音楽界にジェンダー革命を起こしたカントリー歌手、ロレッタ・リンが90歳で逝去。その功績を辿る

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Loretta Lynn - Photo by Erika Goldring/WireImage

音楽界にジェンダー革命を起こしたナッシュビル出身のカントリー歌手、ロレッタ・リン(Loretta Lynn)がテネシー州ハリケーン・ミルズの自宅で逝去したことが彼女の家族によって伝えられた。享年90。カントリーミュージック協会のCEOであるサラ・トラハーンは次のように哀悼の意を捧げている。

「カントリーミュージック界がロレッタ・リンを失ったと同時に、世界が真の音楽レジェンドを失いました。ロレッタは、その貢献と影響力で数えきれないほどのアーティストたちにインスピレーションを与え、カントリーというジャンルを普遍的な芸術形式に変えた女性です。彼女はカントリー・ミュージックの殿堂入りを果たし、女性として初めてカントリーミュージック協会賞(CMA Award)の“エンターテイナー・オブ・ザ・イヤー”を受賞しました。先駆的なソングライターとして、社会的、文化的テーマに関連した曲作りに勇敢に取り組み、一時代を築いた人物でもあります。私は個人的に、ボブ・ディラン、ジョン・レノン、ポール・マッカートニーといった同時代のアーティストに匹敵する彼女の精神、芸術性、天性の才能をもって、ロレッタを記憶するでしょう」

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その生涯

ケンタッキー州の炭鉱の町、ブッチャーホラーで“炭坑夫の娘”として生まれ、慎ましい生活を送っていたロレッタ・リンは、20歳になる前に結婚し4人の子供を授かった。その独特の歌声から放たれる不屈の精神性により、何世代ものファンにとってカントリーミュージックの象徴であり続けた彼女が、1971年のヒット曲「You’re Looking at Country」の中で「私こそがカントリーそのもの」と歌った時、それは単なるアイドルの驕りなどではなかった。

米ビルボードのホット・カントリー・チャートでTOP5入りした「You’re Looking at Country」をはじめ、彼女は60年代から70年代にかけて、ソロ名義で11曲、コンウェイ・トゥイッティとのデュエットによる5曲のNo.1ヒットを含む、通算51曲ものTOP10ヒットを世に送り出した。

また過去には、3度のグラミー賞を受賞した他、女性初のカントリーミュージック協会の“エンターテイナー・オブ・ザ・イヤー”(1972年)に選ばれ、カントリーミュージックの殿堂とソングライターの殿堂入りも果たしている。21世紀になってからも、ホワイト・ストライプスのジャック・ホワイトとコラボレーションした2004年のアルバム『Van Lear Rose』で再び注目を集めた。

放送禁止にまでなった楽曲と理由

ロレッタ・リンのキャリア初期の録音には、60年代初期特有の甘い“カントリーポリタン”スタイルのヴォーカル・コーラスとストリングスが備わっていたが、60年代半ばになると、彼女のレコードは、音楽的にも歌詞的にも、古典的なホンキートンクの伝統に倣い、より飾り気のない、率直なものへと変容を遂げていく。

1970年発表の自伝的な「Coal Miner’s Daughter」、1972年の離婚した女性に対するセクシュアル・ダブル・スタンダードを嘆いた「Rated ‘X’」、1975年の「The Pill」など、彼女が生んだヒット曲は、カントリー界の女性シンガーたちの歌詞とテーマの壁を取り払い、また同時に、ラジオ局で放送禁止になるなど大きな物議を醸した。

 

女性の解放を歌った楽曲

1960年にロレッタ・リンをデッカ・レコードと契約させたプロデューサーのオウエン・ブラッドリーは、彼女の人気が当時のフェミニズムの台頭と呼応していることに気付いていたという。彼は2016年のRock’n’Reel誌のインタビューで次のように語っている。

「当時はウーマン・リブ(1960年代後半から1970年代前半にかけて起こった女性解放運動)が盛り上がりをみせていて、適切な時期に適切な場所にいることが肝心でした。そしてロレッタはまさにその場所にいたのです」

2004年のUncut誌のインタビューで、ロレッタ・リンは当時をこう回想していた。

「ブラッドリーに、“君は、その中に踏み込み、ありのままを語り、また去っていくことを恐れない唯一の女性シンガーだ。それを君のレコーディング人生においてずっと貫いてもらいたい”と言われたのを覚えています」

 

13歳で結婚、4人の子どもがいた10代

1932年4月14日、ケンタッキー州フランクフォートで生まれたロレッタ・リンは、2002年になるまで、15歳ではなく13歳の若さで結婚したと言われていた。夫のオリヴァー・“ドリトル”・リンとの間には4人の子供が生まれ、貧しい暮らしを送っていたが、1953年に彼が彼女にギターを買い与えると、その生活は一変することになる。その直後に彼は地元のカントリー・バンドを説得し、ロレッタに歌わせることにした。彼女は1971年のThe Great Speckled Bird紙の取材に対してこう語っている。

「私が歌い始めると、彼らはすぐに私をラジオに出演させました。でも半年後、私はそのバンドを辞めて、自分のバンドを持つことにしたんです」

1960年、ロレッタ・リンはカナダの小さな独立系レコード会社Zeroからファースト・シングル「I’m a Honky-Tonk Girl」を発表したが、数ヶ月のうちに家族と共にナッシュビルに移り住み、デッカ・レコードと契約を結ぶ。

1962年、彼女にとって初のカントリーTOP10ヒット「Success」をリリースすると、同年、“グランド・オール・オプリ”に出演を果たした。ウィリー・ネルソン、ロジャー・ミラー、ハンク・コクラン、ビル・アンダーソン、ハーラン・ハワードらと並び、現代的な思考を持つ新しいタイプのカントリー・シンガーやソングライターの一人だった彼女は、60年代初期のナッシュビルで注目を集め、若いオーディエンスのために元来のスタイルを一新するのに貢献した。

彼女にとって初のカントリーNo.1ヒットは、1967年初頭にペギー・スー・ライトと共作した「Don’t Come Home A-Drinkin’ (With Lovin’ on Your Mind)」で、この曲が彼女の歌詞の方針を決定づけた。彼女はRock’n’Reel誌のインタビューの中で、自身の成功は「女性がその人生を生きてきたかのように歌うこと」であると述べている。彼女はまた、3曲のNo.1ヒットを含む、女性作家たちによる多くの曲を歌った。

 

私生活とファンとの密度

その音楽だけなく、結婚生活(“夫は何度も浮気していた”と彼女は彼の死後に語っている)、1984年の息子ジャック・ベニー・リンの溺死など、彼女が個人的に抱えていた苦悩さえもファンたちの心に深く響き、彼女もまた、自身のファン・コミュニティと密接に繋がっていた。ソーシャルメディアによって芸能人がフォロワーと1対1で交流することが一般的になる何年も前から、彼女はファン・クラブを育んでいたのだ。

1972年、彼女はその後毎年恒例行事となるナッシュビル・ファン・フェアを共同発足し、カントリーミュージック界の大スターが多数登場する1週間にわたるミート・アンド・グリート(交流会)を主催。また、彼女は長年このファン・フェアの期間中、 グランド・オール・オプリ・ホテルでファンクラブのメンバーのために晩餐会を開催していた。

ロレッタ・リンは、すべてのヒット曲を自作したわけではないが、最も重要な楽曲の多くを手掛けている。1970年、デッカ・レコードは彼女の新旧の楽曲をまとめたコンピレーション『Loretta Lynn Writes ‘Em and Sings ‘Em』を発表。このアルバムは、彼女をポスト・ディラン的なシンガーソングライターの系譜に位置づけ、ロック市場へクロスオーバーした最初の作品となった。

 

大ヒットした伝記映画

実際、ロレッタ・リンはカントリー・ミュージック界で最も聡明なセルフマーケッターの一人でもあった。ジョニー・キャッシュに次いで自身の回顧録を執筆した2人目のナッシュビル出身のスターである彼女が、ドナルド・ヴェチェイと共同執筆した『Coal Miner’s Daughter』(1976年)はベストセラーとなり、1980年にマイケル・アプテッド監督によって映画化されたことにより、そのクロスオーバーはさらに加速した。

この映画『歌え!ロレッタ愛のために』は、同年のトップクラスとなる1億ドルもの興行収入を記録し、批評家から賞賛された(シカゴ・サンタイムズ紙のロジャー・エバートは、この映画を“新鮮で心に響く”と評した)。またこの映画でロレッタ・リン役を演じたシシー・スペイセクは、アカデミー賞“主演女優賞”に輝いている。

 

80年代以降

80年代に入り、レコード・セールスは落ち込んだものの、彼女のレガシーが衰えることはなかった。80年代半ば、“ネオ・トラディショナリスト(新伝統主義者)”と呼ばれた新世代のカントリー・スターたちは、ロレッタ・リンの飾らないスタイルに注目していた。リーバ・マッキンタイアが、1984年の米ビルボード誌のインタビューの中で、自身のスタイルを“ニュー・ロレッタ・リン”と呼んでいるように、つまりロレッタ・リンこそが、彼女が自身の楽曲で歌う通り、カントリーミュージックを象徴する存在だったのだ。

ロレッタ・リンは1990年代の大半を、1996年に70歳を目前にして亡くなった彼女の夫の看病に費やした。夫の逝去後、 1年間悲しみに暮れた彼女は、自ら事務所に電話をかけ、「私をツアーに出して。もうどうにかなりそうなの」と伝え、ツアーに出たという。彼女は2003年のDetroit Metro Times紙の取材に、「夫のことがあって私の人生が停止してしまったので、心の整理をつけるために、何かしなければならなかったのです」と語っている。

 

ジャック・ホワイトとの交流

2000年代に入りレコーディングに復帰した彼女の作品の中でも最も有名なのは、2004年にホワイト・ストライプスのジャック・ホワイトがプロデュースを手掛けた『Van Lear Rose』だろう。ホワイト・ストライプスの2001年のアルバム『White Blood Cells』はロレッタ・リンに捧げられたものだ。彼女はデトロイト・メトロ・タイムズ紙の取材でこう語っている。

「私の事務所から電話があって、彼らが‘Rated X’のカヴァーも発表しているのを知らないのか”と言われて、私は衝撃を受けました。彼のカヴァーは素晴らしかったです」

彼女がジャック・ホワイトと『Van Lear Rose』のレコーディングに向けて準備をしている時、「Portland, Oregon」という未発表曲を発見した彼女は、「ちょっとアップテンポな曲で、彼も気に入ると思う」と言ったという。同曲はアルバムのリード・シングルとなり、オルタナティブ・ロック系のラジオ番組で人気を博した。

その後も体調不調を訴えながらも、ほとんどペースを落とすなく制作に取り組んでいた彼女は、2017年5月に脳卒中に倒れると、2018年1月には股関節を骨折し、ツアーができない状態になった。

2021年、彼女は、タニヤ・タッカー、キャリー・アンダーウッド、マーゴ・プライスといった彼女のDNAを受け継ぐアーティストたちをゲストに迎え、彼女の過去の名曲をセルフカヴァーした『Still Woman Enough』を発表。彼女は「Fist City」「Rated X」「The Pill」といった自身のヒット曲を振り返りこう語っていた・

「放送を禁止されたこれらの5曲は、チャートで1位を獲得し、他の曲よりも売れました。そこで私は、“彼らにはとやかく言わせておいて、私はただ書き続け、歌い続ければいいんだ”って思ったんです」

Written By Michaelangelo Matos



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