デトロイトの音楽史:ブルースもソウルもテクノも故郷と呼び、そしてモータウンが生まれた街

Published on

デトロイトほど幅のある音楽の歴史を持つ都市はないだろう。ブルースもソウルもテクノも、どれもがこのモーター・シティを故郷と呼ぶのだ。


ことミュージック・カルチャーの豊かさに関して言えば、モータウンの故郷であるデトロイトに肩を並べられる都市は世界でもほんのわずかしない。ミシガン州都であるこの都市はソウル・ミュージックでよく知られているが、ジャズ、ブルース、ゴスペル、カントリー、ロック、テクノ、そして最近のラップというふうに、デトロイトの歴史には多様な音楽が刻まれている。

地元出身のギタリストでウォズ (ノット・ウォズ)を結成した一人で、現在はブルー・ノート・レコードの社長でもあるドン・ウォズは以下のように語る。

「デトロイトの文化はまるでジャンバラヤさ。良いか悪いかなんて関係なく全部ぶっ込んで何でもある」

 

デトロイト・ミュージックの誕生

世界的な知名度を誇るデトロイト交響楽団の本拠地として現在再び脚光を浴びているオーケストラ・ホールの建設が始まった1919年6月、370.1 km²(*だいたい福岡市や倉敷市と同じ面積)のこの賑やかな港町の当時の人口は100万人に満たなず、そのうち3分の1は外国生まれだった。そしてオーケストラ・ホールがオープンした20世紀の中頃のアメリカは、ジャズがポピュラー・ミュージックの主役を担うようになっていた時期にあった。

ジャズ全盛期にビッグ・バンドのパイオニアの一つであったのが、コールマン・ホーキンズとのレコーディング経験もあるデトロイトのマッキニーズ・コットン・ピッカーズだ。1924年にアメリカを訪問中だった若かりし頃のイギリスのエドワード8世は、1924年にウィリアム・マッキニー率いるこのバンドでドラムを叩いたことがある。ジャズ・ミュージシャンとジャム・セッションをしたイギリス王室の人間というのは後にも先にも彼以外にいない。30年代から40年代にかけて、オーケストラ・ホール (当時はパラダイス・シアターを呼ばれていた) にはルイ・アームストロングエラ・フィッツジェラルドカウント・ベイシービリー・ホリデイ、そしてデューク・エリントンといった大物ジャズ・ミュージシャン達が出演した。

 

ジャズの中心地としてのデトロイト

ジャッキー・ウィルソン、スモーキー・ロビンソンダイアナ・ロスなどのソウル界のスターの生誕地としてよく知られるデトロイトだが、ブルー・ノートに作品を残した多くのトップクラスのジャズ・ミュージシャンもこの地で生まれている。ギタリストのケニー・バレル、トランペットのドナルド・バード、ハープ奏者のアリス・コルトレーン、ピアニストのトミー・フラナガン、トロンボーンのカーティス・フラー、ヴィブラフォンのミルト・ジャクソン、そしてドラムのルイス・ヘイズなど、錚々たるリストだ。そしてもちろんデトロイト出身でない者にも刺激を与えた。ジャズ・ギターのマエストロ、ウェス・モンゴメリーは60年代に「Goin’ On To Detroit」という作品を書いた。

 

ジャズの中心地としてのデトロイトの評判は戦後も続いた。チャーリー・パーカーによって「The Blue Bird Inn」はビ・バップ最先端の地の一つとして影響力のあるクラブになった。パーカーのデトロイトでの活動は、ジョン・コルトレーンやソニー・スティット、そしてアーマッド・ジャマルやホレス・シルバーといったモダン・ジャズのニューウェーブをこの街に引き寄せることになった。

 

「西のパリ」から「モーター・シティ」へ

当時ブームになっていたデトロイトは、雄大で美しい河川、市街地の大通り、グランド・サーカス・パーク、そしてミシガン・セントラル駅舎、メソニック・テンプル、デトロイト美術館、ガーディアン・ビルディング、フィッシャー・ビルディングといった豪華な建築物などから「西のパリ」と呼ばれていた。だが、そうしたビジュアル面での魅力溢れる華やかさと同時に泥臭さもあるのがデトロイトだった。犯罪小説家のエルモア・レナードはこう言っている。「外見の良さでやっていける街というのがある。気候や景観が良かったり、山や海や断崖、ヤシの木があったりというものだ。対して、生計を立てるのに集中しなければいけない、デトロイトのような街というものもある」。

ミシガン州生まれのヘンリー・フォードが20世紀の初めに自動車産業を育て始めるのに従って、「西のパリ」はやがて「モーター・シティ」へと変身していく。そして数十年間デトロイトは世界の自動車のための生産ラインを受け持つこととなった。フォード、ハドソン、パッカード、スチュードベーカー、クライスラー、そしてゼネラルモーターズといった自動車工場が何百もあった。ヘンリー・フォード病院で生まれたオスカー賞受賞の映画監督フランシス・フォード・コッポラのミドルネームは、かの自動車メーカーへの賛辞の意を込めてつけられたものだ。コッポラの父親はフルート奏者で、ラジオ番組「フォード・サンディ・イブニング・アワー」のアシスタント・オーケストラ・ディレクターだった。クラシック音楽へ惜しみない援助をしてくれるスポンサーへ敬意を表したかったのだ。

 

デトロイトのブルース遺産

第2次世界大戦の最中、デトロイトは兵器製造の中心地になった。フォードは戦車や軍用ジープ、そして7千機近くの大型爆撃機B-24などを製造した。この戦乱の最中にフォードの工場ルージュ・スティール・ミルで働いたブルースマンがいる。1940年代に入って仕事を求めて移住する人々の波に乗ってデトロイトにやって来た、当時まだ十代だったジョン・リー・フッカーだ。

 

フッカーには、安定した仕事を得ようという目論見と、ブルース・シンガーとしてやっていくにはシカゴよりもデトロイトの方が生き残り易いだろうという考えがあった。彼はこの街のブルースの伝統をわかっていたのだ。

20年代、ブラインド・ブレイクは「Detroit Bound Blues」を書き”I’m goin’ to Detroit, get myself a good job / 俺はデトロイトに行っていい仕事を見つけるのさ”と歌った。フォードでの雑用の仕事に就くためにディープ・サウスのジョージアを離れ、シカゴのブルース・ピアノの立役者となるビッグ・メイシオ・メリウェザーを予見した内容だ。ピアニストの彼は、新たな生活の場所になった街へのトリビュートとして「Detroit Jump」を書いた。ビッグ・ブル・ブルーンジー (「Detroit Special」) やタンパ・レッド (「Detroit City」) も同様にデトロイトに敬意を表して作品を書いている。

T-ボーン・ウォーカーとともによくヘイスティングス・ストリートでつるんでいたフッカーは、デトロイト・ブルース・シーン復活の鍵になる人物になった。この大通りはミュージシャンにとって嬉しい場所で、彼らは黒人が経営するクラブ、レストラン、賭場、売春宿などの店で人々と交わり仕事にありついていた。

俗に”black and tan (黒と褐色) 通り”とも呼ばれていたこの街区では人種の区別なしに客が集まり、カルヴィン・フレイザー、ソニー・ボーイ・ウィリアムソンⅡ世、ウォッシュボード・ウィリー、エディ・カークランド、そしてボボ・ジェンキンスといった面々の音楽を楽しんでいた。

現在では忘れ去られてしまったかのようなデトロイトのこの一角に、フッカーが親愛の情を込めて1948年にリリースしたのがシングル「Boogie Chillen」だった。”When I first came to town, people, I was walkin’ down Hastings Street / Everybody was talkin’ about the Henry Swing Club / 初めてこの街にやって来た頃の俺はよくヘイスティングス・ストリートにいた / 誰もがヘンリー・スィング・クラブっていう店のことを話していたよ”と歌ったこの曲は、飾り気のないエレクトリック・ブルースがR&Bチャートで1位を記録した初のヒット作になった。

彼はまた、エイペックスという居酒屋のバーテンダーによる挨拶がきっかけとなって生まれた「Hello, Boom Boom」でもヒットをものにしている。フッカーが来店するとそのバーテンダーが言っていたその掛け声が曲のタイトルになっているのだが、フッカーはなぜそう呼びかけられていたのかわからずじまいだった。

 

50年代になると、パラダイス・ヴァレーやヘイスティングス・ストリートと中心とした歓楽街 (現在ではクライスラー・フリーウェイが通っている) は、都市再生計画によって潰されてしまう。フッカーは、チェス・レコードが発足する60年代初頭に他の多くのブルース・ミュージシャン達とともにシカゴに移り住んだ。

 

「ブルースはロックとやらに引っ叩かれたのさ」

当時のデトロイトではカントリー・ミュージックも人気があり、地元のシカゴで人気だったウェスタン・スウィングを発展させたエディ・ジャクソン・アンド・ザ・スウィングスターズなどのバンドが知られていた。30年代から40年代にかけては、アパラチア山脈周辺地域からの大量の移住者があったことで、ブルーグラスがデトロイトの音楽に影響し始めた。

1953年12月にイベントであるモーター・シティ・ジャンボリーがグランド・サーカス・パークにある収容者数1800人のマディソン・ボール・ルームで初開催された。その様子が毎回ラジオで放送されたことでカントリー・ミュージックが人気を博し、南部出身労働者の暮らしの寂しさを歌ったボビー・ベアの「Detroit City」(By day I make the cars, By night I make the bars / 昼は工場で車作り, 夜は酒場で憂さ晴らし) は、その後ディーン・マーティン、ドリー・パートン、クリス・ステイプルトンなどによるカヴァーを生むことになった。

 

そしてロックン・ロールの台頭がジャズ、ブルース、カントリーに多大な影響を与えた。デトロイトのハイランド・パーク生まれのビル・ヘイリーは両親から地元の音楽の影響をうけたが、デトロイトの街からは幾分不幸な形で一生残るものを与えられた。ヘイリーは4歳の時に耳の後部になる乳様突起を除去する手術のために病院を訪れたが、外科医が手術を失敗して視神経を切断してしまい、ヘイリーの左目は視力を失ってしまったのだ。しかしヘイリーの街に対する愛着は変わらず、1956年にデトロイトのオリンピア・アリーナで2回の凱旋公演をし、その頃ミリオンセラーのヒットになっていた「(We’re Gonna) Rock Around The Clock」を披露している。

 

ロックン・ロールがデトロイトを席巻したのは、ヘイリーのヒット曲と1956年にフォックス・シアターで衝撃のステージを披露したエルヴィス・プレスリーの登場がきっかけだった。同じ年に購読者をティーンエイジャーに特化した新聞紙Detroit Teen Lifeが発行され、十代の若者を対象にしたThe Federation Of Teen Clubsもデトロイトに設立された。フッカーとレコーディングしたギタリスト兼ハーモニカ奏者のエディ・バーンズが言っていた。「ブルースはあのロックっていうやつに引っ叩かれたんです。DJの役割が大きかった。奴らが気に入るレコードじゃないとラジオで使ってくれないんだ。レコードが売れるかどうかはそれ次第なわけです」。

50年代後半のデトロイトのラジオは、ロックン・ロール一色だった。しかし、1人の驚くべき男が現れてそれを変えることになる。そう、ベリー・ゴーディ・ジュニアだ。

 

モータウンと”ヤング・アメリカを体現するサウンド”

8人兄弟の7番目として生まれ育ったゴーディが、音楽ビジネスに興味を持ったのは10歳の時だった。彼の最初の頃に書いた曲の1つは家族経営していた”Gordy Printing”のために書いた小品だ。彼はとにかくヘイスティングス・ストリートで時間を過ごした。ボクシング選手になりたいという夢は陸軍への懲役によって叶えることはできず、1951年から1953年まで朝鮮での任務に就いた。除隊後にデトロイトに戻った彼はジャズのレコード店をオープンさせたが失敗、その後フォード・リンカーン・マーキュリー工場の組立ラインで週86.40ドルで働いた。

しかし、音楽を仕事にしたいという野心は消えることなく、彼は作曲を続けていた。その記念すべき最初の成果は、デトロイト生まれの歌手ジャッキー・ウィルソンへの提供曲だった。ゴーディは「Reet Petite」や「Lonely Teardrops」を含むウィルソンの最初の6枚のシングルに共作者として携わっており、後者はR&Bチャートで1位になっている。ウィルソンは、少年鑑別所に入れられた後にデトロイトのアマチュアボクシング界で知られる存在になっていた。ウィルソンが回顧して言っている。「ボクシングを辞めたくなかった。16歳の時にゴールデングローブ大会で優勝したこともあります。でもある日、母親が僕の髪の毛をつかんで言ったんだ。“もうやめなさい”ってね」。彼の母エリザ・メイは教会の聖歌隊のシンガーで、自分の息子には優れた歌唱能力があると考えていたのだ。

 

ウィルソンの一連のヒット・シングルはブランズウィックというレーベルがレコーディング/販売しており、ゴーディがロイヤルティを得ることはほとんどなかった。そこで彼が達した結論が、金を儲けるためには自身のレーベルでレコードを作る以外にないということだった。彼は自力で成功したかったので、姉妹であるグエンとアンナが設立したアンナ・レコードで一緒に働くチャンスを断った。

1959年1月12日、ゴーディはタムラ・レコード・カンパニーを設立。社名は、映画『Tammy And The Bachelor』でデビー・レイノルズが演じるキャラクターの名前の前半部分から採ったものだ。彼がタムラからリリースした初のレコードがマーヴ・ジョンソンの「Come To Me」だ。レコーディングを行ったスタジオはセカンド・アベニューにあるユナイテッド・サウンド・システムズ・レコーディング・スタジオで、かつてチャーリー・パーカーが使用し、またフッカーの「Boogie Chillen」がレコーディングされた由緒ある場所だ。

 

ヒッツヴィル・USA、モータウンの始動

ゴーディは29歳の時に家族からの800ドルを借金し、ウェストグランド通り2648番にある小さな2階建ての木造住宅を購入した。近隣には葬儀場や美容室などがあり、さびれた場所だった。ゴーディと彼の最初の妻であるテルマは家の2階に居住し、ガレージをレコーディング用のスタジオに、キッチンをコントロール・ルームに改装した。そして玄関のドアに”ヒッツヴィルUSA”という野心あふれる看板を掲げた。

1959年8月、彼が共作者として携わりバレット・ストロングに提供した彼の心情をそのままタイトルにしたかのような「Money (That’s What I Want)」がヒットチャートで2位になり、ゴーディに事業拡張のための資金をもたらした。1960年4月14日、タムラは改変してモータウン・レコード・コーポレーションへ社名を変更した。モータウンとはデトロイトのニックネームである「モーター・タウン」を縮めたもので、アメリカ人なら誰でもそれと気づくだろうとゴーディは目論んだのだった。

 

“ヒッツヴィル”は事実その通りのことを意味していた。ゴーディはヒット連発の一大帝国を築き、それまでになかったような楽しさに溢れ長く愛されるポピュラー音楽を生み出した。ボックス・セットの『Motown: The Complete No.1s』は、ゴーディが生んだインパクトのハイライト集だ。合計208曲という驚異的な数のチャート・ナンバー・ワンを記録したヒット曲群には、フォー・トップスの「I Can’t Help Myself」、マーヴィン・ゲイの「What’s Going On」、ジャクソン5「ABC」、マーサ&ザ・ヴァンデラスの「Dancing In The Street」、マーヴェレッツの「Please Mr. Postman」、ダイアナ・ロス「Ain’t No Mountain High Enough」、スモーキー・ロビンソン・アンド・ザ・ミラクルズ「I Second That Emotion」、ザ・スプリームス「 ‘Where Did Our Love Go’」、ザ・テンプテーションズ「Ain’t Too Proud To Beg」、そしてスティーヴィー・ワンダーの「Signed、Sealed、Delivered(I’m Yours)」などがずらりと並ぶ。

レーベル発足当初の主要なシンガーの一人が、生まれながらのプロモーターとも呼べる当時19歳だったスモーキー・ロビンソンで、彼はWJLB、WWJ、WCHBなど影響力のあるデトロイトのラジオ局でタムラおよびモータウンのレコードを使用してもらうために力を貸した。ロックン・ロールの成功は、ミュージシャンを活かすも殺すもDJの意見次第という状況を生んだ。WWJなどの大きなラジオ局はデトロイトだけではなく東アメリカの半分やカナダの大部分でも聞くことができたのだ。ゴーディはDJをつぶさに訪ねて回り、モータウンは音質の悪いカーラジオでもきちんと聞ける音楽を作るということをテーマにした。

 

「昔はよく道端で腕比べしていた」

ゴーディはロビンソンのことを「モータウンの魂」と表現している。クリスチャンネームにウィリアム、ニックネームにスモーキーの名を持つこのシンガーは、デトロイトのノースエンド地区の貧しい環境で育った。モータウンの社歌はロビンソンが作曲したもので、会社のパーティーやピクニックの折に歌われた。”We are a very swinging company, Working hard from day to day, Nowhere will you find more unity, Than at Hitsville USA! /ノリにノッている会社さ, 毎日必死で働くのさ, どこにも負けない一体感, それがヒッツヴィルUSA!)”

しかし、彼の作詞の才能を発揮するのにより適したのは、「My Girl」「Tracks Of My Tears」「I’ll Try Something New」などのヒット曲であったのは間違いない。

 

2018年のAARPとのインタビューで、ロビンソンは音楽的に肥沃な都市で育ったことについて語っている。

「デトロイトには何千人何万人もの才能ある人々がいた。昔はよく道端でグループ同士で腕比べをしていました。僕とミラクルズを凌ぐグループもあった。世界中のどの都市、どの町、どの村、どの片隅にも才能のある人々がいると思います。でもベリー・ゴーディがいるかどうかで違ってくる。彼が僕たちに出口を与えてくれたんです」

 

「このレコードとサンドイッチのどちらを買うか?」

ゴーディは自動車企業フォードの分業制を模したラインに沿って会社を組織し、一般大衆のマーケットニーズに合致するものを作ることに注力した。モータウンのスタジオは1日20時間近く稼働し、数百枚のリリースを可能にしていた。そしてゴーディは厳格な品質管理のシステムを課していた。彼は毎週金曜日の午前9時に「製品評価会議」を開いた。プロデューサーとソングライターはそこで自分達がレコーディングした作品がリリースされるよう売り込むのだ。そしてゴーディが「もし1ドル持っているとして、このレコードとサンドイッチのどちらを買うか?」と出席者達に問う。最もできの良い音楽だけがレコード化されたのだ。

ビリー・ヘンダーソン、ヘンリー・ファンブロー、パーヴィス・ジャクソン、ジェームス・エドワーズ、C.P.スペンサーなど、彼が起用するミュージシャンの多くは、市の公営住宅の出身者だった。後のデトロイト・スピナーズであるこの5人組の仲間達は、モータウンと契約を交わす頃はハーマン・ガーデンズに住んでいた。彼がリクルートしてくる他の多くの者達と同様に、彼らには才能はあったが、洗練というものとは全く無縁であった。

ゴーディはモータウンのアーティスト開発部門を立ち上げるために、フィニッシング・アンド・モデリング・スクール (マナーや仕草を教える教室) を自ら経営していた傑物マキシン・パウエルを雇い入れた。自動車メーカーに展示会で黒人モデルを起用するよう訴えたパイオニアでもあるパウエルは、野心満々のミュージシャンに話し方や礼儀作法を教育した。さらに、ベテランの振付師チョリー・アトキンズが、モータウンのミュージシャンにテレビで魅力的に映るように、手の動きやステップを含む複雑なダンスの動きを教えた。アトキンスの振り付けは、テンプテーションズやスプリームズなどのグループが膨大な数の新しいファンを獲得する上で大きな助けになった。

 

デトロイトの空気には素晴らしい音楽を育てる何かがあるようだ。この街で生まれた歌手やミュージシャン達のリストは圧巻で、フォー・トップス(アブドゥル・ファキール、ローレンス・ペイトン、レナルド・”オービー”・ベンソン、リーヴァイ・スタッブス)を始めとするモータウンお馴染みの面々のみならず、ラモント・ドジャー、ブライアンとエディのホーランド兄弟などの主要ソングライター達も含まれている。60年代のティーンエイジャー時代にこの街の音楽に心酔していたマーシー・レヴィは、ファミリー・ネームを”デトロイト”に変えてしまった。やがて彼女はマーセラ・デトロイトとしてエリック・クラプトンの「Lay Down Sally」を共作することになった。

 

消えることのないつながり

スージー・クアトロやボブ・シーガーなどのロック・スターを通じて、街の自動車産業とミュージシャンとのつながりは60年代も70年代も途絶えることなく引き継がれた。クアトロの父アートはゼネラルモーターズの従業員兼セミプロのミュージシャンだった。シーガーの父親スチュワートはフォードの医療技師だった。彼もいくつかの楽器を演奏していたので、息子は幼い頃からデトロイトのブルースやソウルに親しんでいた。

1968年、キャピトル・レコードにサインした後のシーガーは、彼にとって初の全国的なヒットになった「Ramblin’ Gamblin’ Man」でブレイクし、その1年後にオリンピア・スタジアムで開催された10時間に及ぶスペシャル・コンサート「デトロイト・ポップ・フェスティバル」で堂々の出場を果たした。シーガーは、デトロイト・ホイールズというバンドを率いていたミッチ・ライダーとともに、デトロイトを70年代の新しいロックの潮流における重要な場所の1つとして確立させるための大きな役割を果たした。

 

デトロイト出身のアーティストは他にもマーシャル・クレンショウ、ジョニー・デズモンド、グレン・フライ (イーグルス)、レイ・パーカー・ジュニア、シクスト・ロドリゲス、キング・ゴーディなどがいる。シンガー・ソングライターのロドリゲスは現在もデトロイトの歴史的街区であるウッドブリッジ地区に住んでおり、キャス・アベニューのオールド・マイアミなどに時折出演している。

モータウンに支配される前のデトロイトが最も売りにしていた音楽はゴスペルだった。ジャッキー・ウィルソンを始めとする多くの偉大な歌手は教会で育ったのだ。アレサ・フランクリンはメンフィスで生まれたが、彼女にとっての音楽の師であるクラレンス・ラヴォーン・フランクリンが牧師を務めていたニュー・ベテル・バプテスト教会でゴスペルを歌い始めている。アラバマ州生まれのマーサ・リーヴスもまたゴスペルによって才能を開花させている。彼女がまだ赤ん坊の頃に家族で移り住んだデトロイトのメトロポリタン教会で、彼女の祖父エリヤ・リーヴスが牧師をしていた。

ミシガン州サギノーで生まれたスティーヴィー・ワンダーは、4歳の時の母親が父親と離婚した際に母親に連れられてデトロイトにやって来た。ホワイトストーン・バプテスト教会のクワイアの花形になったこの神童は、デトロイトで放送されていたラジオ場組「Sundown」を聞いてブルースとジャズに染まったと語っていた。ヴァーヴ・レコードで遅咲きの大輪の花を咲かせているベティ・ラヴェットもデトロイト育ちだ。マドンナはポンティアックの郊外で育っている。

 

「デトロイトのサウンドっていうのがあるんだ」

デトロイトのミュージシャン達にはそうしたトップクラスの才能にふさわしい会場があった。ミシガン・パレス、メイソン寺院、イーストタウン・シアター、シャーウッド・フォレスト・リヴェラ、ザ・20 グランド・ナイトクラブ、パラダイス・シアター、ベイカーズ・キーボード・ラウンジ、グレイストーン・ボールルーム、フレイム・ショー・バーなど、デトロイトの音楽史で重要な役割を果たしたゴージャスな名跡はほんの一握りを挙げるだけでもこれほどある。

60年代前半のティーンエイジャーはアナーバーのフィフス・ディメンションのようなクラブに行き、ガレージ・ロック・バンドと称される音楽を楽しんだ。当時台頭していたグループには、ジ・アンダードッグス、ザ・フュージティヴス、アスティガファ (若きマーシャル・クレンショウをフィーチャーしていた) などがある。その中でも特に重要なバンドの一つが、フロントマンにイギー・ポップをフィーチャーしたザ・ストゥージズで、その後の彼はパンク界で最も影響力のあるアーティストの一人になった。イギーは本名をジェームズ・ジュエル・オスターバーグといい、デトロイトのトレーラー・ハウス用のキャンプで育った。ミシガン大学に一学期間通っただけで退学し、シカゴのソウル・バンドのドラマーとして音楽の世界に進んでいる。

モータウンに大きなインパクトを受けてはいたものの、イギー・ポップがデトロイトに引き寄せられたのは当時台頭しつつあったアンダーグラウンドのロック・シーンによってだった。彼は、ギターにロン・アシュトン、ドラムにスコット・アシュトンを呼び自身のバンドを結成し、自らをイギー・ストゥージと名乗った。時には自傷行為さえしてみせるイギーの激し過ぎるステージの斬新さは衝撃的だった。70年代前半にデトロイトのグランド・ボールルームでプレイした際の彼の出で立ちは、洗礼時に使うような白い長尺のローブと、鉄と調理用ラップを何枚も組み合わせて作ったクロムの頭飾りというものだった。

バンドのセルフタイトルのデビュー・アルバムは、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのジョン・ケイルのプロデュースによるもので、「No Fun」と「I Wanna Be Your Dog」の2曲がパンク御用達の楽曲になった。イギー・ポップは、自分が育った「時間と場所」を反映した音楽を演奏していると語っていた。

 

イギー・ポップへの評価が高まり名声を高めていたのと同じ頃、ジョージ・クリントンも同じく高く評価される地位を確立しつつあり、彼はついに2019年5月にアメリカ音楽への貢献を称えるグラミー賞特別功労賞生涯業績賞を受賞している。

モータウンのソングライターとしてスタートしたクリントンは、ソウルとファンクの融合でR&Bに革命をもたらした。パーラメンツのグループ名でデビューした彼は、デトロイトを拠点にするレヴィロット・レコードからリリースしたシングル「(I Wanna) Testify」で1967年に初ヒットを手にした。その1年後、グループはファンカデリックに改名してレコーディングを行っている。70年代にクリントンは50人以上のミュージシャンを集め、パーラメントやファンカデリックなどのさまざまなアンサンブルでレコーディングをし、さらにブーツィーズ・ラバー・バンドといったスピンオフの活動も行った。彼はその後も40年に渡って革新的な音楽をプロデュースし続け、プリンスウータン・クランなど多くのミュージシャン達に影響を与えている。また、2015年にはラッパーのケンドリック・ラマーとのコラボレーションによるアルバム『To Pimp A Butterfly』もリリースしている。

 

音楽のインスピレーションの源

都市は21世紀の音楽のインスピレーションの源であり続けている。2013年、マイケル・ボルトンは『Ain’t No Mountain High Enough:A Tribute To Hitsville』をレコーディングし、 デトロイトの音楽への賛辞を表したかった理由の一つは街が音楽のるつぼだからだと語った。「人々はモータウンをまずイメージすると思うが、デトロイトを語る時に鍵になるのはその多様性なんだ」。

2018年7月、ブルー・ノート・レコードのボスがサックス奏者のデイブ・マクムーリーとともに11周年を記念してドン・ウォズ・オールスター・レヴューを大観衆のオーケストラ・ホールで開催した。その日デトロイトのロックの遺産に敬意を表してプレイした中には、MC5での活動でよく知られるギタリスト兼ヴォーカリストのウェイン・クレイマーもいた。

生粋のデトロイト育ちであるアリス・クーパーは、2020年にリリース予定の故郷の音楽をベースにしたアルバムの制作に取り組んでいる。「俺達が探し求めているデトロイトのサウンドっていうのがあるんだよ」とクーパーは言っている。「このサウンドがデトロイトのサウンドだとは言い切れない。そこにはR&Bもある程度含まれる。モータウンも含まれる。でもその後にギターが足されてアティチュードが足されて、そしてデトロイトのロックが出来上がるんだ」クーパーはこの新しいアルバムのためにクアトロとシーガーに参加してくれるよう声をかけてあるようだ。

 

「我々はデトロイトを失うところであった」

しかし、デトロイトの物語は常にめでたしめでたしというわけではない。モータウンがスタートした後の数年間、この都市はトラウマになるほどの苦しみを味わっている。一説によれば、この街は1966年10月に消滅する寸前だったという。デトロイトから約30マイル離れたモンロー郡のエンリコ・フェルミ原子力発電所であわや大惨事という事故が起きたのだ。ギル・スコット・ヘロンがこの事故をもとに「We Almost Lost Detroit」(ジョン・G・フラーによる1975年のドキュメンタリー著作物のタイトルになった) を書いている。 この曲は2011年にデトロイトのインディー・バンドJであるJR JRによってカヴァーもされている。

また、社会的および経済的要因によってもデトロイトは死にかけたことがある。1967年7月の暴動は、またもやこの都市の根深い人種的緊張を明らかにしてみせた。5日間の暴力と略奪の末に43人が死亡し、7千人以上の地元住民が逮捕され、3千の建物が焼失した。デトロイトから白人達が転出していく、いわゆる「ホワイト・フライト」がこの暴動によって加速した。1950年に200万人近くあった人口は2015年には67万7千人に減少し、デトロイトの税制基盤は崩壊、180億ドルの借金を抱える事態に陥ることにもなった。

厳しさ極まる時でも音楽に目を向け続けたのがデトロイトだった。モータウンは市民権運動に一役買った。元来はバラード曲であったオーティス・レディング作の「Respect」はアレサ・フランクリンの代表曲となったが、1967年4月にリリースされるや一気にナンバー・ワンになった後にフェミニズムと平等の権利のためのアンセムになった。フランクリンは暴動の時にデトロイト・フリー・プレス紙に語っている。「大胆だなんて全然思いません。誰だって尊重されたいと思うのが普通ですし、そもそも尊重されるべきなのです」。マーサ・アンド・ザ・ヴァンデラスの「Dancing In The Street」も1967年夏のサウンドトラックの1曲で、抗議の声を上げる者達にとっての定番曲だった。

 

進化と生存

80年代および90年代での絶え間なく続いた情け容赦のない経済的な衰退期にあってもこの街の音楽的な評価は進化し続け、そして深まり続けた。80年代のデトロイトは電子音楽の世界的なリーダーの1つだった。ホアン・アトキンス、デリック・メイ、そしてケビン・サンダーソンの3名 (「三位一体」と呼ばれるトリオ) はテクノの創始者と見なされている。デトロイトのベルヴィル郊外で育った高校生3人組は、ディスコ、ダンス、ハウスをミックスした実験的なサウンドを制作し、その融合物はデトロイトとシカゴのクラブシーンから広がり世界中で人気を博した。

ジャック・ホワイトが、やがて当時のインディー・シーンのリーダー的なバンドになるザ・ホワイト・ストライプスを彼と同じくデトロイト出身の当時彼の妻だったメグとともに結成した1997年、デトロイトは新たな音楽ジャンルを手に入れた。グラミー賞受賞に輝いたこのシンガー兼ギタリストと街との絆は強い。2013年、ホワイトは税負債を抱えたフリー・メイソン寺院の差し押さえを回避させるために14万2千ドルを支払った。施設はその後カテドラル・シアターをジャック・ホワイト・シアターへ改名している。

21世紀、デトロイトはヒップホップの進化に不可欠な場所として現在に至っている。街は自分が育った環境は「荒れた」場所であったことを認めていたエミネムは、高評価を受けた2002年の映画『8マイル』で主演を務めた。市内で撮影されたこの映画は、 経済面の衰退と諍いはあっても依然としてこの街が新しいミュージシャンや流行を生み出す上で豊かな土壌であることを知らしめた。このサウンドトラック・アルバムはビルボードのポップ・チャートで初登場1位を記録し、エミネムの「Lose Yourself」はアカデミー賞で歌曲賞を受賞した。

2014年11月、エミネムはロイス・ダ・ファイブ・ナイン、ビッグ・ショーン、ダニー・ブラウン、デージ・ローフ、トリック・トリックらとともに、シングル「Detroit vs Everybody」を制作した。6人のデトロイト・ラッパーは苦境にあえぐ故郷の街を題材にし、成功のための苦闘とプライドについて語った。シングルがリリースされた時点でのデトロイトには推定7万の廃屋があった。かつての大都市は廃墟かと思える景色だ。しかし最近の5年間でのデトロイトは、再建と再開発の問題を跳ね返し切り抜けられる力があることを示せている。デトロイトのダウンタウンでは不動産投資が大幅に増加しており、地元の人々が愛着を込めて”ザ・D”と呼ぶこの街は、復活しようと動き出しているのだ。

 

「ここが夢が生まれた場所です」

デトロイトは2017年、コメディアンのサム・リチャードソンとティム・ロビンソンが主役を務めるテレビの傑作コメディシリーズ「Detroiters」で、時に皮肉交じりながらも脚光を浴びて注目された。ゲスト・キャラクターのうちの一人にフレディ・”モータウン”・ブラウンという名の歌手がいるのだが、その役を俳優兼コメディアンのジョージ・ウォーレスが演じていた。彼はかつてダイアナ・ロスとスモーキー・ロビンソンのサポート・アクトを務めたことがある。

現在でもデトロイト観光の中心地であるモータウン・レコードは、エリカ・バドゥ、リル・ヨッティ、ミーゴスなどを擁して「ヤング・アメリカ」のサウンドを追求し続けている。2017年12月にモータウン歴史博物館に5000万ドルを投じる拡張計画を発表したが、レーベル発足時の社屋として使用されていた7軒の家屋はそのまま残すという。今年の年末に完成予定の新しい建物では、インタラクティブな展示によってゴーディ帝国のストーリーを紹介するらしい。「モータウンはすなわち音楽、音楽はすなわちモータウンです」と博物館長のアレン・ロウルズは述べた。「この場所で声と愛と勇気が力を得て歌になりました。この場所で夢は生まれて世界に広がっていきました」。

「Detroit vs Everybody」で歌いドレイクと仕事をともにしたビッグ・ショーンは、この計画のために募金イベントを開催した。博物館の最高責任者ロビン・テリーはこう述べた。「私達が他の世代とつながって行く上でビッグ・ショーンのような人々からのサポートは非常に意義のあることです」。

 

ゴーディが世界を変えることを誓った日から60年後の今、デトロイトとモータウン歴史博物館は正しい道に戻ってきたようだ。スモーキー・ロビンソンは回想する。「ベリー・ゴーディが僕達4人を座らせて、『私は自分のレコード会社を始めようと思っている。ただ黒人の音楽を作るだけでなくて世界のための音楽を作るんだ』と言ったんです。それが僕達のプランになり、実際そうしたわけさ」。

 

デトロイトの必見音楽ランドマークガイド

ヒッツヴィルUSA

2648 West Grand Boulevard

デトロイトを訪れるのなら、その目的が何であれモータウン・レコードの有名な本社ヒッツヴィルUSAは絶対に外せません。スモーキー・ロビンソン、スティーヴィー・ワンダー、グラディス・ナイトなどのスターがレコーディングに使用したスタジオをチェックできます。現在改修中の博物館には、ヒットを連発した大物アーティスト達の写真、衣装、記念品などがずらりと並んでいます。夏から秋にかけての週末にはデトロイト・プリンセス・リヴァーボートに乗るモータウン・ディナー・ツアーが開催され、食事やレーベルのクラシック・ヒットの生演奏を楽しむことができます。

 

ユナイテッド・サウンド・システムズ・レコーディング・スタジオ

5840 Second Avenue

青い枠の窓がある有名な木造のスタジオは現在も現役で使われています。世界で最も重要な音楽制作現場の一つであるこのスタジオを見学できるツアーがあります。ユナイテッド・サウンド・システムズ・レコーディング・スタジオは1933年にジミー・シラキュースによって作られ、チャーリー・パーカー、マックス・ローチ、マイルス・デイヴィスがここでビ・バップのスタンダードをレコーディングしました。ジョン・リー・フッカーが「Boogie Chillen」を録音したのもこの場所です。ベリー・ゴーディの1959年のタムラによる初リリース曲や、マーヴィン・ゲイの「What’s Going On」がレコーディングされたのもここです。70年代にはボブ・シーガーが使用していました。ジョージ・クリントンがレッド・ホット・チリ・ペッパーズを見出した場所でもあります、レッド・ホット・チリ・ペッパーズには彼らが街へ捧げた「Detroit」という作品があります。また、ユーリズミックスがデトロイト出身のアレサ・フランクリンとともにレコーディングを行い1985年にリリースした「Sisters Are Doin’ It For Themselves」もここで生まれました。

 

ザ・マジェスティック

4126-4140 Woodward Avenue

リトル・シーザーズ・アリーナ、見事な美しさのフィルモア、ザ・ミュージック・ホール・センター・フォー・ザ・パフォーミング・アーツ、そしてテイラー・スウィフト、ビヨンセ、ジェイ・Zなどが使用したデトロイトライオンズの本拠地フォード・フィールド・スタジアムなど、デトロイトには多くの重要な音楽会場があります。中でも最も忘れられない会場の一つがミッドタウンに位置するザ・マジェスティック・シアターで、2008年にアメリカ合衆国歴史登録財に指定されています。

 

サード・マン・レコード・キャス・コリドー

441 West Canfield Street

サードマンサード・マン・レコード・キャス・コリドーは単なる音楽演奏の施設ではありません。レコードショップ、ノベルティ・ラウンジ、インストア・ステージ、レコードブース、そしてアナログ・レコードのプレス工場でもあるのです。レコードのプレス作業を見学できるだけでなく実際にそのレコードを買うこともできます。ジャック・ホワイトが設立したこの施設は441 West Canfield Streetにあります。

 

フォックス劇場

2211 Woodward Avenue

1928年に最高級の映画館としてオープンした後、フランク・シナトラやアレサ・フランクリンがステージに立ち、「ラジオシティ・クリスマス・スペクタキュラー」が行われた豪華なフォックス・シアターのバックステージを見学することができます。直径13フィートのシャンデリアや世界各地からの金の装飾を見ることができる圧巻の素晴らしさのロビーから始まる45分間のウォーキングツアーです。

 

ハート・プラザ

毎年5月のメモリアルデー (戦没将兵追悼記念日) ウィークエンドの時期になると、テクノ発祥の地であるデトロイトと街の音楽遺産を祝福するために世界中の何千もの人々がハート・プラザに集まります。2006年に始まったムーブメント・ミュージック・フェスティバルは、世界で最も長く続いているダンス・ミュージック・イベントの一つで、デトロイトの景観の良い川沿いを会場に行われます。

 

セント・アンドリューズ・ホール

431 East Congress Street

1907年に建設されたセント・アンドリューズ・ホールはセント・アンドリューズ・スコティッシュ・ソサエティ・デトロイト支部の集会所でしたが、現在ではエミネムを始めとするアーティスト達がブレイクしたコンサート会場として知られています。

現在のモーター・シティにはセント・アンドリューズのように活気あるコンサート会場はいくつもあり、他の要チェックの雰囲気ある会場としては、ダウンタウンのジャズクラブで近頃リニューアルされたクリフ・ベルズ、オールド・マイアミ、エル・クラブ、PJ’s・ラガー・ハウス、ノーザン・ライツ・ラウンジ、そしてタイヤーズなどがあります。ハムトラミックにあるデイヴ&メロディ・マロッシュなどのミュージシャンが経営するスモールズも活気のある場所です。

 

メイソン寺院

500 Temple Street

テンプル・アベニューにあるメイソン寺院 (The Masonic) はこの種の建築物としては世界最大です。この驚異的な建築物の建設が始められたのは1920年でした。ジミ・ヘンドリックス、ザ・フーザ・ローリング・ストーンズなどの巨人達が訪れた場所は現在でもライブコンサートの本拠地で、2019年にはアヴェット・ブラザーズなどがステージに立っています。5千人近くの人々を収容できるメインシアターの他に、最近レストアされてエントランスのロビーが魅力的な、収容者数千5百人のジャック・ホワイト・シアターもあります。

 

DTEエナジー・ミュージック・シアター

33 Bob Seger Drive

都会の風情から離れてみたい場合には、デトロイトから約30マイル離れたクラークストンに森と湖に囲まれるようにして立つ堂々たる容貌のDTEエナジー・ミュージック・シアターがあります。元々はパイン・ノブ・ミュージック・シアターと呼ばれていたこの会場には1万5千274席の屋外円形ステージがあります。 コモドアーズ在籍時にモータウンからヒット作をリリースしていたライオネル・リッチーが、ヒッツヴィルを祝うステージの一環として2019年6月にこの会場に出演します。

 

Written By Martin Chilton



Share this story

Don't Miss

{"vars":{"account":"UA-90870517-1"},"triggers":{"trackPageview":{"on":"visible","request":"pageview"}}}
モバイルバージョンを終了