ニューオーリンズ・ファンクの先駆者ドクター・ジョンが77歳で逝去。その半生を辿る

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ピアニスト、歌手、そしてニューオーリンズ・ファンクの先駆者だったドクター・ジョンが2019年6月6日、心臓発作のため77歳で逝去したことが、彼の親族によって伝えられた。

「2019年6月6日の明け方、アイコニックなミュージック・レジェンド、ドクター・ジョンとして知られる、マルコム・ジョン・レベナック・ジュニアが心臓発作のため亡くなりました」と彼の公式フェイスブックから出された声明は伝えている。「家族一同、彼のユニークな音楽人生を共に歩んでくださった全ての方々に感謝しつつ、この期間におきましては、プライバシーを尊重いただきますようお願い申し上げます。葬儀については後日発表致します」。

ドクター・ジョンは、60年代後半に“ドクター・ジョン・ザ・ナイト・トリッパー”名義での活動を始める10年以上も前に、ソングライターやセッション・ミュージシャンとして音楽キャリアをスタートさせていた。彼は1968年のデビュー・アルバム『Gris-Gris』発売以前にも、フランク・ザッパ、ハリー・ニルソン、キャンド・ヒートなど、偉大なミュージシャンたちの録音に参加している。

陽気なピアノと軽妙な歌いっぷりで知られるその独特のスタイルで、ドクター・ジョンはニューオーリンズのスピリットを具現化し、テント・リバイバル(テントで開催される福音主義の集会)に寄り添った巧みなパフォーマンスで、観客の信仰熱を駆り立てた。

 

ニューオーリンズ・スタイルのバイユー・ファンクとサイケデリック・ロックとを融合させたドクター・ジョンは、バンドリーダーとして30作ものスタジオ・アルバムを生み、数えきれないほどの他アーティストの作品にも参加し、若き日からずっとその音楽におけるクリエイティヴな情熱を失うことはなかった。ザ・バンドの歴史的ファイナル・コンサートの模様を記録したマーティン・スコセッシ監督によるドキュメンタリー映画『ラスト・ワルツ』の中で「Such A Night」を披露している彼は、リヴォン・ヘルム、グレッグ・オールマン、ヴァン・モリソン、リンゴ・スター、そしてB.B. KINGらとの共演歴を誇る引っぱりだこのサイドマンでもあった。

ファンク、R&B、ポップ、ジャズ他、ドクター・ジョンが極めていないジャンルはなく、 ニューオーリンズを代表するプロデューサーで、アレンジャー、ソングライターとしても知られるアラン・トゥーサンや、地元のヒーロー・バンドだったミーターズと共に、故郷ニューオーリンズに根ざした数々の名曲を生み、リッキー・リー・ジョーンズとのデュエット曲「Makin’ Whoopee」ではグラミー賞最優秀ジャズ・ヴォーカル・パフォーマンス賞を受賞している。

 

キャリア後半においては、デューク・エリントンやルイ・アームストロングといったジャズの巨匠たちへのトリビュート作品をブルーノートから発表し、2011年にはロックの殿堂入りを果たしている。その60年以上に及ぶキャリアにおいて、彼は音楽業界のほぼ全員と仕事を共にし、数えきれないほどの賞を受賞し、故郷ニューオーリンズの音楽文化の象徴として輝きを放ち続けた。

彼の最後のアルバムはザ・ブラック・キーズのフロントマン、ダン・オーバックがプロデュースを手掛けた2012年の『Locked Down』だったが、その後も公の場から退いた18ヶ月前まではライヴ活動を続けていた。



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