葛飾北斎とドビュッシーの《海》など、ジャポニスムに影響を受けたクラシック音楽作品

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日本人の作曲家たちは西洋美術や音楽からたくさんの着想を得て音楽を発展させていったが、日本も西洋に大きな影響を与えていた。それがフランスを中心にヨーロッパで見られた日本芸術が与えた影響を指す「ジャポニスム(仏: Japonisme)」である。これは1867年のパリ万博に幕府と、薩摩・佐賀両藩が出展したことを契機として広まった。

葛飾北斎(1760-1849)や、国貞、国明、国芳、広重ら“歌川派”による浮世絵の空間表現や浮世絵の鮮やかな色使いは当時の画家たちに強烈なインスピレーションを与え、フィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890)やポール・ゴーギャン(1848-1903)らは浮世絵をモティーフとした作品を描き、モネたち印象派の画家は遠近法を回避して浮世絵の平面分割法を参考にした作品を描き、「アール・ヌーヴォー」への道を開いていった。やがてそれは音楽にも広がっていく。

カミーユ・サン=サーンス(1835-1921)が1873年に初めてのオペラ《黄色い王女》を書くなど、その影響は早い段階で現れだしたが、サン=サーンスの作品は題材こそ日本の王女だが、響きは中国風になっているなど、多少の誤解が見受けられるものであり、まだまだ本来の日本の美を描いたものとはいえなかった。真の意味で音楽に「ジャポニスム」をもたらしたのはクロード・アシル・ドビュッシー(1862-1918)である。

多くの日本美術をコレクションした彼は、自作品にその美を巧みに溶け込ませていくことに成功した。中でもそれが結実したものと言えるのが交響詩《海》である。今回はこの《海》をはじめ、ジャポニスムに影響を受けて生まれた作品をご紹介していく。音楽ライター 長井進之介さんによる寄稿。



ドビュッシー:交響詩《海》

ドビュッシーは、「ジャポニスム」を正式に採り入れた最初の西洋音楽家である。多くの詩人や画家と交流を持ち、様々な芸術を愛した彼は、「音楽と同じくらい絵が好き」と語っており、アンリ・ルロール(1848-1929)やモーリス・ドニ(1870-1943)といった画家と交流をしはじめ、イギリスのラファエル前派といった同時代の芸術に影響を受けて作曲も行っていた。

さらに東洋の文化に敏感に反応し、また日本美術をはじめとする東洋の品々のコレクションにも意欲的であった。特に日本美術には高い関心を示し、サロンの暖炉の上には仏像が置かれ、仕事机のまわりには竹製の矢立てや鍋島のインク壺、鯉の模様のたばこ入れといった収集品が置かれていた。そして書斎には葛飾北斎の「冨嶽三十六景・神奈川沖浪裏」が飾られていたのである。これはストラヴィンスキーがドビュッシーを訪ねてきた折に撮影した書斎の写真の後方を見ると確認することができる。

3曲から成る交響詩《海》は、葛飾北斎の「冨嶽三十六景・神奈川沖浪裏」に影響を受けて作曲されたとされている。それは楽譜の初版の表紙に、本人の希望によって「冨嶽三十六景・神奈川沖浪裏」が採用されていることに由来する。

この表紙画では「神奈川沖浪裏」のほぼ左半分のみを扱い、海原のはるか向こうに富士山が描かれる右半分はカットされている。表紙に収めるための問題など様々な要因はあるだろうが、あえて重要な存在となる富士山を排し、波打つ海に焦点を当てることで、北斎の浮世絵そのものを写実的に描こうとしたのではなく、作品から得たインスピレーションを音で描き出したということを表していたのかもしれない。

ドビュッシーは「音楽家でなかったら船乗りになっていただろう」と語るほど、生涯にわたって海への憧れを抱き続けていた。そんなドビュッシーが、海の様々な印象を音楽で表現したのが3曲から成る交響詩《海》である。楽曲を聴いていくと、海そのものの姿を音で表したというよりも、海が様々に姿を変えていく様子を描きだし、音楽構造の新しい探求のヒントを得て、海とその周辺の情景、そしてそれを眺める自身の間で流れる時間を、音を用いて追いかけていったものだと見ることができる。

ラヴェル:《鏡》より〈洋上の小舟〉

19世紀末から20世紀初頭にかけて、個人の感情や他芸術から受けたインスピレーションとの融合を目指した「ロマン派」の音楽に対する反動が起こり、詩や絵画から受けた印象を音楽で感覚的に表現することが行われるようになっていった。

その代表的存在であったのがドビュッシーとモーリス・ラヴェル(1875-1937)であったが、彼もドビュッシーと同様、自宅に浮世絵を飾るなど日本の美術への関心が高い作曲家であった。さらに全5曲のピアノ曲集《鏡》の第3曲〈洋上の小舟〉も、ドビュッシーの《海》と同じく、北斎による「富嶽三十六景・神奈川沖浪裏」に着想を得て作曲された。しかし彼の視点はドビュッシーとは違う。

描かれた大海や奥に見える富士山ではなく、波に翻弄される3隻の舟にラヴェルは目を向けたのであった。打ち寄せる波に揺られる舟の様子だけでなく、それを眺める人の心情の移ろいすらも描き出したかのように、曲は繊細ながらも心を強く動かされるものがある。

ドビュッシー:《映像》第2集より〈金色の魚〉

ドビュッシーは、パリ万博前後に、日本の金蒔絵の、2匹の錦鯉が描かれた箱を入手した。この箱は、ドビュッシーが亡くなるまで書斎の机上に飾られていたといわれているが、この蒔絵からの着想を得て書かれたとされるのがピアノ曲集《映像第2集》の第3曲である〈金色の魚〉だ。

小さな水槽を泳ぐ金魚や大海を泳ぐ魚ではなく、川や池を華麗に泳ぐ鯉を描くために、ドビュッシーは華やかなピアノ技法をふんだんにつぎ込み、また高音を効果的に利用することで、蒔絵の輝きも見事に描き出している。

トゥルニエ:《古き日本のパステル画》より〈聴く者なき琴うた〉

20世紀最大のハープ奏者の一人であったマルセル・トゥルニエ(1879-1951)はドビュッシーの影響を受けた作曲家である。優れたハーピストであり教育者でもあった彼の作品はほとんどがハープのためのもので、高度な技巧と楽器の効果を最大限に発揮する豊かな響きに満ちている。全3曲から成る《古き日本のパステル画》は1948年、トゥルニエの愛弟子で、日本のハープ界を牽引した存在である阿部よしゑ(1904-1969)のために作曲された。

明確な記述はないものの、タイトルは浮世絵を表したものだとされている。日本の民謡や音階が明らかに使用されているわけではないため、「ジャポニスム」に影響を受けたとは言い難いが、特にこの〈聴く者なき琴うた〉は日本の伝統楽器である琴の音色を西洋の響きに取り入れようとした工夫がみられ、少ない音数で空間や静寂を描きだしていく音づかい、どこか懐かしさを覚える曲想によって日本ならではの静かな美を描き出している。

 

プッチーニ:歌劇《蝶々夫人》より〈ある晴れた日に〉

ジャコモ・プッチーニ(1858-1924)の歌劇《蝶々夫人》は、長崎を舞台にした没落藩士令嬢の蝶々さんとアメリカ海軍士官ピンカートンとの恋愛悲劇。〈ある晴れた日に〉はオペラの第2幕で歌われる蝶々さんのアリア。ピンカートンと結婚した蝶々さんは、彼が帰国してから生まれた子供と、港の見える丘で彼の帰りを待ち続けている。お手伝いのスズキは、“ピンカートンはもう帰ってこないのでは”と疑うが、蝶々さんは「今に船が着き、丘を登ってくるわ」と強く信じこの曲を歌う。

このオペラでは、題材はもちろん、〈さくらさくら〉や〈お江戸日本橋〉などの日本の民謡や音階の素材が積極的に使用されている。プッチーニ自身が収集したとされている日本のメロディがイタリア・オペラの息の長い旋律、プッチーニの甘美な和声と巧みに融合し、「ジャポニスム」の代表的作品といえるものに仕上がっているのだ。

Written By 音楽ライター 長井進之介



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