず聴くべきもの”として挙げられる一つである。全体を通して非常に速いテンポでありながら、音の一つ一つがクリアに響いており、しかも旋律の歌いまわし、和声の変化も非常に丁寧に行われている。技巧の精度の高さはもちろん、ショパンの練習曲が“演奏会用練習曲”であることを改めて実感させられる豊かな音楽性も湛えているのだ。彼の「木枯らし」は、パッセージの鮮やかさはもちろんだが、繰り返される主題の旋律が奏されるたびに様々な表情を見せ、音色の変化にも富んでおり、ピアノという楽器の様々な可能性も見せてくれるのである。

ショパン:ポロネーズ 第6番 変イ長調 作品53《英雄》

この曲は演奏者によってテンポがかなり異なるが、アシュケナージはこの曲をショパンコンクールでは5分台で弾き切ってしまったということでも話題を呼んだ。ここに収められたものは1984年の演奏であり、さすがに5分台とはいかないものの、それでもテンポとしてはかなり速い方に位置する。ショパンの作品の中でも特に有名なもののひとつであり、解釈も多様であるが、粒立ちの美しい音色、爽快なテンポ、低音の豊かな響きにオクターヴの力強さなど、アシュケナージが奏でる「英雄」は、英雄らしい英雄を鮮やかに描きだしているように思える。

ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ 第21番 ハ長調 作品53《ワルトシュタイン》

アシュケナージといえばショパンやラフマニノフ…というイメージが強いかもしれないが、ベートーヴェンの録音も多い。実施、ピアノ・ソナタとピアノ協奏曲については全曲録音を行っている。力強さと繊細さの両方をあわせもつ音色、楽曲の明晰な理解とが見事に合致したアシュケナージの演奏は、ベートーヴェンとの相性も非常にいいのである。「ワルトシュタイン」で、アシュケナージは大袈裟な表現や、驚くような変わった解釈などはしていない。しかし、旋律の丁寧な歌いまわし、ハーモニーの変化の多彩さなど、細部で様々な工夫が凝らされており、それが新鮮さを生み出している。端正な音楽づくりの中に散りばめられた様々な表情を味わうことができる演奏だ。

ラフマニノフ:ヴォカリーズ 作品34の14

ショパンと共にアシュケナージが力を入れていたのがラフマニノフの演奏である。ラフマニノフのピアノ独奏曲のほとんど、そして協奏作品のすべてをレパートリーとしており、そのどれもが高い評価を受けている。アシュケナージの音色は奏でられた瞬間の美しさはもちろんだが、残響の豊かな“ふくよかさ”も魅力だ。だからこそ旋律性豊かな作品においてその力を存分に発揮する。そしてこの「ヴォカリーズ」は原曲が声楽のための作品であり、まさにアシュケナージのピアニズムの美質が存分に発揮されたものとなっている。主旋律と伴奏部のバランス、音色のコントラストも見事で、ピアノという楽器を歌わせることについて卓越した存在であることを改めて実感する。

Written By 長井進之介


■リリース情報

『ヴラディーミル・アシュケナージ ベスト』
2022年7月6日発売
CD / Apple Music / Spotify /Amazon Music


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