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ジェームス・ブラウンと政治:社会変革の中、黒人の自尊心の高まりと響き合ったソウルマン

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「Don't Be A Dropout」キャンペーンについて語り合うジェームス・ブラウンとヒューバート・ハンフリー副大統領 (1967年) Photo: Michael Ochs Archives/Getty Images

ジェームス・ブラウン(James Brown)は黒人のアメリカ文化を音楽的にまとめ上げた存在だった。「ミスター・ダイナマイト」の異名をとった彼はソウルとファンクの最前線に立ち、ディスコからヒップホップまでありとあらゆるリズムの基礎を築き上げ、フェラ・クティからマーリー・マールまでありとあらゆるアーティストにインスピレーションを与えた。

ジェームス・ブラウンはヒットを連発する音楽のイノベーターであり、それと同時に実に魅力的なパフォーマーだった。しかし、彼の存在感はそれだけにとどまらなかった。彼の熱気にあふれたシャウトと気迫のこもったグルーヴの向こうには何かがあった。

ジェームス・ブラウンは、音楽を超越したエネルギーと黒人らしさのオーラを象徴し、彼の音楽、そしてアプローチやイメージは、黒人の自尊心の高まりと響き合い、彼を社会的かつ政治的に重要な人物という立場にまで押し上げたのだ。彼の政治的姿勢は次第に進化し、変化し、しまいにはファンを混乱させることさえあったが、それでも彼は間違いなく見逃せない存在だった。

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ジェームス・ブラウンの音楽は、常に文化的な力を持っていた。初期のシングル「Please Please Please」や「Try Me」はR&Bというジャンルの中でも特に汗にまみれた根性のあるソウルのお手本となり、これらから影響を受けたスタックス・レーベルやマッスル・ショールズのアーティスト達はたちまちすばらしい作品を生み出していった。

さらに1960年代半ばからブラウンはプロト・ファンクの名曲をいくつも発表し、ジョージ・クリントンからスライ・ストーンに至るまで、ありとあらゆる人たちの活躍の土台を作り上げた。こうした活動は、黒人の自意識の成長と軌を一にしていたように思われた。それまでの黒人アーティストといえば、プロモーション用のプロフィール写真ではパリッとしたスーツを着て笑顔で微笑んでいたが、ジェームス・ブラウン以降はそうしたイメージに縛られず、もっと激しく奔放なスタイルが一般的になったのである。

 

ジェームス・ブラウン、1960年代の政治的な姿勢

1960年代後半、ポピュラー・ミュージックが時代を映し出す社会派の姿勢を強めるにつれ、ジェームス・ブラウンの地位はさらにはっきりとしていった。彼は黒人コミュニティの有力者として、また文化的な影響力を持つ人物として、かなりの重みを持つことになったのだ。

ジェームス・ブラウンのアプローチは、斬新といってもいいほどに率直なものだった。1966年、高校の中退率が上昇していた時期には、中退を思いとどまるように呼びかける楽曲「Don’t Be A Drop-Out」を発表。さらに1960年代を通して、公民権運動をはっきりと支持していた。

彼は南部キリスト教指導者会議のためにチャリティー・コンサートを行い、さらにはジェームズ・メレディスが始めた”恐怖に対する行進 (March Against Fear) “の最中にミシシッピ州のトゥガルー大学で行われた集会のステージに立った。メレディスは、1962年に州兵に警護されながらミシシッピ大学に入学した最初の黒人学生として歴史に名を残す人物で、”怖に対する行進”の開始直後に銃で撃たれて負傷している。

James brown Live 1966 (March Against Fear)

ジェームス・ブラウンはある世代に対して途方もない影響力を及ぼし、しかも自分の力を理解していた。その力の使い方を見ると、彼が間違いなく信念を貫き通した複雑な人物だったことがわかる。時にはその信念が流行にそぐわないものに見えたかもしれないが、それでも彼は自分を曲げなかった。

1968年、彼は「America Is My Home」という辛辣な曲を発表した。「アメリカは最高だ」と歌っているこの曲は、ストークリー・カーマイケルやマーティン・ルーサー・キング・ジュニアといった黒人の指導者たちがベトナム戦争反対の姿勢を打ち出したことに対する彼なりの反応だった。この曲は時代が揺らいでいる中にあっても一体感を感じさせるものであり、ジェームス・ブラウンの古風な愛国心を際立たせている。彼は自伝でこう振り返っている。

「より過激な組織のいくつかは、ライヴの後でバックステージに代表者を送り込んできた。この問題について話し合おうというのだ。彼らはこう尋ねてきた。“キング牧師が暗殺されるという事件が起こったのに、どうしてあんな歌をやれるんだ?”  私は彼らと話をして、説明しようとした。あの歌で”America is my home (アメリカは自分の故郷だ)”と言ったのは、今の政府が自分の故郷だという意味ではなく、このアメリカという土地とそこに住んでいる人たちが自分の故郷だというつもりだったんだ。けれども彼らは、そういった類の説明に聞く耳をもたなかった」

アメリカ人であることを誇りに思う彼の感覚は、黒人運動への確固たる支持と一体となっていた。1968年、彼は黒人らしさを讃える最も有名な曲を発表する。その曲「Say It Loud, I’m Black and I’m Proud」は「Black」を自尊心とアイデンティティを表す言葉として使い、白人至上主義やそれが多くの黒人にもたらした自己嫌悪をひっくり返そうとするものだった。インタビューの中でブラウンは”カラード”という昔ながらの黒人の呼び方に反対し、”ブラック”という自己主張の強い言葉で自信を深めるべきだとはっきり主張していた。

Say It Loud – I'm Black And I'm Proud (Pt. 1)

 

ジェームス・ブラウンの伝説的なボストン・コンサート

「Say It Loud, I’m Black and I’m Proud」をリリースした同じ年の4月、ジェームス・ブラウンの文化的影響力は、今では伝説となっているボストンでのコンサートの際に急激に浮き彫りになった。

1968年4月4日のマーティン・ルーサー・キング・ジュニアの暗殺事件のあと、アメリカ各地の都市では怒りと暴力が爆発していた。暗殺された翌日、ジェームス・ブラウンはボストンでコンサートを行う予定だったが、ボストン市当局は社会情勢が不穏なため、ライヴの中止を検討。しかしこのコンサートを中止すると、激化する人種間の対立を煽るだけではないかとの懸念もあったため、土壇場でこのコンサートは生中継で放送の電波に乗ることになった。とはいえ市当局は、こうした手立てを尽くしても暴動を鎮圧できないのではないかと不安を募らせていた。

コンサートのステージに登場したジェームス・ブラウンは、この状況下でライヴを行うために力を尽くしたトム・アトキンス市議会議員を称賛。コンサートに集まった観客は、予想を大幅に下回る人数だった (1万4,000人と推定されていたのに対し、約2,000人にとどまった) 。しかしこのライヴの模様は、ボストンの放送局WGBHで生中継された。

ジェームス・ブラウンはその夜、見事に群衆を落ち着かせただけでなく、警官による暴力沙汰も阻止した。ファンがステージに殺到しようとしたとき、警備をしていた警官が警棒を引き抜いたが、ブラウンは彼らに落ち着くように促したのだ。そしてこのコンサートは、アメリカのほとんどの都市がまだ暴動で燃え盛っていた夜にボストンを沈静化させたとして賞賛された。

この夜の出来事によって、黒人コミュニティ内でも黒人以外の観察者のあいだでもブラウンの地位は確固たるものになった。このときのパフォーマンスはのちにライヴ・アルバム『Live At the Boston Garden: April 5, 1968』としてリリースされ、この夜のエピソードは、『The Night James Brown Saved Boston (直訳:ジェームス・ブラウンがボストンを救った夜 / 下記YouTubeにて字幕なしフル公開) 』というドキュメンタリーの題材にもなっている。

The Night James Brown Saved Boston

 

ジェームス・ブラウンの1970年代以降の政治的な姿勢

こうしたジェームス・ブラウンの姿勢は我慢強さを説くものであり、彼には「自力で苦境を乗り切ろう」と説教する傾向があった。たとえば「I Don’t Want Nobody to Give Me Nothing (Open Up the Door, I’ll Get It Myself) 」は、黒人が自立して生きていくことを讃える曲だ。黒人が自力で立ち上がることができれば、制度的な人種差別を回避できるように考えたのである。やがて1960年代から1970年代に入ると、ジェームス・ブラウンの政治的な姿勢はより複雑になり、時には矛盾しているようにさえ見えることもでてきてしまう。

I Don't Want Nobody To Give Me Nothing (Open Up The Door I'll Get It Myself)

あるとき、彼は雑誌『ジェット』で次のように語っていた。

「俺は、アメリカの黒人が刑務所から解放されるまで休むことはできない。解放された黒人の稼ぎが、隣人の稼ぎと同じくらいになるまでは休むことはできない。黒人は自由にならなきゃいけない。黒人は、ひとり前の大人の人間として扱われなければならない」

そして彼は、アフリカでかなりの時間を過ごすことにもなる。1970年にはケネス・カウンダ大統領の招きをうけザンビアで2度コンサートを行った。また1974年には、コンゴ民主共和国キンシャサで行われたモハメド・アリとジョージ・フォアマンのボクシングの戦い「ランブル・イン・ザ・ジャングル/キンシャサの奇跡」の前に行われたコンサート・フェスティヴァル「ザイール74」のステージにもブラウンは立っていた(この模様はドキュメンタリー映画『ソウル・パワー』に収められている)。

映画『ソウル・パワー』予告編

翌年、彼はガボン共和国のオマール・ボンゴ大統領の就任式に出演。世界各地に散らばったアフリカ出身の黒人の絆を彼は信じており、そうした世界各地の黒人をつなげる役割を自ら果たしていたのだ。彼はザンビアの文化を賞賛し、フェラ・クティの1970年代アフロ・ビートに直接影響を与えている。

その一方で、ブラウンの政治的な姿勢はますます彼のファンを混乱させるようになっていく。その後の数十年のあいだには、さまざまな保守的な人物を支持するなどの振る舞いで物議を醸すことも何度かあった。それに対するブラウンの気持ちはシンプルだった。つまり彼にとっては、権力を持っている人間と対話することが重要だったのである。

突き詰めて言えば、ジェームス・ブラウンの政治的姿勢は自分自身の反映だった。つまり彼は、人種隔離政策が行われていたアメリカ南部からスーパースターの座に上り詰めた黒人だった。そして、勤勉さと少しばかりの冷酷さがあれば何でも成し遂げることができるという考えを体現しているように見えた。黒人を誇らしく思う彼の自尊心がその音楽や活動の中に現れていたのは明らかだ。それと同時に、「自分のことは自分でやる」という信念が抑圧的な現実に対する自らの目を曇らせているようにも見えた。彼の名曲は、黒人の自己表現と黒人の自己肯定を賞賛する。彼の遺した作品は、その両方の面で彼がとてつもない力を発揮したことを証明している。

Written By Stereo Williams



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