ビートルズがブライアン・エプスタインと交わした初の契約書がオークションに出品

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ザ・ビートルズが彼らのマネージャーと交わした初の契約書が、2019年7月開催のサザビーズのオークションに出品されることになった。推定落札価格は30万ポンド(約4,073万)とされている。

ポール・マッカートニージョン・レノンジョージ・ハリスン、そしてバンドのオリジナル・ドラマーだったピート・ベストは、彼らのデビュー・アルバム『Please Please Me』発売の14ヶ月前となる1962年1月24日にこの契約書に署名した。

ピート・ベストの自宅のリビングルームで署名されたこの契約書によって、ブライアン・エプスタインが、バンドの仕事探しから彼らのスケジュール管理、宣伝業務に至るまで広く任されることになった。さらに彼は、バンドの衣装やメイク、パフォーマンスの演出や構成に加え、バンドが演奏する音楽に関わる業務全般を担っていた。

ザ・ビートルズの初代マネージャーだったアラン・ウィリアムズは、ブライアン・エプスタインに「彼らは君をがっかりさせるだろう」と警告したと言われているが、ブライアンはバンドに可能性を見出していた。リヴァプールに生まれたブライアン・エプスタインは、地元のキャヴァーン・クラブでザ・ビートルズのライヴを初めて目撃した当時、彼の家族が経営するレコード・ショップのマネージャーを勤めていた。そのライヴから3週間も経たないうちに、彼はバンドにマネージャー契約を申し出た。

その契約後、エプスタインは、より洗練されたバンドのイメージを売り出すために、4人の衣装をレザー・ジャケットからスーツとネクタイへと替えた。

「エプスタインはバンドがステージ上で食べることを禁止したんです」とサザビーズ・オークション・ハウスのスペシャリストであるガブリエル・ヒートンは語った。

「彼はバンドが楽曲を忠実にわかりやすく演奏するよう、ライヴ終了時には観客にお辞儀をさせるように徹底した。エプスタインは、彼らのライヴが放つ情熱やエネルギー、カリスマ性、生々しいセクシュアリティといったものに感銘を受けたのです。だからこそ彼らが元々持っていたパフォーマンスの魅力に、プロ意識を注入したんです」。

彼はその後もマージーサイドを拠点とするシラ・ブラックジェリー&ザ・ペースメイカーズといったアーティストたちのマネージメントを手掛けた。当時のザ・ビートルズのメンバー全員が契約書に署名していた一方で、エプスタインは、「契約上の一語一句を守るつもりではありましたが、ザ・ビートルズを適切に助言できるかについては100%の確信はありませんでした。私は彼らがやりたいようにやった方がうまくいくのではないかと思っていました」と、彼自身は契約書に署名しなかった理由を明かした。

その契約書には、バンドの収入が週に120ポンドを超えた場合、エプスタインの取り分はその10%、最高で15%になると記されていた。

ピート・ベストがバンドを去った後、新たな契約書が作成され、1962年10月1日に残った3人と新たなドラマー、リンゴ・スターによって署名されたのだが、この書面上では、エプスタインの取り分が上乗せされている。

4人とエプスタインの関係性が、マネージャーとアーティスト間の単なるビジネスの域を遥かに超えていたのは、ポール・マッカートニーが彼を“5人目のビートルズ”と呼んでいることからも明確である。生前ジョン・レノンは彼について、「僕たちは彼を愛していました。ザ・ビートルズの一員としてね」と語っていた。

ブライアン・エプスタインは1967年に、ドラッグの過剰摂取が引き起こした不慮の事故によって32歳の若さで悲劇の死を遂げた。

「ポピュラー・ミュージックを再創造するためには、影響力のある音楽的才能やソングライティング力以上のものが必要であり、ザ・ビートルズの演出、ディレクション、そして内なる調和といったものの大部分が彼らのマネージャーの功績である」とサザビーズの解説には記されている。

Written By Laura Stavropoulos



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