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U2とプロデューサー、実験を躊躇しない共同開発者やその道の職人達:9年ぶり新作発売記念連載⑤

U2の16作目のスタジオ・アルバムにして、9年ぶりの全編新曲『Carnaval De Luz(邦題:光の祝祭~カルナバル・デ・ルス)』が2026年11月13日にリリースされることが発表された。
この発売にあわせて、元ロッキング・オン編集長であり、U2を追い続けてきた宮嵜広司さんに様々な角度から長期連載として寄稿いただきます。第5回はU2が起用してきたプロデューサーについて。
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11月13日にリリースされるニュー・アルバム『Carnaval de Luz』まで含めると、これまでにU2は16枚のアルバムを作ってきた。それらの作品群で起用されてきたプロデューサーを各アルバムに記されたクレジットから拾うと以下の通りとなる。
1.『Boy』1980年:スティーヴ・リリーホワイト
2.『October』1981年:スティーヴ・リリーホワイト
3.『War』1983年:スティーヴ・リリーホワイト
4.『The Unforgettable Fire』1984年:ブライアン・イーノ&ダニエル・ラノワ
5.『The Joshua Tree』1987年:ダニエル・ラノワ&ブライアン・イーノ
6.『Rattle And Hum』1988年:ジミー・アイオヴィン
7.『Achtung Baby』1991年:ダニエル・ラノワ withブライアン・イーノ
8.『Zooropa』1993年:フラッド、ブライアン・イーノ&ジ・エッジ
9.『Pop』1997年:フラッド、アディショナル・プロデュース:ハウィーB、スティーヴ・オズボーン
10.『All That You Can’t Leave Behind』2000年:ダニエル・ラノワ&ブライアン・イーノ
11.『How To Dismantle An Atomic Bomb』2004年:スティーヴ・リリーホワイト
12.『No Line On The Horizon』2009年:ブライアン・イーノ、ダニエル・ラノワ、スティーヴ・リリーホワイト
13.『Songs Of Innocence』2014年:アルバム・プロデューサー:デンジャー・マウス、プロデュース:ポール・エプワース、ライアン・テダー、デクラン・ガフニー、フラッド
14.『Songs Of Experience』2017年:ジャックナイフ・リー&ライアン・テダー with スティーヴ・リリーホワイト、アンディ・バーロウ、ジョリオン・トーマス、ブレント・クツレ、ポール・エプワース、デンジャー・マウス、デクラン・ガフニー
15.『Songs Of Surrender』2023年:ジ・エッジ
16.『Carnaval de Luz』2026年:ジャックナイフ・リー
こうして俯瞰で見てみると、その時代その時代のU2のサウンドが、誰といっしょに創られてきたのか、誰といっしょだったからそうなったのか、流れが見えてくる。U2はモデル・チェンジの必要性を感じたとき、実験を躊躇しない共同開発者、あるいはその道の職人たちを臆せず召喚し、自己改革を怖れなかった。もちろん、それと同時に、U2サウンドの核を知る者と結果的に幾度も仕事をしていったケースもある。しかし、U2は次第にそうした強固な核と時代に見合った変化を混ぜ合わせていくことを覚えていった。その配合のバランスは常に大胆で繊細だったと言えるだろう。
上記のリストを強引に絞れば、キーパーソンはスティーヴ・リリーホワイト、ブライアン・イーノ、ダニエル・ラノワ、フラッドになると思う。最新の列にはジャックナイフ・リーが加わる。彼らとU2はどのようなケミストリーを起こしたのか。振り返る前に、彼らにとって最初のプロデューサーについて書き残しておきたい。アイランド・レコード契約後初のシングル「11 O’Clock Tick Tock」(1980年5月23日リリース)のプロデュースを担当した、マーティン・ハネットのことだ。
初の正規のプロデューサー: マーティン・ハネット
ファクトリー・レコードの創設者のひとりで、ジョイ・ディヴィジョンの『Unknown Pleasures』(1979年)をプロデュースしたことで名が知れ渡ったマーティン・ハネットが、U2と仕事をした時期はちょうどジョイ・ディヴィジョンの「Love Will Tear Us Apart」(1980年4月リリース)の制作期間中でもあり、U2はそのセッションの様子も見学していたようだ。現場には彼らが持ち込んだフランク・シナトラやワーグナーのレコードがあり、当時のボノは「ポスト・パンクの時期なのに」と驚いたという。
「11 O’Clock Tick Tock」のレコーディングはダブリンで行われたが、マーティン・ハネットのチームは様々な機材を持ち込んでバンドをたじろがせたと聞く。20歳そこそこのU2にとってはこれが初めての正規のプロデューサーとの仕事であり、しかも相手は10歳以上年上の天才肌の人物とあって、相当に緊張しただろう。ボノは後に「結局そのレコードは僕らのというよりも、彼らしいサウンドだったけど、素晴らしいものだったし、その点は良かったと思うよ」と述懐している。
とはいえ、U2のキャリアを振り返ってみたとき、私たちはU2のサウンドが常に空間の広がりを大切にしていることに気づかされるが、その出発点において、まさに独特の音響空間にこだわった音作りをしていたマーティン・ハネットの「落雷」を受けたことは、その後の彼らを決定づけた出来事だったのではと思う(「11 O’Clock Tick Tock」は『Boy ~Deluxe Edition~』で聴くことができる)。
初期3作とその後の特効薬 : スティーヴ・リリーホワイト
ファースト・アルバム『Boy』のプロデューサーが、5歳ほどしか歳の離れていないスティーヴ・リリーホワイトになったことは、スタジオ内でのU2の気分を相当楽にさせたに違いない。
「スティーヴ(・リリーホワイト)はピーター・ガブリエルのセッション(筆者注:『ピーター・ガブリエル III』の制作と思われる)から直行してきて、僕らと作業していた時は最高に実験的なモードだった。僕らはあらゆることを試そうとしたから、アルバムのレコーディングは信じられないくらい楽しかったよ。自転車を逆さまにして車輪をパーカッションに見立てて、台所にあったフォークを使ってプレイしたり、瓶を割ってサウンド・エフェクトにしたり、グロッケンシュピール(鉄琴)を導入したりした。ロック・バンドのレコーディングとしてはすごくクリエイティヴなアプローチだった。すべてスティーヴのおかげだね」(ボノ 『U2 by U2』より)
スージー・アンド・ザ・バンシーズの「Hong Kong Garden」(1978年)やXTC『Drums And Wires』(1979年)で一躍注目を集めていた当時のスティーヴ・リリーホワイトは、その後、サイケデリック・ファーズやシンプル・マインズ、ローリング・ストーンズ、ザ・ポーグス、ザ・ラーズ、モリッシー、トラヴィス、デイヴ・マシューズ・バンド、ビーディ・アイなどなど、それこそニュー・ウェイヴ黎明期から21世紀のモダン・ロックまで、英国ロックを主戦場に常時最前線で活躍してきたプロデュース界の巨人のひとりだ。
そんな彼にあっても、U2との関係は特別だったに違いない。まだ何者でもなかった彼らとU2サウンドを確立し、世界市場への十分な足掛かりを共に作ったのは他ならぬ彼だった。しかしその初期3部作、3作目『War』のレコーディング最終日は、ちょっとしたトラブルに見舞われている。
最終日、一晩中作業していてもまだ1曲足りないと感じていた早朝6時。スタジオには8時に予約済みのバンドが現れて退出を迫ってきた。残り時間はたったの2時間。バンドはそれまでの8週間で形にまではならなかったアイデアの断片を急遽思い起こし、取捨選択し、それらをスティーヴ・リリーホワイトが特急で編集したそうだ。残った歌詞の部分は、ボノが聖書を引っ張り出して、歌入れした。
そうして出来上がった曲、「40」はアルバムの最後に収録され、その後、ファンにとってもかけがえのない名曲となるのだが、これほどの修羅場をバンドとともに文字通り切り抜けたスティーヴ・リリーホワイトの存在は、以降、メイン・プロデューサーの立場を離れても、折に触れ彼らと共にあった。
というか、U2がエネルギーを欲したとき特効薬のように必ず呼ばれるのが彼で、そのエネルギーそのものが曲になったような「Vertigo」は、21世紀のU2の代名詞のひとつとなった(「Vertigo」が収録されているアルバム『How To Dismantle An Atomic Bomb』の当初のプロデューサーは、クリス・トーマスだった。しかし、彼との制作は難航し、結果、スティーヴ・リリーホワイトに依頼されている。なお、クリス・トーマスとの成果物は「Sometimes You Can’t Make It On Your Own」「Yahweh」などが残っている)。
余談だが、スティーヴ・リリーホワイトのプロデューサーとしての実質的デビュー作はウルトラヴォックスのデビュー・アルバムだったが、経験の少ない彼を助ける意味で、共同プロデューサーが別途用意された。それがブライアン・イーノだった。つまり、U2サウンドの基礎を作ったスティーヴ・リリーホワイトとU2は、どちらもイーノ門下生だったということになる。
見守る師:ブライアン・イーノ
「スティーヴ・リリーホワイトとは3枚のアルバムを一緒に作っていて、彼も僕らも、先に進む時が来たという結論を出していたんだ」(ジ・エッジ)
「僕らはもう少しシリアスな何か、もう少し芸術的な何かを探していたんだよ。アメリカン・ロックに対するヨーロピアン・ポップ・ミュージックという音楽的領域の意味から何度も挙がったのが、ロキシー・ミュージックの名前だった。(中略)それから、ブライアン・イーノのことを考え始めたんだ。ロキシー・ミュージックのキーボード奏者だった彼は、(デヴィッド・)ボウイやトーキング・ヘッズのプロデュースをしたりしていた」(アダム)
「スリー・コードと正直さだけでもかなりうまくやってきたように思えたけど、僕らの楽曲を違う方向に導き、新しいテクスチャーを加え、スタジオの新しい使い方を探ることが出来る誰かが必要だったんだ」(ラリー 全て『U2 by U2』より)
世界市場が目前に迫っていた当時のU2が、そのままのスタイルを繰り返すことでファンベースを固めることより、むしろフルモデル・チェンジすることでバンド自体の音楽性と支持を拡げようとしていたことには、あらためて感服してしまう。そして、その覚悟は、兄貴のようなプロデューサーとの楽しかった歳月を終わらせ、あのマーティン・ハネットと同じ歳のメンター、ブライアン・イーノを招聘する改革案を導き出す。
しかし、そのオファーはなかなか受け入れられなかった。イーノは当時プロデュース業からの引退を考えていたからだ。U2側からすると、イーノはこの仕事をまだ無名だったダニエル・ラノワに任せたかったようで、何かとラノワを推薦してきたように見えていたそうだ。
断るつもりだったイーノと、ラノワを交えたダブリンでのミーティングで、ボノはバンドの熱量を封じ込めたライヴEP『Under A Blood Red Sky』をイーノに聴かせた。ジ・エッジは通常のスタジオではない特別な場所でアンビエントな空気感を取り込んだ、新たなレコーディング計画について熱弁をふるった。ランチが終わる頃には、イーノは依頼を承諾したという。ひたすら熱いバンドのライヴに何かを感じ、新しい実験話に眠っていた創作欲を掻き立てられたのだろうか。
レコーディングにはラノワも参加させるが、その分のギャラは増やす必要はない、こちらで分けるとさえ申し出ている。そしてジ・エッジが希望していた「特別な場所」は、いろんな良い偶然が重なったことも手伝って、アイルランド・ミース州にあるスレイン城となった。録音機材を持ち込んで、住み込みで始められたレコーディングは、城の中の舞踏室で行われた。それは『The Unforgettable Fire』となった。
「サウンドは申し分なかった。フィル・スペクターの遺体が安置されることがあるとしたら、その場所はここだろう。(中略)彼(イーノ)はすべてを僕らに捧げてくれた。偉大なアーティストで見事な戦略家である彼が、アイルランド出身でどちらかというと不器用なミュージシャンのために働いてくれたんだ。その横には、ダニエル・ラノワという彼の友人がいた。音楽は、ブライアンの全身よりもダニエルのちっぽけな指の方に多く詰まっていた。本物のファンクな魂を持ったブラザーだよ。その組み合わせは無敵だった。スタジオにいたときと同じように不安定だったラリーとアダムは、突然このカナダ人(筆者注:ラノワのこと)に夢中になっていった。(中略)’60年代の偉大なロック・バンドは例外なくアート・スクールに通っていた。僕らはアート・スクールには行かなかったけど、ブライアン・イーノという学校に通った」(ボノ『U2 by U2』より)
『The Unforgettable Fire』収録の「Bad」、そして『The Joshua Tree』のあちこちで聴くことのできるアルペジオについて、ボノはイーノの貢献を認め、U2を単なるロック・バンドから離れた別の世界へと連れて行き、周りの世界を描くことが出来るようにさせてくれたと語っている。
イーノがU2にもたらしたものについては、いくら書いても足りないだろう。言えるのは、イーノは音楽だけでなく、それを形作る精神のようなものも、若きU2が見つけられるよう導いていったということだ。スティーヴ・リリーホワイトも長年にわたってU2を見守ってきたが、その関係が言わば彼らを少年に戻す、フレッシュにさせることだとすれば、イーノのそれは精神の鍛錬を欠かさぬよう見守る師のそれだろう。
ジャックナイフ・リーがプロデュースした最新作『Carnaval de Luz』では、3曲でブライアン・イーノが重要な仕事をしていることがわかっている。アルバムのオープナー「Go (Carnaval de Luz)」と、「Can’t Stop Us Now」、そして収録曲中ボノが一番気に入っているという「The Greatest Show On Earth」だ。
その曲では「私たちはかつて地上で最も偉大な見せ物だった」と歌っている。ブライアン・イーノはいつもU2に厳しく、その本質の在処を正し、問うてきた存在だと思っているが、この曲が「光の祝祭」と題された新作にあってどのような座標軸を引いているのか、今から楽しみだ。
バンド危機の救世主:ダニエル・ラノワ
思考から音楽を創るのがブライアン・イーノだとしたら、ダニエル・ラノワは実作業から音楽を練り上げるタイプと言えるかもしれない。ソウル、R&B、ロックをラジオから吸収するのが日課だったラノワは、早くから兄と音楽制作を独学し、ついには一軒家を購入して本格的にスタジオに改装、児童音楽家ラフィのアルバムで地元カナダでの成功を収める。
やがてラノワの仕事は当時ニューヨークに居たブライアン・イーノの耳にとまり、程なくふたりはラノワのトロントのスタジオでアンビエント・ミュージックを制作するようになるわけだが、そんな折に舞い込んだのがU2からのオファーだったわけだ。
U2との仕事を続けた長い年月の中で、バンド最大の危機を救ったのがラノワだったのは有名な話だ。『Achtung Baby』の制作は、ドラムマシーンとダンス・ミュージックに傾倒するジ・エッジ&ボノ組と、そんな新基軸に困惑し納得できなかったアダム&ラリー組に分裂し、初期段階で完全に動けなくなっていた。解散の2文字すら頭をよぎるメンバーもいたという。
そんな中、作りかけのアイデアをいじっていたジ・エッジがコード進行を2種類作ってみたものの、噛み合わずに苦労していた。そこにラノワがやってきて、両方を続けて弾くことを提案したという。そこからはボノの即興のメロディも加わり、ものの数分で曲の骨格が出来上がっていったという。「そこですべてが回り始めた」とジ・エッジが述懐したのは、「One」だ。
U2についての文献を読むと、いろんな名曲が、ラノワをはじめとしたプロデューサー陣のちょっとした助言から生まれていたことがわかる。傑作『Achtung Baby』は、ダニエル・ラノワの貢献が全面に出たアルバムとなった。実際、アルバムにはラノワの単独プロデュース曲が多い。ダニエル・ラノワは、このときバンドを救い、独り立ちし、ロック史上に残る、U2にとっても1,2を争う名盤をものにした。
余談だが、ボブ・ディランには1989年『Oh Mercy』、1997年『Time Out Of Mind』と、この当時のディランを代表する2枚のアルバムがあるが、どちらもプロデュースしたのはダニエル・ラノワである。ラノワをディランに紹介したのは、他ならぬボノである。
時代の音と過激さ:フラッド
「『Achtung Baby』は『The Joshua Tree』という大木を切り倒す音だ」とは、当時よく言われていた表現だが、1960年生まれでメンバーと同世代のロンドナーであるフラッドことマーク・エリスが1990年代を通じてU2にやっていたことは、切り倒すだけにとどまらず、弾け飛んだ破片をデジタル変換してミラーボールを造ってしまうくらい(?)過激だった。
実は『The Joshua Tree』のレコーディングから録音担当として参加していたフラッドは、『Achtung Baby』ではエンジニアとミックスを担当、U2を一気にグラム・ロック・バンドへと変身させた。「Zoo TV Tour」中にアクロバティックに制作された『Zooropa』ではプロデュースを担い、続く『Pop』では、グラスゴー生まれのハウスDJで、ビョークやトリッキーとの仕事で知られていたハウィーBを招き入れ、U2の50年の歴史の中でもとりわけ異質なアルバムを生み出した。1990年代のU2サウンドは、実はフラッドだったと言っても言い過ぎじゃないだろう。
フラッドがこの時代のオルタナティヴ・ロックの音も決定づけていたことは記しておきたい。ナイン・インチ・ネイルズ、スマッシング・パンプキンズ、ザ・キラーズ、PJハーヴェイ、シガー・ロスといった当時の新世代アーティストはこぞってフラッドに時代の音を感じ取っていたし、それはニュー・オーダーやデペッシュ・モードといったU2と同世代のミュージシャンたちにも波及していた。
2010年以降の起用:デンジャー・マウスほか
2010年代以降のU2は、スティーヴ・リリーホワイトやブライアン・イーノ、ダニエル・ラノワ、フラッドといった師匠、先輩、同世代たちとの仕事を大幅に減らすか思い切って終わらせ、その時代のモダン・ロック、モダン・ポップ・ミュージックを作っていた後輩世代に身を任せるようになる。
何人かピックアップすると、ナールズ・バークレイ、ブロークン・ベルズで知られ、ゴリラズやベックとの仕事で知られるデンジャー・マウスは1977年アメリカ生まれ。アデルやリアーナ、フローレンス・アンド・ザ・マシーンのプロデュース手腕の評価が高いポール・エプワースは1974年イギリス生まれ。ティンバランドの大ヒット「Apologize」への参加で世界的名声を得たワンリパブリックで作曲、ボーカルを担当、元々U2のファンだったライアン・テダーは1979年生まれ、同じくベース担当のブレント・クツレは1985年生まれ、元Lambのアンディ・バーロウはイギリスで活動し、スノー・パトロールやエルボーのプロデュースで知られている。
彼らとの創作は、1980年代、1990年代、2000年代のU2ともまた違ったテイストをバンドにもたらしていて、最もソフィスティケイトされたU2がそこにはある。
「The Miracle (Of Joey Ramone)」pro.デンジャー・マウス、ポール・エプワース、ライアン・テダー
「Love Is All We Have Left」pro.アンディ・バーロウ
「13 (There Is A Light)」pro.ポール・エプワース、ライアン・テダー
バンド唯一のプロデューサー:ジ・エッジ
ジ・エッジのプロデュースについても記しておきたい。U2のメンバーの中で、唯一プロデューサークレジットに名前を刻んだ彼の作品は『Zooropa』と『Songs Of Surrender』の2枚だ。そう、どちらも急遽なし崩し的に作られていったアルバムで、困ったときに駆り出された感も強い。
「ZooTV Tour」の真っ最中、バンドが極度の躁状態で湧き上がる創作意欲のまま生み出された『Zooropa』と、コロナ禍で活動が極端に制限された中なんとなく始められた過去作の解体作業『Songs Of Surrender』。プロデューサーを他所から呼んできて、じっくりと作業するような状態ではおよそなかった両アルバムをまとめられたのは、逆にジ・エッジしかいなかっただろう。
後者では、過去の名作に大胆な新解釈を施し、コロナ禍当時の世界に見事に寄り添う「特別な時期のU2サウンド」を表現してみせている。
9年ぶりの祝祭とまとめた男:ジャックナイフ・リー
スティーヴ・リリーホワイトが召喚された『How To Dismantle An Atomic Bomb』に、ジャックナイフ・リーのクレジットを認めることができる。彼が手掛けたのは「A Man And A Woman」で、U2と彼の関係はそこまで遡ることが出来るが、大文字のプロデューサー・クレジットに登場するのは2017年の『Songs Of Experience』まで待たなければならなかった。
地元ダブリン出身のジャックナイフ・リーは1967年生まれだからU2の後輩にあたる。2010年代以降、現代型U2サウンドはさまざまなプロデューサーたちと研究されてきたが、ジャックナイフ・リー、本名ギャレット・リーがその決定打として選ばれたということだろう。その信頼は、ボノの2022年「Stories of Surrender Tour」の音楽監督を任されたことからもわかる。
『Songs Of Experience』収録「Love Is Bigger Than Anything In Its Way」で聴くことのできる祝祭感は本当に明るい。その眩さはきっと「光のカーニバル」と名付けられた来たる新作『Carnaval de Luz』でいっそう花開いているに違いない。
Written By 宮嵜 広司

U2『Carnaval De Luz』
2026年11月13日発売
CD&LP / iTunes Store / Apple Music / Spotify / Amazon Music
新作発売記念 U2過去アルバム紙ジャケット一挙再発
2026年11月13日発売
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