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ザ・テンプテーションズの影のヒーロー、ポール・ウィリアムス

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1973年8月17日に悲惨な状況で亡くなったポール・ウィリアムスは多くの点で、ザ・テンプテーションズの影のヒーローだった。彼とエディ・ケンドリックスはオリジナルのリード・シンガーだったが、モータウン・グループが世界的にブレイクし、1964年の「My Girl」がソウルのヒーロー的な存在になったとき、鳴り響いていたのはポールとエディではなくデヴィッド・ラフィンの声だった。

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素晴らしいヴォーカルの存在感と、メルヴィン・フランクリンや現在唯一残っているザ・テンプテーションズのメンバー、オーティス・ウィリアムス(同じウィリアムス だが血縁関係はない)と一緒に、オリジナルの5人編成の立ち上がりには中枢的役割を果たしていたにも関わらず、メルヴィン・ラフィンやエディ・ケンドリックスに比べてあまり名前が知られることのなかったのがポール・ウィリアムスだった。

ポール・ウィリアムはもともとモータウンがあったデトロイト出身ではなかった。ポール・ウィリアムスは1939年7月2日アラバマ州のハーミンガムに生まれ、小学校のころからエディ・ケンドリックスを知っており、友人のケル・オズボーンとともにキャバリアーズを結成する。その後、プライムズと改名した彼らは仕事を求めてクリーブランドに移住、その後、運命的にデトロイトに行き着くことになった。

プライムズは上手く行かず、ケル・オズボーンは故郷に戻ってしまったが、その後のメンバーチェンジやディスタンツ (オーティス・ウィリアムス、メルヴィン・フランクリンやその他のメンバーが在籍)との効果的な合体により、ザ・テンプテーションズが結成され、1961年に初期モータウン・レコードと契約した。その年の7月、子会社のミラクル・レコードから生き生きとした彼らの最初のシングル「Oh Mother Of Mine」をリリースしたとき、ポール・ウィリアムスはエディ・ケンドリックスと一緒にリード・ヴォーカルをとった。

素晴らしいドゥーワップ・スタイルを追求した61年の後半の7インチ・シングル「Check Yourself」、翌年のスモーキー・ロビンソンが曲を書き、初めてプロデュースした「Slow Down Heart」など、初期ザ・テンプテーションの多くでおいて、ポール・ウィリアムスは卓越した存在だった。ザ・テンプテーションは1962年初頭、「Dream Come True」でトップ30入りし、R&Bチャートへデビューを果たす。ポール・ウィリアムスの自信に満ちたリード・ヴォーカルはスモーキー・ロビンソンが初めて作曲したザ・テンプテーションズのA面、1963年の「I Want A Love I Can See」でも聴くことができる。

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1964年、エルブリッジ・ブライアントの代わりにデヴィッド・ラフィンがラインナップに加わると、デヴィッドと昔のラインナップによる古き良き時代に多くの評価を築いてきたエディ・ケンドリックスの背後に隠れ、ポール・ウィリアムスはしばしば脇役を務めるようになった。彼が主役を務めるのは大抵、アルバム曲かB面の曲であったが、ポールは全ての曲で素晴らしいパフォーマンスを行っており、彼らのスリックなダンスの動きを振り付けを担当することにおいてもポール・ウィリアムスはグループのビジュアルに極めて重要な存在でもあった。

例えば、あまり聴かれていないかもしれないが、1965年に「My Baby」のB面としてリリースされたザ・テンプテーションズの活発な曲「Don’t Look Back」はポール・ウィリアムスがリードを務め、自らの力でR&Bチャートのトップ20入りを果たした。その曲はデュエット・シングルで、ボビー・ウーマックやピーター・トッシュ、ミック・ジャガーなどの色々なアーティストからカヴァーされ続けた。

Paul Williams b:w世間の目から隠されていたのは、ポール・ウィリアムスが鎌状赤血球貧血という病に侵されていたことだった。彼はグループの絶え間なく続くツアーとレコーディング・スケジュールから逃れるため、アルコールへと手を出し始め、1960年代の後半には深刻な金銭問題も抱えた。1971年、ザ・テンプテーションズはピークを迎えで、次から次へとクラシック・シングルを生み出していた時、ポール・ウィリアムスの健康と信頼性の欠如から、医師の診断を受けることになり、そこで肝臓障害の発見に繋がった。

ポール・ウィリアムスは特に振付け師として、ザ・テンプテーションズの身近にとどまり続けながら、1973年の始めにはソロの曲をレコーディングし始めた。しかし、その年の8月17日、デトロイトの路地裏で彼の遺体が発見された。彼のそばには銃が置かれていた。不審な点に繋がるいくつかの状況があったにも関わらず、ポール・ウィリアムの死は自殺と判定。いずれにせよ、彼の最後のレコーディングのうちの1曲「Feel Like Givin’ Up」はつらいほど将来を暗示していたタイトルだった。

Written By Paul Sexton


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