UKのニルヴァーナ、パトリック・キャンベル・ライオンズ独占インタビュー:「カート・コバーンが僕たちのバンドで歌っていたと思い込んでいる人もいる」

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「僕たちは半世紀を経ても色褪せることのないすばらしい作品を作り上げた」パトリック・キャンベル・ライオンズは”オリジナル”のニルヴァーナが1960年代に残した作品群についてそんな風に語る。

アイルランド出身のパトリック・キャンベル・ライオンズとギリシャ生まれのアレックス・スパイロポウロスは、1960年代の”スウィンギング・ロンドン”の真只中に出会っている。すぐに意気投合した2人は、早速アルバムの制作に乗り出すことになるが、それにはまず、バンド名を決める必要があった。二人が仲間から提案された名前はバース(Birth)というものだったが、キャンベル・ライオンズはカルマ(Karma)という名前にしてはどうかと提案した。しかし、その後、スパイロポウロスが抜群のひらめきを見せた。

グランジを代表するカート・コバーンの”ニルヴァーナ”が誕生するはるか前に、ロンドンを拠点とする“オリジナル”のニルヴァーナが存在したのだ。キャンル・ライオンズとスパイロポウロスの2人を中心とするこのニルヴァーナは、クラシックの影響を取り入れたシンフォニックなサウンドで一部から熱狂的な支持と評価を獲得。アイランド・レコードと契約を交わした最初のグループのひとつになっている。ロックのレコードにいちはやくチェロを導入した彼らのすばらしい功績は、今回、新たに組まれた2枚組のコンピレーション・アルバム『Rainbow Chaser: The 60s Recordings (The Island Years)』で確かめることができる。グループの初期のキャリアを集約したこのダブル・アルバムにはオリジナル・アルバム未収録曲や未発表音源も収められている。


 

「インスピレーションに恵まれた、得難い瞬間だった。」

「アレックスと僕は、ただ2人で曲作りを行うことを楽しんでいた。けれどもあるとき、僕たちは同時に、バンドとして名前を持ったほうがいいと切り出したんだ」パトリック・キャンベル・ライオンズは uDiscover の取材に応え、そんな風に語ってくれた。「僕が”Karma”という名前を思いついて、彼もそれを気に入ってくれた。けれども翌日の朝、アレックスが電話をかけてきてこう言ったんだ。“もっといい名前を思いついた”ってね。で、僕がそれはどんな名前かと訊ねると。彼は”Nirvana”と答えたんだ。僕は“いい名前じゃないか。じゃあ僕たちはニルヴァーナと名乗るとしよう”と答えた。あれはインスピレーションに恵まれた、得難い瞬間だったね」。

2人はサイケデリアが隆盛を極めた1960年代イギリスで、クリス・ブラックウェルが主宰するアイランド・レコードと契約を交わすことになる。「僕たちは多少なり東洋哲学に関する知識を備えていた。ラヴィ・シャンカールの音楽をよく聴いていた時期があってね、僕は音楽とヒンドゥー教と、それから仏教に関しても少し知っていた」今では75歳になったシンガーソングライター、キャンベル・ライオンズは往時を振り返りながら説明を続ける。「1960年代にはチベットを訪れる人が多かった。”nirvana (涅槃/ねはん)”という言葉は、深い瞑想に耽り、精神的にほとんど解脱しているような状態を指すっていうことが僕にはわかっていた。あのころ僕たちごく自然に音楽を作り出していた。あれは今考えてもすばらしいことだと思う。僕たちは何の苦労もなく、音楽を作り上げていったんだよ」。

 

「カート・コバーンが僕たちのバンドで歌っていたと思い込んでいる人もいる」

キャンベル・ライオンズとスパイロポウロスがニルヴァーナを名乗るようになってから、20年も経過したころ、米国はシアトルでカート・コバーンらが結成したバンドも同じ名前を選んだ。1991年、「Smells Like Teen Spirit」でこのシアトルのニルヴァーナは世界的な人気を獲得し、やがてそれはパトリック・キャンベル・ライオンズとアレックス・スパイロポウロスの知るところとなった。「ずっと後になってアメリカに同じ名前のバンドがいるということがわかるまで、誰かが自分たちと同じバンド名を名乗るようなことになるなんて思いもしなかった」キャンベル・ライオンズが説明する。

「バンド名の使用権を巡る訴訟は、およそ9ヶ月に亘って続いた。そしてようやく出た判決は、双方に同じ名前の使用を許可するというものだった。裁判所は、僕たちと彼らが互いの音楽に干渉することなく、同じ名前を使い続けるべきだと判断したんだよ。実際、僕も、僕たちがグランジをやるってことはないだろうし、彼らが突然バロック・ポップに手を出すなんてこともないだろうと思っていた。けれども裁判の片が付いてから2週間経ったころ、コバーンのバンドはMTVの番組に出演し、2本のチェロを交えたステージを披露した。きっと彼らにはブラック・ユーモアのセンスがあったんだろうね」。

 

ともあれ、やがてデジタルの時代が到来し、バンド名が重なっていることが恩恵をもたらすようになる。「少なくとも僕たちにとってはそのことが有利に働いた」キャンベル・ライオンズが説明する。「僕たちのファンは次第に増えていった。インターネットを通じて”コバーンのニルヴァーナ”を知った人たちの一部が、僕たちの楽曲を聴き、彼らと僕たち双方のファンになってくれたからね。なかには2組のニルヴァーナを混同して、カート・コバーンが僕たちのバンドで歌っていたと思い込んでいる人もいるよ」

 

「フルタイムの仕事に臨むように、全力を傾けていた」

1943年7月13日、パトリック・キャンベル・ライオンズはウォーターフォードのリズモアという町で生まれた。ロンドンに出てきたばかりのころ、彼はウォールズ社のアイスクリーム工場に勤務しながら、ウエスト・ロンドンでミュージシャンとして活動を始めた。さまざまなバンドがひしめき合う彼の地の音楽シーンで、彼はR&Bバンド、セカンド・ソーツのリード・シンガーを務め、飛躍のきっかけを掴む。このグループのメンバーには、ほかに、のちにレコーディング・エンジニア/プロデューサーとしてザ・ビートルズやピンク・フロイド、プロコル・ハルム、ロキシー・ミュージックエルトン・ジョンらの作品を手がけることになるクリス・トーマスもいた。

短期間の活動に終わった5人編成のニルヴァーナ。左から2人目がアレックス・スパイロポウロス、右端がパトリック・キャンベル・ライオンズ

この時期、キャンベル・ライオンズはイーリング・ジャズ・クラブやレスター・スクエアにほど近いケン・コルヤーズ・ジャズ・クラブといったロンドンの有名なクラブを拠点に活動を続けたが、その後、海外に渡航。スウェーデンやドイツで可能性を探り、1966年にイギリスに舞い戻っている。そしてその後の計画を練っていたとき、アレックス・スパイロポウロスとの幸運な出会いに恵まれたのだった。「アレックスと知り合ったのは、ソーホーのラ・ジョコンダ・カフェだった。彼はセント・マーチンズの近くにあるロンドン・フィルム・スクールの学生だと言っていた。僕たちはすぐに仲良くなった。彼も僕も、そのころ籍を置いていたバンドに不満を抱いていた。そして一緒に何曲か書いてみようじゃないかってことになったんだ。そしてニルヴァーナが生まれたんだよ」。

生涯の友となるキャンベル・ライオンズとスパイロポウロスは、自分たちの作品を作り上げていくということに、大きな野心をもって、真剣に取り組んでいこうと考えていた。彼らはソングライティングの技術を磨いていき、その後の数ヶ月で5曲を完成させた。それらの楽曲はニルヴァーナのデビュー作『The Story Of Simon Simopath』にの基調になった。1967年10月にリリースされたこのアルバムは、当初、『The Story Of Simon Sociopath』(”sociopath”は”社会病質者”を意味する)と名付けられていた。当時を振り返り、キャンベル・ライオンズが語る。「自分たちが納得できる楽曲を書き上げることができるまで、フルタイムの仕事に臨むように全力を傾け続けた。やがて作品がかたちになると、当時の一流のプロデューサーたちに売り込みの電話をかけた」。



スティーヴ・ウィンウッドの兄でスペンサー・デイヴィス・グループのベーシストだったマフ・ウィンウッドは、かつてパトリック・キャンベル・ライオンズに名刺を渡し、何かあれば連絡をくれと伝えていた。そして二人がプロデューサーを必要としていたこのとき、彼はちょうどスペンサー・デイヴィス・グループを脱退し、アイランド・レコードのスタッフ・プロデューサーとして新たなキャリアを歩みだそうとしていた。ウィンウッドは、ニルヴァーナのためにアイランド・レコードの代表者であるクリス・ブラックウェルとのオーディションをセッティングした。ブラックウェルはキャンベル・ライオンズとスパイロポウロスの楽曲を気に入ったという。

 

「大人のためのパントマイム」

1967年、アイランド・レコードはデイヴ・メイスン、フリージミー・クリフ、トラフィック、ケン・ブースといったアーティスト/グループの作品を相次いでリリースした。また、アイランドはフォーク・シンガーのジョン・マーティンとも契約を交わし、マーティンのアルバム『London Conversation』を発売している。「ジョン・マーティンとは知り合いだった」キャンベル・ライオンズが語る。「彼はオックスフォード・ストリートにあるレーベルの事務所によく出入りしていた。あのころのアイランド・レコードでは、開放された場所でデモを披露しなければならなかったんだ。だからそんな時に他のバンドのメンバーもそこにいて、互いに励ましや時にはアドバイスを与え合うなんてこともあった。クリス・ブラックウェルは僕たちの演奏を気に入ってくれて、次の日の朝にはアルバム2枚分のレコーディング契約を交わしてくれた。当時は概してそんな風だったね。で、僕たちも、いわゆる”アイランド・ファミリー”の一員になったんだ」。

デビュー・アルバム『The Story Of Simon Simopath』には、デヴィッド・ブラウニングが手がけたすばらしいアートワークが採用されていたが、作品そのものも「大人のためのパントマイム」と評され、ロック・ミュージシャンによる最初期のコンセプト・アルバムのひとつとして絶賛された。今回新たに編集された『Rainbow Chaser: The 60s Recordings (The Island Years)』は全52トラックで構成されているが、このうち27トラックはこれまで未発表だった音源で占められている。その中にはデビュー・アルバムや1968年にリリースされたセカンド・アルバム『All Of Us』(正式なタイトルは『The Existence Of Chance Is Everything and Nothing Whilst the Greatest Achievement Is the Living of Life and So Say ALL OF US』というもの)のレコーディング時に残された未収録音源やデモ、別ヴァージョンも含まれている。

ブラックウェルは1967年にニルヴァーナの「Tiny Goddess」(ブラックウェルはこの曲のレコーディングでドラマーも務めている)をシングルとしてリリースし、翌年には「Rainbow Chaser」を、同じくシングルとして発売した。「Tiny Goddess」はイギリスのシングル・チャートで最高位34位をマーク。ヨーロッパの複数の国でもヒットを記録し、ニルヴァーナはブレイクを果たした。このヒット曲は、その後もコマーシャルやサウンドトラック等に採用されており、2012年にはイギリスのヒップ・ホップ・デュオ、リズル・キックスの「Dreamers」にサンプリングされてもいる。


 

「想定外の成功」

「“Rainbow Chaser”では運が味方して、想定外の成功を収めた」キャンベル・ライオンズが回想する。「当初、1968年5月のシングルのA面に予定されていたのは“Girl In The Park”で、“Rainbow Chaser”はそのシングルのB面に収録される予定だった。あのころはシングルにはベストな曲を準備して、両面ともパンチのある曲を選曲するのが一般的だったんだ。優れた楽曲を持っているってことをアピールするためだね。ドイツやスカンジナビア諸国ではよくあることだったけど、B面の曲が気に入られることも当然考えられる。“Rainbow Chaser”ではブライアン・ハンフリーズのプロデュースがすばらしく、今でもいいスピーカーで聴けばそのクオリティがわかる。あれはいい曲だ。とてもキャッチーだし、今もまだ愛されている。レコーディングのとき、僕たちは時間がなくてクリス・ブラックウェルに2番のヴァースの歌詞が書けていないと伝えたんだ。すると彼は“1番の歌詞を繰り返せばいい”と言った」。

キャンベル・ライオンズは幼いころから音楽に親しんでいた。彼の母親は、家にある古い蓄音機でSP盤をよく聴いていたという。彼が初めて聴いたレコードはマリオ・ランツォが歌う「Ava Maria」だった。キャンベル・ライオンズによれば、1940年代から1950年代のアイルランドの家庭には音楽や詩があふれていという。そんな環境の中、彼は物語や言葉で感情を表現する方法をごく自然に学びながら育っていった。

キャンベル・ライオンズが初めてギターに触れたのは11歳のときだった。「友だちの父親が、地元のダンス・ホールでグレン・ミラーの曲を演奏する楽団に所属していた。その友人も僕もギターを持っていた。それを抱えて2人でエヴァリー・ブラザーズになりきったものだよ」。そのころは思いもよらなかったに違いないが、後年、彼が真似をしていたという世界的な人気デュオはキャンベル・ライオンズの書いた「I’m Finding It Rough」(クリス・トーマスとの共作)を録音。1967年のアルバム『The Everly Brothers Sing』に採用することになる。

活発だったというキャンベル・ライオンズ少年(小さいころはサーカスに夢中で、本気でサーカス団に加わろうと家出を試み、連れ戻されたこともあった)は若いころから、音楽で世界を旅するチャンスを得られると感じていた。「音楽はたくさんの扉を開いてくれる。僕の目の前に開け放たれたのはレコーディングという世界の扉だった。僕は自分で自分の人生を切り開いたんだ」。

各地を放浪する中で、彼はレゲエ・シンガーのジミー・クリフとブラジルを訪れている。クリフはリオ・デ・ジャネイロで行われたインターナショナル・ソング・フェスティバルで「Waterfall」(スパイロポウロスとキャンベル・ライオンズの共作)を披露した。「ジミーは瞬く間にジャマイカを代表するシンガーになった」。キャンベル・ライオンズはそう話す。「そして彼は、やがて大スターになっていった。ジミーはとても活発で、とてもスピリチュアルだった。すばらしい人物だよ。彼のすべては精神性に成り立っている。そのあたりは“Many Rivers To Cross (遥かなる河)”を聴いてもわかると思う。アイルランド人とギリシャ人が書いた曲“Waterfall”がブラジルでヒットしたんだ。嬉しいよね」。

 

「ダリは2頭の幼いトラを引き連れていた。」

キャンベル・ライオンズのシンガー/プレイヤーとしてのキャリアのハイライトは、天才芸術家サルバドール・ダリの前でのパフォーマンスだった。「彼はずっと僕の憧れの対象だった。18歳か、19歳くらいのころ、彼の絵を見て僕はすっかりその虜になってしまったんだ。感受性がとりわけ強い年代に出会ったせいかもしれないけれども、それ以来、サルバドール・ダリの作品は常に僕の心の中にあった」キャンベル・ライオンズが回想する。「初めての海外旅行で僕はスペインを訪れた。いわゆる”マジック・バス”に乗ってロンドンからバルセロナまで旅をしたんだけど、実はそのとき海辺にあるっていう自宅を訪ねて彼に会うつもりでいたんだ。サルバドール・ダリがその夏はずっとパリに滞在していたってことは、そのときはまだまるで知らなかった」。

それから2年後の1969年、「Rainbow Chaser」の成功によって、キャンベル・ライオンズと彼の仲間たちはダリがホストを務めるテレビ番組に招かれることになった。その日は記憶に残る奇妙な1日になった。「僕たちはその番組で“Pentecostal Hotel”とあともう1曲を披露することになっていた」。キャンベル・ライオンズが振り返る。「ダリは明るい赤のヴェルヴェットのスーツに身を包み、暗い赤のレザー・ブーツを履いていた。両脇には金髪の女性を連れていて、後ろには2頭のベンガル虎の子どもを従えていた。とても正気の沙汰とは思えなかったね」。

キャンベル・ライオンズは世界的に有名な芸術家ダリの振る舞いを思い出して笑う。「ダリは普通の言葉を一切話さなかった。スペイン語やフランス語や英語がごちゃごちゃになった、彼独自の言語を作り出していたんだ。たとえば「Daaaaaaaaliiiiiiiii」みたいな感じに引き延ばして発音するんだけど、これがまったく意味不明なんだよ。僕たちが演奏しているあいだもグラマラスなモデルたちが歩き回っていて、カメラマンもあちこちに移動し続ける。僕たちにはそこで起こっていることについていくのがやっとだった。彼はすごいものを見せてくれた。長い筆で大きな白い幕に壁画を描くと、演奏を続けている僕たちの服やチェロに黒いスプレーを吹きかけたんだ。あのときのジャケットはしっかり取っておいたけれども、今思えばサインをもらっておけばよかったよね」。

キャンベル・ライオンズはその後、もういちどサルバドール・ダリに近づく機会に恵まれている。ダリのマネージャーが、スペインで開かれたパーティに彼を招待してくれたのである。「あれは彼の自宅で開かれたかなり激しいパーティだった。週末のあいだずっと続いていたよ」。キャンベル・ライオンズ(彼は『Psychedelic Days』と題した自伝も出版している)が語る。「彼がその場にいたと言う人もいれば、実際はいなかったと言う人もいる。替え玉を使っていたって言う人もいたね。世界中から人が集まっていて、みんなが孤立していた」。

Patrick Campbell-Lyons, today, in Greece

「今でも会っていろいろな話をするよ。」

こうした刺激的な出来事を経験してきたキャンベル・ライオンズは、「テクノロジーの発達によって、人々が家から出なくなり、スクリーンに釘付けになっている」と現代の社会に懸念を示す。彼は音楽が1960年代からほとんど進歩を遂げていないと考えている。そしてそれゆえに、現在も当時の優れたバンドが話題に上るというのが彼の意見だ。「パンクみたいなウンター・カルチャーでさえ、ビートルズに比較すれば短命だった」。

パトリック・キャンベル・ライオンズは6年前からギリシャに移り住んでいる(最近、彼は地元のミュージシャンの協力を得て、『You’re A Cloud, I’m A Comet』というソロ・アルバムを制作している)、かつてのバンドメイトであるスパイロポウロスと会うこともあるという。「アレックスと僕で新しいニルヴァーナのアルバムをレコーディングするっていう計画はない。だけど彼とはよく会って、1970年代に一緒に書いた一連の楽曲の可能性について話し合っているよ。あのミュージカル『Hair』で歌っていた連中と作ったサンドトラックなんかは面白いプロジェクトだと思うよ。果たしてそれがこの先どうなるか、誰にもわからない。ひょっとしたら失われた傑作として陽の目を見ることになるかもしれない」。

アイランドからリリースされる『Rainbow Chaser: The 60s Recordings (The Island Years)』では、『The Story Of Simon Simopath』のセッションでレコーディングされた未発表トラック(「Goodbye Baby Bunting」「City Of The South」)や、サード・アルバム『Dedicated To Markos III』に収録されている3曲の別テイクなども聴くことができる。パトリック・キャンベル・ライオンズは「昔を懐かしむ」ことに興味はないと断言した上で、今回、新たに制作された編集盤を誇りに思うと言い、その理由を以下のように説明する。「僕たちは懸命に働き、すばらしい音楽を作り上げた。半世紀を経てなお色褪せることのない作品をね」。

Written By Martin Chilton


ニルヴァーナ『Rainbow Chaser: The 60s Recordings (The Island Years)』


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