ビリー・ホリデイの20曲:全米のポップ・シンガーは、彼女からなんらかの影響を受けている

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カウント・ベイシーのアルバム『Chairman Of The Board』の言葉によると、「ごく少数の例外を除き、彼女の世代の全米の有名ポップ・シンガーは全て、彼女の才能になんらかの影響を受けている」。今日、伝説のアーティストはありふれた存在になりつつある、しかし、ビリー・ホリデイが最初に称賛を受けた時、その称賛は本当に重要な意味を持っていた。

だからこそわれわれは、“レディ・デイ”のキャリアの物語をたった20曲で伝えるという不可能な挑戦に挑もうとしている。いつも通り、本当に初めから始めよう。ビリー・ホリデイはクラリネット奏者のベニー・グッドマンと、彼のオーケストラ(ドラマーはジーン・クルーパ)と共に、1933年の10月18日、レコーディング・スタジオに入った。彼女はその日、1曲だけレコーディングしたが、その「Your Mother’s son-in-Law」は、彼女がいかに有望であるかを伝える曲にはなっていなかった。2ケ月後、1933年のクリスマスの数日前に、ビリー・ホリデイはよりいい曲「Riffin’ the Scotch」をベニー・グッドマンとレコーディングした。われわれのプレイ・リストの1曲目である。

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1935年、ビリー・ホリデイはデューク・エリントンの短編映画『Symphony in Black: A Rhapsody of Negro Life』で、愛人に虐待される女性という小さな役を演じた。彼女が登場するあるシーンで、ビリー・ホリデイは「Saddest Tale」を歌った。

1935年の7月2日、20歳のビリー・ホリデイは、ピアニストのテディ・ウィルソンと組んでレコーディングを始め、非常に多くの楽曲を生み出せることを証明した、そしてその中には名曲も含まれていた。彼らの最初のセッションでは、トランペット奏者のロイ・エルドリッジ、ベニー・グッドマン、そしてテナー・サクソフォン奏者のベン・ウェブスターと共に、4曲を録音。その中に素晴らしい「What a Little Moonlight Can Do(邦題:月光のいたずら)」が含まれていた。軽やかで明るいバンドの演奏に、ビリー・ホリデイのエレガントで早熟なヴォーカルが映えている。

その後の12ケ月間、ビリー・ホリデイは約12曲をテディ・ウィルソンと共にレコーディングし、それから彼女の名義で、彼女自身のオーケストラを従えてレコーディングに入った。最初のセッションは1936年の7月で、4曲を録音。その中の1曲「Billie’s Blues」では、バニー・ベリガンがトランペットを、アーティ・ショウがクラリネットを、ジョー・ブシュキンがピアノを、ディック・マクドノーがギターを、ピート・ピーターソンがベースを、コージー・コールがドラムを演奏し、素晴らしいサウンドを作り上げた。

1937年の1月、ビリー・ホリデイは再び、テディ・ウィルソンとベン・ウェブスターを含む彼女のオーケストラと共に「I’ve Got My Love To Keep Me Warm」をレコーディングした。1937年の5月には、またテディ・ウィルソンのオーケストラと組んで、ジョニー・ホッジズをアルト・サックスに、比類のないレスター・ヤングをテナー・サクソフォンにフィーチャーした「Mean To Me」をレコーディングした。ビリー・ホリデイを“レディ・デイ”と名づけたのはレスター・ヤングで、ビリー・ホリデイはお返しに彼を“プレス”(*訳注:プレジデントの略)と呼んだ。

1937年、ビリー・ホリデイはカウント・ベイシーのオーケストラと共に歌い、その翌年は、アーティ・ショウと一緒に出演し、白人のオーケストラと共にステージに上がった初の黒人シンガーになった。ビリー・ホリデイにとって、それは簡単な仕事ではなかった。そのすぐ後に、フランク・シナトラが彼女の虜になり、「52番街にあるジャズ・スポットのスポットライトの下で、彼女が歌うのを初めてきいた。私は彼女の柔らかな、息をのむ美しさに魅了された」と語った。フランク・シナトラはのちに、ビリー・ホリデイが歌っていた沢山の曲をレコーディングした。

1939年、ビリー・ホリデイはグリニッチ・ヴィレッジのカフェ・ソサエティに出演していた。このショウのおかげで、彼女は以前よりも大規模な白人の観客層を獲得することになった。カフェ・ソサエティで彼女の声を聞いた観客は誰もが感嘆し、「I Cover The Waterfront」を含む片思い・失恋ソングに夢中になった。この曲は後にフランク・シナトラがレコーディングしている。しかし、このクラブでのビリー・ホリデイの魔法と同義になった曲がある。ある夜、ニューヨークの公立学校の教師、アベル・ミーロポルが、カフェ・ソサエティのオーナーのバーニー・ジョセフソンに、書いた曲を彼女に歌ってもらえないだろうかと尋ねたのだそうだ。それを彼女は快諾した。それが、素晴らしい「Strange Fruit(邦題:奇妙な果実)」の誕生秘話だ。


この曲はアメリカの南部のどこかで黒人男性がリンチされる話だ。手加減などはない曲だった。反リンチの抗議の歌詞が、曲を非常に強力にしていたが、ビリー・ホリデイのレコードレーベルであるコロムビアは、発売を拒否した。ニューヨークでミルト・ゲイブラーが運営していたザ・コモドア・レーベドは、何も問題にしなかった。ビリー・ホリデイがこの曲を生で歌った時、観衆は圧倒されて沈黙し、男性も女性もすすり泣いたであろう。

1939年4月の「Strange Fruit」と同じセッションで、彼女は「I’ve Got a Right To Sing The Blues」をレコーディングした。

この曲では、個人的な声明は少なめだった。2年後の1941年5月、ビリー・ホリデイは多くの人が彼女の歌として知っており、感情を喚起する「God Bless Child」をリリースした。

ビリー・ホリデイのドラッグ問題、特にヘロインの問題は、この時期に大事になり始めた。しかし、それは彼女がデッカ・レコードと契約する妨げにはならなかった。1944年の10月、新レーベルでの最初のレコーディング・セッションで、彼女の代表曲となる、美しい「Lover Man (Oh, Where Can you Be)」をレコーディングした。一ケ月後、彼女はもうひとつの名曲「That Ole Devil Called Love」をレコーディングした。この曲には、「Lover Man (Oh, Where Can you Be)」と同じように弦楽器が入っており、それがビリー・ホリデイの声に磨きをかけていた。

1946年、ビリー・ホリデイはJATP (Jazz at the Philharmonic)に初めて出演し、「The Man I Love」を含むセットをコールマン・ホーキンスを含むバンドと、プレス(レスター・ヤング)をテナー・サクソフォンに従えて披露した。

ビリー・ホリデイはまた、シンガー以上の存在として知られるようになり、ルイ・アームストロング出演の映画『ニューオリンズ(原題:New Orleans)』の役をオファーされた。それは、ジャズの誕生についての映画だった。典型的なハリウッドの仕事で、彼女はサッチモ(ルイ・アームストロング)と一緒に「Farewell to Storyville」をパフォーマンスした。3年後、ビリー・ホリデイはルイ・アームストロングと共に「Sweet Hunk O’Trash」をレコーディングした。

1952年、ノーマン・グランツと繋がりのおかげで、ビリー・ホリデイはノーマン・グランツのクレフ・レーベルを通して、マーキュリー・レコードと契約した。最初のレコーディングで彼女は、LP『Songs By Billie Holiday —Solitude』収録の、忘れ難い「You Go To My Head(邦題:忘れられぬ君)」をレコーディングした。その数週間後に、彼女は同アルバムのために再びレコーディングに入り、同じく忘れ難い「Tenderly」をレコーディングした。この曲には、ビリー・ホリデイがシンガーとして非常に尊敬され、愛されている理由の全てが入っている。そして、素晴らしいオスカー・ピーターソンフリップ・フィリップスと共に美しいテナー・サクソフォンを演奏し、チャーリー・シェイヴァースのミュート・トランペットと、バーニー・ケッセルのギターが華やかさを加えた、完璧な楽曲だ。

その後にクレフからのアルバムが数枚続き、1956年、ノーマン・グランツがヴァーヴ・レコードを創設した時、ビリー・ホリデイはそのレーベルに移籍してアルバムを制作した。そのアルバムに合わせて、彼女の自伝『Lady Sings The Blues』も発売された。この時に、すでにビリー・ホリデイは自制心を失っていたと言う声もあり、ドラッグ中毒が彼女に深刻なダメージを与えていたことは疑いの余地がなかった、しかし、バーニー・ケッセルの豪華なギターとベン・ウェブスターのテナーのソロが彼女の声を支えている「Ill Wind」を聞くと、彼女の歌う一言一言を信じずにはいられない。彼女の声は損傷を受けていたかもしれないが、彼女の歌い方と私達全員を信じさせる天賦の能力は、輝きを失っていなかった。

1956年の末、彼女の自伝の発売を祝うために、カーネギー・ホールでコンサートが行なわれた。そこでビリー・ホリデイは、素晴らしいバージョンの「I Cover the Waterfront」を始め、彼女の沢山のヒット曲を披露した。

1957年1月のヴァーヴでの最後から2番目のセッションで、彼女は「One for My Baby ( And One More for the Road)」をレコーディングした。完璧な曲だ。ハロルド・アーレン、ジョニー・マーサーによる名曲で、フランク・シナトラがビリー・ホリデイが歌う10年前に初めてレコーディングしていた。1958年、フランク・シナトラは彼のアルバム『Only the Lonely』のために、この曲を再度レコーディングした。ビリー・ホリデイが再び彼をインスパイアしたのだと考えるのも悪くないだろう。

1959年の3月11日、ビリー・ホリデイの最後のレコーディング・セッションは、ニューヨークでレイ・エリスと彼のオーケストラと共に行なわれた。レコーディングの最後の曲が、「Baby Won’t You Please Come Home」だった。4日後、レスター・ヤングが死去した。それは、ビリー・ホリデイにとって最後の、最も辛い一撃だった。2ケ月後、彼女はドラッグの摂取で倒れて病院に入った。最初の病院ではドラッグの摂取を理由に断られ、2度目に行った病院は、より寛容ではあったが、治療中にドラッグを摂取することは許されなかった。6月初頭に看護婦が彼女のベッドサイドテーブルでドラッグを見つけ、警察に通報した。入院中にも関わらず、彼女は逮捕された。その一ケ月後、病院で逮捕されたまま、ビリー・ホリデイは死去した。

ビリー・ホリデイは複雑な人だった。彼女は友人達に怒ることもあったが、それ以外の時は非常に優しい性格の女性だった。ドラッグにはまる以前は、酒とアルコールに依存したライフスタイルが彼女の声と体を痛めていたが、それでも彼女は相当に強力に、魂を込めて歌を歌い、彼女の声が本当に感動的であるという人々の評判を得ていた。

ビリー・ホリデイを20曲で? 不可能なことだが、われわれはそれに挑んだ。あなたなら、このリストに何を加えるだろうか? これはビリー・ホリデイのヒット曲集ではなく、彼女のキャリアの物語を伝える20曲であることを忘れないで欲しい。

Written By Richard Havers


♪プレイリスト『ビリー・ホリデイの20曲』:Spotify


 


 

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