直感で演奏し観客を魅了したシンガー/トランペッター、チェット・ベイカーの栄枯盛衰

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1988年5月13日(金)に、アムステルダムの宿泊先だったホテルの3階の窓の下にあるアスファルトの上で、血まみれのボロボロの状態でチェット・ベイカーの遺体が発見された時、当初は誰もその遺体が何者かに気がつかなかった。何年にも及ぶドラッグとアルコール摂取の影響により、亡くなった時、58歳になっていたチェットは、1950年代初期の身なりが綺麗で彫りが深く、西海岸のクール・ジャズを代表する若かりし頃とはほど遠い姿になっていた。チェットの死は、ホテルの窓から転落した悲劇的な事故と断定された。これは、初期には素晴らしいキャリアを送っていたジャズ・ミュージシャンにとっては不名誉な結末だった。

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チェット・ベイカー『Chet Baker Sings』解説

 

話を遡ってご紹介しよう。1929年12月23日にチェスニー・ヘンリー・ベイカーとしてオクラホマ州イエールに生まれ、父親はプロのギタリストで、母親はピアノを弾くという音楽一家で育ったこともあって幼い頃から音楽に興味を示した。父親は、ジャック・ティーガーデンのファンだった14歳の“チェティ”(母親が呼んでいた愛称)にトロンボーンを購入したが、幼い彼には扱いにくいようだったため、トランペットに交換した。すると自然と楽器との一体感が生まれていった。

1946年、16歳の時にチェットは米軍に入隊し、管楽器のスキルを活用して米軍の楽隊で演奏を始めた。1951年に除隊し、ロサンゼルスに拠点を移して西海岸のジャズ・クラブで演奏するようになる。マイルス・デイヴィスに影響を受けた叙情的なトランペット・サウンドで彼は有名になり、その演奏は感情をあらわにしたスタイルで演奏するサックス奏者のスタン・ゲッツチャーリー・パーカーを見事に引き立て、50年代初期には頻繁に彼らと共演した。

チェットがブレイクしたきっかけは、1952年にバリトン・サックス奏者のジェリー・マリガンのカルテットに加入した時で、ピアニストがいない形式のこのカルテットは当時としては革新的だった。この型破りな組み合わせにより、2人の管楽器のプレイヤーたちはハーモニーを自由に演奏することができ、絡み合う対位法的なメロディを演奏するきっかけになった。グループのライヴは人々の興味を大いにそそり、ディック・ボックのレーベルであるパシフィック・ジャズでのレコーディングにつながった。この時にはジャズのスタンダード「My Funny Valentine」のインストゥルメンタル・ヴァージョンがヒットしている。

早く激しく演奏するほとんどのビバッパーと異なり、チェット・ベイカーの特徴はミニマルな力強さにある。他のミュージシャンであれば100の音を奏でても表現しきれないものを、同じトランペッターのマイルス・デイヴィスのように、選りすぐりの数少ない音符だけで表現できるのだ。

 

ジェリー・マリガンが麻薬で捕まり刑務所に入った時にソロ活動を始め、ヴォーカリストとしてもトランペッターとしてもすぐに存在感を示し、1954年に『Chet Baker Sings』を発表。メロウな声は物憂げで夢のようであり、さらに幅広い聴衆を魅了した。パシフィック・ジャズで様々なアルバムを収し、1957年の『Chet Baker & Crew』もその1枚だ。そしてヨーロッパ・ツアー中にフランスのレーベルであるバークレイでレコーディングを行った。

直感で演奏するプレイヤーであり、音譜はほとんど読めないが耳で覚えた。チェットはそれでも常にベスト・ジャズ・トランペッターのトップを獲得し、音楽教育を受けていたディジー・ガレスピーやマイルス・デイヴィスを超えていたほどだ。

写真写りが良く、マチネのアイドルのようなルックスだったチェットは憧れの存在となり、ハリウッドがそこに目をつけた。彼がお金になる銀幕スターになる可能性にかけて、朝鮮戦争を舞台にした映画『Hell’s Horizon』で、トランペットが演奏できるジョッキーというキャラクターに配役された。しかし、この映画はB級作品だったためは、スターの要素を加えようと配役されたチェットの存在感があっても失敗に終わってしまった。その後さらに映画に出演することを勧められたが、彼はさらに銀幕で活動する欲求を我慢し、ミュージシャンとしての人生を好んだ。

 

当時のジャズ・ミュージシャンとしての生活は危険も伴う。この頃には麻薬がチェットの人生に大きく影響するようになっていた。他の多くのジャズ・ミュージシャンの中では、麻薬がクリエイティヴィティの助力となると思われていた。チェットはその誘惑に屈し、むしろ人生を破滅にむかって歩んでいってしまう。

50年代後半にチェットは麻薬の使用によりアメリカ当局に追われ、その手を逃れようとアメリカからヨーロッパに移住した(1959年には悪名高いニューヨークにあるライカーズ・アイランド刑務所で数ヵ月過ごしている)。しかしヨーロッパは避難所にはならず、1960年にイタリアにてヘロイン所持で収監され、その後また麻薬の問題でイギリスからもドイツからも追放された。

Photo: Herman Leonard

アメリカに帰国したチェットは、60年代初期に様々なレーベルで音楽を制作し続けたが、1966年に喧嘩で歯を折られ、そのキャリアは転落していく。その暴行によって口を負傷してしまい、トランペットを演奏することが不可能になってしまったのだ。ガソリンスタンドで働くまでになり、差し歯を入れるまでトランペットを演奏することができなかったのだ。

70年代に入るとチェットは自身のキャリアを立て直し始めた。ニューヨークへ拠点を移し、レコーディングを再開、プロデューサーのクリード・テイラーの影響力の強いレーベルCTIに所属し、ジェリー・マリガンとも再会を果たした。しかし70年代には人々が求めるジャズの趣向が変わってきており、ビバップやストレートなジャズは、より人気のあるフュージョンやジャズ・ロックに取って代わられていた。70年代の終わりには、チェット・ベイカーはA&Mのジャズ部門のホライゾンに加わり、エレクトリックやファンクを取り入れ、ディスコの影響さえも少し入ったアルバム『You Can’t Go Home Again』でサウンドを現代化した。

しかし、流行を追うことでチェットの衰退していたキャリアが復活することはなかった。1978年にヨーロッパに移り、そこでヒーローの生還のように称賛され、1988年に亡くなるまでそこに滞在した。

しかし、チェット・ベイカーの人生と音楽への人々の興味がなくなることはなかった。イーサン・ホークがチェット役を演じた2015年の映画『ブルーに生まれついて』とブルース・ウェバーの1988年のドキュメンタリー『レッツ・ゲット・ロスト』と2本の映画で扱われ、著書も多数出版されている。ジェイムズ・ギャヴィンが執筆し、全てをさらけ出した伝記『終わりなき闇:チェット・ベイカーのすべて』もその一冊だ。そしてもちろん、彼の音楽は世界中の人々を魅了し続けている。また、彼の音楽は頻繁にサンプリングされ、その中でも最も印象に残っているのはR&Bシンガー、マライア・キャリーとトリップホップのMC、トリッキーだ。

 

面白いことに、チェットは“ジャズ界のジェームズ・ディーン”と称されたこともあるが、実際にはあまり当てはまらない肩書きだ。まず、シンガー/トランペッターである彼のキャリアは、24歳で亡くなった絶望的な俳優に比べればかなり長く、生産的だった。もしかすると、この比較はチェットが若い頃に示していた自身の可能性をフルに実現できなかったという誤った認識から生じているのかもしれない。確かに彼の人生における経験の中には悲惨な出来事もあったが、チェットはジェームズ・ディーンと違い、若くして亡くなったわけではない。それどころか、多作のレコーディング・アーティストであり(人生で100枚以上のアルバムを制作している)、ジャズ界には確実にその足跡を残し、約40年に及ぶキャリアでその道のりを形成した人物だった。

 

チェットは、ジュリアードを卒業していなくても、直感でそのボキャブラリーを理解し、深い感情と、肝心な独自のサウンドをもってプレイ、インプロヴァイズすることができれば、偉大なジャズを奏でることができると証明したのだ。

死後30年以上を経た今もなお、世界はチェット・ベイカーに今まで以上に魅了され続けている。彼のベストだった時期にトランペットで奏でた音楽は完全に詩のような作品であり、だからこそ今日でも老若男女のリスナーの心に響き続けるのだ。

Written by Charles Waring


チェット・ベイカー『Chet Baker Sings』

   

♪ プレイリスト『Chet Baker



 

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