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シュープリームスの悲劇:32歳で亡くなったフローレンス・バラードの半生

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Photo: Motown/EMI Hayes Archives

フローレンス・バラード(Florence Ballard 上記写真左上)の人生は、栄光と悲劇の物語だった。そしてそれはあまりにも早く、悲しいかたちで幕を閉じた。シュープリームスの創立メンバーであるフローレンスは、この三人組がリリースしたナンバー・ワン・シングル10枚で歌声を響かせていたが、1976年2月22日、フローレンスは地元であるデトロイトで32歳の若さで亡くなった。

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幼少時代とプライメッツ

フローレンスは1943年6月30日生まれ。ニックネームは「フロ」または「ブロンディ」(髪の色がやや明るいブロンドだったことからこう呼ばれた)だった。彼女の一家は大家族で、いつも家計のやりくりに苦労していた。子供のころから歌をうたい始めたフローレンスは、1958年に歌手志望者が集うコンテストに出場している。このコンテストには、のちに一緒にシュープリームスを結成するメアリー・ウィルソンも参加していた。そしてちょうどそのころ、ダイアン・ロスという女の子が近所に引っ越してきた。そう、のちのダイアナ・ロスその人だ。

メアリー・ウィルソンの自伝『Dreamgirl: My Life As a Supreme』によれば、メアリーはコンテストでフローレンスの声に感動したという。

「一緒に家に帰るあいだ、歌ったときのことをふたりで事細かに話し合った。そして、もしどちらかがどこかのヴォーカル・グループに入るときは、もう片方も誘って一緒に入ろうと約束した。うちのアパートの外に着いても、名残惜しくてしばらく一緒にいた。ふたりのあいだには絆ができていた。それが一生続く絆になるなんて、そのときは彼女も私もまるで気づいていなかった」

その約束はまもなく果たされることになった。地元デトロイトの人気男性グループ、プライムスの妹グループだったプライメッツのメンバーにならないかという誘いがフローレンスのもとに舞い込んだのである。彼女はメアリーを誘い、さらにメアリーがダイアナを誘った。そこにベティ・マグロウンが加わり、4人のメンバーがそろった。1960年にはベティの代わりにバーバラ・マーティンが加入。同じ年にプライメッツはモータウンのオーディションを初めて受けたが、レーベルのボス、ベリー・ゴーディは「高校卒業後にまた来なさい」と彼女たちに伝えている。

Tears Of Sorrow (Hd Remastered Edition)

 

ヒットメーカーのシュープリームスの誕生

プライメッツは一時期、ルー・パイン・レーベルからレコードをリリースしていた。彼女たちの初期のステージを観た人たちの多くは、メンバーの中でフローレンスが最も強力なヴォーカリストだという感想を抱いていた。やがて1961年にプライメッツはモータウンと契約を交わす。彼女たちを採用するに当たって、ゴーディの出した条件は、グループ名をザ・シュープリームスに変えるというものだった。当初このグループはなかなかヒットを出せなかったため、「ノー・ヒット」・シュープリームスというあだ名をもらっていた。1962年にはバーバラが脱退しても、その状態は変わらなかった。

そうした状況を打開すべく、ゴーディは、ダイアナをグループの「顔」にするという決断を下した。そこからシュープリームスは、ポップスの歴史に残る大スター・グループへと成長した。フローレンスとメアリーはグループ内の脇役という立場に定着し、その才能にふさわしいスポットライトは当たらなくなった。どちらにもリード・ヴォーカルを歌うチャンスは時々与えられた。しかしポップ・ミュージックやリズム&ブルースの歴史に残る一連のシングルは、いずれもダイアナがリード・ヴォーカルを担当したレパートリーだった。

フローレンスの力強いヴォーカルは、アルバムに収録されたトラックで聴くことができる。その代表例としては、デビュー・アルバム『Meet The Supremes』収録の「Buttered Popcorn」や1965年の『We Remember Sam Cooke』に収録されたスピリチュアルな「(Ain’t That) Good News」が挙げられよう。

[Ain't That] Good News

 

グループ内不和と脱退

シュープリームスが世界的な人気グループになっていたころ、フローレンスは厳しいスケジュールに不満を抱き、次第にアルコールへの依存を深めていった。そのことにより、グループ内の空気は張り詰めたものになり、特にダイアナと彼女のあいだの溝は深まっていった。フローレンスの不安定な精神状態は、シュープリームスのプロとしての活動方針では容認されないものになっていった。そうなると、脱退はもはや不可避。新たなグループ名「ダイアナ・ロス&ザ・シュープリームズ」も、そうした不幸な状態を映し出すものでしかなかった。

フローレンスは1968年にABCレーベルとソロ・アーティストとしてレコーディング契約を交わし、同じ年に結婚もしている。ABCからは、2枚のシングル「It Doesn’t Matter How I Say It (It’s What I Say That Matters)」と「Love Ain’t Love」がリリースされた。彼女は3人の娘をもうけ、その後もソロ・シンガーとして活動を続けたが、その努力はほとんど報いられることがなかった。

It Doesn't Matter How You Say It

フローレンスは段々と金銭面で苦境に陥り、自分の健康や一家の生計を担うことに不安を感じ始めた。1975年には一種のカムバックとして、モータウンの地元デトロイトで5年ぶりのライヴ出演をこなした。当時を振り返り、メアリーは以下のように記している。「フローレンスが世間の人から愛されていることは明らかだった。けれどそれだけでは十分ではなかった」。

翌1976年、フローレンスは冠動脈血栓で急死する。その直後、ダイアナ・ロスは雑誌『サウンズ』で心境を語っている。

「フローレンスは良い母親で、才能にも恵まれていて、とても気品があって、身のこなしも本当に良かった。でも心の中に何かを抱えていた。自分でもコントロールできない、そんな何かを」

フローレンスの業績は、毎日のように新たな光を浴びている。なにしろシュープリームスがリリースした数々の名曲は、今も世界中で聴かれているのだから。そしてシュープリームスの光と影は、人気ミュージカル・映画『ドリームガールズ』でも再現されることになった。

Written By Paul Sexton




 

 

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