ヴァージンレコード創業期:リチャード・ブランソンとアーティストたち

April 20, 2017


ヴァージンレコード創業期:リチャード・ブランソンとアーティストたち

70年代が幕開けた年、“ジャンボ”*と言えばほとんどの人が象を思い浮かべ、“ペンドリーノ”**と言えば『ヴェニスの商人』の登場人物のように聞こえていた頃、パブリック・スクール(※英国の私立中高一貫校。主に上流子弟向け)出の1人のリチャード・ブランソン少年の頭に、レコードの通信販売事業を立ち上げるという名案が浮かんだ。彼が描いていた計画は、輸入盤やブートレグ(海賊盤)をも扱うことで、金を節約しながら新しい音楽を探求するのに熱心な層に向け、全国チェーンのレコード店より低価格での販売を実現することであった。不遜と呼ぶ人もいるであろう、その急進的で破壊的な考えは、後々、数多くの点でリチャード・ブランソンに報いることになる。それはまた、必然性から生まれたアイデアでもあった。学生時代に彼が立ち上げた雑誌『スチューデント(Student)』が不振にあえいでいたため、てこ入れをする必要があったのだ。皮肉な話だが、安価なレコードを売り出す最初の広告が掲載されたのは、『Student』の最終号であった。ブランソンは当初、『スリップト・ディスク(Slipped Disc)』という事業名を考えていた。だが事務所で働く女の子が、不意にこんな風に口を挟んできたのである。「そうだ、いい考えがあるわ! “ヴァージン”はどうかしら? この業界で私達は、完全な未経験者(ヴァージン)でしょ」と。

*ジャンボ:“ジャンボ・ジェット”の愛称で親しまれた大型旅客機ボーイング747。初飛行は1969年。

**ペンドリーノ:イタリアのミラノ〜フィレンツェ間で1978年に開業した、欧州初の高速新線。

そしてひとつのブランドが、元パブリック・スクール生の実業家、リチャード・ブランソンによって設立された。それはやがて、金融から携帯電話、健康やフィットネスから、旅行代理店、鉄道会社、熱気球、複数の航空会社、そしてもちろん、レコード・レーベルまでをも扱う世界的事業となる。だがそれはまだ先の話……。

Virgin The Early Yearsレコード通販事業の開始から3年後には、ブライトンからブリストル、グラスゴー、リバプール、リーズまで、英国全土10都市に店舗を展開。そもそもレコード店を開くことになったのは、ほとんど偶然の流れであった。1971年1月、通販事業を立ち上げて間もない頃、英国内で大規模な郵便ストライキが発生。ブランソンらしい対処法だが、必要が発明の母となり、ロンドンの目抜き通りオックスフォード・ストリートに面した靴屋の2階に、彼はレコード店を開くことにしたのだった。

レコード・レーベル<ヴァージン>の創設自体は偶然の産物ではなかったが、計画的だったというよりも、思いがけない巡り合わせによるところが大きかった。そこに関わっていたのが、極度に内気な19歳の奇才マイク・オールドフィールドと、英仏混成のブログレッシヴ・バンド、ゴング、ドイツのクラウトロック・バンド、ファウスト、そしてオックスフォードシャー州にある17世紀の領主館だ。今こうして聞くと、何やら途方もない話のように思えるかもしれないが、これが1973年の出来事であったことを心に留めておいてもらいたい……。

Virgin The Early Yearsレコーディング・スタジオを開くという一見馬鹿げたアイディアもまた、リチャード・ブランソンの計画の中で、元の構想を遥かに上回る成果を得たもののひとつであった。正に“時は金なり”を地で行くように、ロンドンのレコーディング・スタジオの使用料は高価で、そんな堅苦しい雰囲気からバンドが逃れられるようなスタジオ設備の需要があるに違いないと、リチャード・ブランソンは感じていたのだ。エンジニアが白衣を着ていたことで有名なアビイ・ロードを始めとする伝統的なロンドンの都市型スタジオではなく、郊外の大邸宅に滞在しながら、バンドのスケジュールに沿った作業が可能な併設スタジオでレコーディングを行うことは、現在では当たり前のことのように思える。しかし数多くの素晴らしい考えと同様に、こういったことは誰かが最初に思い付かなければならないものなのだ。

オックスフォード近郊シップトン=オン=チャーウェルにある17世紀建築の、コッツウォルズ・ストーンを使った美しい石造りの家をリチャード・ブランソンが見つけたのは、雑誌『カントリー・ライフ』を読んでいた時だ。21歳の誕生日の3ヶ月前、彼は伯母ジョイスから相続した財産と、店舗の売上高に基づいてクーツ銀行から引き出した融資を注ぎ込み、現在<ザ・マナー>という名で知られている邸宅を£30,000で購入した。

このマナー・スタジオは、1971年10月に開業。専属プロデューサー兼エンジニアを務めていたのはトム・ニューマンだ。その1ヵ月後、アーサー・ルイスという名のアーティストが、ザ・マナーでレコーディングを行った最初の1人となった。その時、彼が連れていたのが、マイク・オールドフィールドという18歳のギタリストで、彼は16歳の時にケヴィン・エアーズのバンド、ザ・ホール・ワールドでベースを担当していたほどの実力の持ち主であった。

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マイク・オールドフィールドは1971年初夏にケヴィン・エアーズのバンドを辞め、ミュージカル『ヘアー』の座付きバンドで演奏する一方、ケヴィン・エアーズから借りたステレオ・テープレコーダーをベッドルームに設置して自作の曲に取り組み始めていた。クラシカルな響きを持つこの曲は、まずファルフィッサ・オルガンが奏でるリフとして生まれ、彼はそれを5分間にわたり何度も何度もリピート。それを土台に、マイク・オールドフィールドは、ギター、キーボード、そして種々の楽器を重ね録りし、 傑作を創り上げた。彼はその作品を『Opus One』と名付けた。

その質の高さを確信した彼は、大手レコード各社にそれを売り込んで回ったが、ほぼ全てのレーベルから断られ、EMIの“プログレッシヴ”系レーベル<ハーヴェスト>だけがちょっとした関心を示したものの、後追いはされなかった。1971年11月、スタジオ・ミュージシャンとして、マイク・オールドフィールドが意欲溢れるアーサー・ルイスと共にザ・マナーを訪れたのは、そんな経緯からだった。ある晩、アーサー・ルイスとのセッションを終えた後、マイク・オールドフィールドはトム・ニューマンに自分の曲を聴かせた。トム・ニューマンはそれを「とてもロマンチックで、悲しく、胸を打つ、素晴らしい曲」と評し、彼を励ました。マイク・オールドフィールドにとってさらに重要なことに、トム・ニューマンはそのデモ・テープを、リチャード・ブランソンと、ヴァージン事業の音楽的アンテナ役を務めていたサイモン・ドレイパーに渡すと約束した。

サイモン・ドレイパーはブランソンの従兄弟で、1971年に南アフリカ共和国からロンドンに移住。リチャード・ブランソン同様に目先が利くビジネスマンであったが、彼は既に従兄弟を遥かに上回る音楽的知識を持っていた。リチャード・ブランソンはサイモン・ドレイパーをレコード店<ヴァージン・ストア>のバイヤーにしており、彼の本能がこのビジネスの成功の鍵となっていたのである。

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トム・ニューマンから渡されていたテープをリチャード。ブランソンとサイモン・ドレイパーがようやく聴く段となるまでには、ひどく長い時間がかかってしまった。実際あまりに長かったため、マイク・オールドフィールドがソ連への移住を考えるようになっていたほどである。ソ連では、国家が公務員としてアーティストの生活を支えていると知ったからであった。だがテープを聞いてすぐに確信した彼らは、マイク・オールドフィールドがこの傑作に取り組めるよう、スタジオを使用できる時間を提供した。つまり、他のアーティストがザ・マナーで作業をしていない時に、部屋代と維持費を支払いつつ、“自由に”スタジオを使える時間である。またマイク・オールドフィールドは、ヴァージン・レコードが最初に契約したアーティストでもあった。メロトロンを含め、彼が必要とする楽器や機材のレンタル費用を全て引き受けることにも彼らは同意した。

マイク・オールドフィールドがレコーディングを開始したのは、1972年9月、ちょうどジョン・ケイルがアルバム『The Academy in Peril』を完成させたばかりの時だった。ジョン・ケイルがマナー・スタジオで使用していた楽器の中にあったのが、チューブラーベルだ。これは使えるかもしれないとオールドフィールドは考え、この秘蔵っ子のためにリチャード・ブランソンが次々と借り入れていた種々の楽器の中に、チューブラーベルが加わったのである。

デモ・テープを基にマイク・オールドフィールドが制作していた作品は次第に長さを増していったが、11月を迎えると、レコーディングは終わりに近づいていた。レコーディング終了時、ザ・マナーにはボンゾ・ドッグ・バンドが、さらに言えば、バンドの“残骸”が、契約上義務づけられたアルバムをレコーディングするため滞在していた。このバンドのヴォーリストは、当時自身の抱える様々な問題と闘っていた、かの偉大なるヴィヴィアン・スタンシャルであった。マイク・オールドフィールドは彼にMCを依頼し、マイク・オールドフィールドが書き出した楽器のリストを読み上げるよう説得。そのアイディアには、ボンゾ・ドッグ・バンドの偉大な名曲「The Intro and The Outro」を彷彿とさせるものがあった。「ベース・ギター、ダブルスピード・ギター、ややディストーションのかかったギター……」。読み上げは続き、最後にヴィヴィアン・スタンシャルは大きな声で、とどめの一撃を加える。「そして、チューブラーベルズ」と。

歴史的な22分がここで完成を迎えたものの、実際に事が動き始めるまでには長い時間がかかった:まずマイク・オールドフィールドは、アルバムのB面を仕上げなければならなかったのである。1972年12月頃から1973年初頭にかけ、リチャード・ブランソンとサイモン・ドレイパーはレーベル始動に際しての布陣を固めるため、他のアクトとの契約交渉に励んでいた。新興レーベルだった彼らは、大手レコード会社のような経済力を備えていなかったため、契約は通常の場合、スタジオの無料使用と週20ポンドの固定給を中心に展開。だが、レコード契約の“餌”はそれだけでも十分であり、間もなくレーベル1作目の『Tubular Bells』に続き、3作のリリース準備が整った。

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サイモン・ドレイパーが最初に契約したのは、1971年に結成したドイツのバンド、ファウストだ。彼らは当初ポリドールと契約を結び、バンド名を冠したデビュー・アルバムの制作に取り掛かっていた。そのアルバムは高い評価を受けたもののセールスは全く振るわず、次の『Faust So Far』も同様であった。その後、彼らはヴァージンに移籍し、アルバム『The Faust Tapes』をリリース。これはバンドが既にレコーディングしていた様々な音源の寄せ集めで、ヴァージンはそれを定価48ペンス+送料・手数料15ペンスで販売することにした。このアルバムは最初の1ヶ月だけで10万枚を売り上げ、特にヴァージンが同作の制作に全く先行投資を行っていなかったことから、同社にとって稼ぎ頭となった。

ファウストはヴァージンにとって優れた収入源であっただけでなく、複数のドイツ出身バンドとの関係を確立する橋渡し役を果たしてくれた。その結果、1973年後半にはタンジェリン・ドリームがヴァージンと契約。1974年初めに発表したアルバム『Phaedra』は、その後10年にわたって続いた、このバンドとレーベルとの長い関係の始まりとなった。

ヴァージンが契約した3番目のアクトは、英仏混成の奇矯なヒッピー・バンド、ゴングだ。ヴァージンから発表した彼らのデビュー作『Flying Teapot』には、“変わり者”のあらゆる側面が示されていた。『Tubular Bells』同様、同作は定価2ポンドで販売。霧のかかった古い望遠鏡を通して人々が過去を振り返った時、忘れられてしまっているのは、所属アーティストをコンサートを通じてプロモートするという大胆な手段をヴァージン・レコードが講じたことである。その最初が、1973年6月10日に行われたファウストの公演で、10日後にはゴングがそれに続いた。

やはり2ポンドで売り出されたヴァージンの第4弾アルバムは、これまでの作品と比べ、大変“同時代性”の高いものであった。スティーヴ・ヨークス・キャメロ・パーダリスをフィーチャーした『Manor Live』は、好奇心を掻き立てるアルバムだった。スティーヴ・ヨークはヴィネガー・ジョーの元ベーシストだったため、このアルバムにヴィネガー・ジョーのメンバー、つまりヴォーカルのエルキー・ブルックスとロバート・パーマーが参加していることは驚くに当たらない。その他、同アルバムには、やはりヴィネガー・ジョーのギタリスト、ピート・ゲイジや、グレアム・ボンド(グラハム・ボンド)、マイク・パトゥ、オリー・ハルソール、ロル・コックスヒル、ミック・ムーディ、ボズ、そしてデイヴ・トンプソンが参加。今も謎なのは、どうしてスティーヴ・ヨークが主役の座を射止めたのかということだ!

大きなセールスを上げる可能性のあるアルバムがこの中にあるとしたら、少なくともリチャード・ブランソンとサイモン・ドレイパーにとって、それは『Tublar Bells』であることは明らかであったが、当初、それを理解してる人は誰もいなさそうに思えた。その理由の1つは、この作品は1曲が非常に長いため、ラジオでかけてもらうという選択肢がなかったからである。その後リチャード・ブランソンは、実に彼らしい計画を思いついた。BBCレディオ1の有力DJで流行仕掛け人のジョン・ピールをリチャード・ブランソンの屋形船に招いて昼食を共にし、その際にマイク・オールドフィールドの傑作を丸ごと聴いてもらったらどうだろうか?という案だ。そこで実際にこの曲を聴く機会を得たジョン・ピールはその後、自身のラジオ番組で22分もの長さの「Tubular Bells」を最初から最後まで流し、BBCが発行する雑誌『ザ・リスナー』に次のように寄稿した。「名声の確立しているクラシック作品から何かを借りることもなく、また決然たるアヴァンギャルドの不協和音や金切り声やげっぷに飛びつくこともなく、マイク・オールドフィールドは驚きや天気雨を論理と融合する音楽を生み出している」と。後は知っての通りである。

まあ、ほぼ大体のところはご存知のことだろう。ジョン・ピールの番組でのエアプレイと賞賛の言葉に乗じ、彼らは急遽、ロンドンのクイーン・エリザベス・ホールで『Tubular Bells』を生演奏するコンサートを手配した。参加ミュージシャンは、ザ・ローリング・ストーンズのミック・テイラーや、スティーヴ・ウィンウッド、マイク・オールドフィールドがかつて在籍したバンドのリーダーだったケヴィン・エアーズと、彼のソフト・マシーン時代の同僚ロバート・ワイアット、スティーヴ・ヒレッジ、そしてスティーヴ・スタンシャルという、スターが勢揃いのラインナップであった。だが問題が1つだけあった。マイク・オールドフィールドが、自身の作品をステージでライヴ演奏することに怯え切っていたのである。

「怖いんだ。どういうことになるか分からない。これはヴァージンが思い付いたことだったんだ」と彼が記者に語っていたのは、コンサート1週間前のことだった。状況があまりに悪化し、リチャード・ブランソンが取りなして、マイク・オールフィールドを説得しなければならなくなったほどである。リチャード・ブランソンが切り札を切ったのは、クイーン・エリザベス・ホール公演の前日。つい最近、両親から古びたベントレーをもらったばかりの彼は、「なあマイク、君がこのコンサートをやってくれたら、そのベントレーをあげるよ」と持ちかけたのだ。そしてマイク・オールドフィールドはコンサートを行った。

出だしは鈍かったものの、やがて全てが良い方向に進んでいった。『Tublar Bells』のセールスは間もなく100万枚を突破し、米国でのリリースに当たっては、ヴァージンに100万ドルの前払金が支払われた。同アルバムは全米チャートで即座に3位を記録。1年間近くチャートインし続けることとなる。さらに思いがけないおまけもあった。1973年12月、ウィリアム・フリードキン監督が手掛けた映画『エクソシスト』(2人の神父が、悪魔に取り憑かれた少女の悪魔祓いを行う物語)のサウンドトラックに『Tubular Bells』のテーマが使用されたのだ。

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マイク・オールドフィールドが成功を収める以前から、ヴァージンは精力的に契約アーティストを増やしていた。 5月には、ジョン・ピールの主宰レーベル<ダンデライオン(Dandelion)>と契約していたケヴィン・コインがヴァージンに移籍、トム・ニューマンと共にザ・マナーでのレコーディングに勤しんでいた。ケヴィン・コインのヴァージン移籍第一弾『Marjory Razorblade』は、大ヒットとはならなかったものの、多くの人々に愛され、その中には後にPiLを結成することになるセックス・ピストルズのジョン・ライドンも含まれていた。後に彼は“無人島に行く際に持っていく曲”を選ぶ企画で、その1つとして『Marjory Razorblade』収録の「Eastbourne Ladies」を挙げている。

ケントの大学に在学中、いわゆる“カンタベリー・シーン”に参加し、自身のバンド、カーンを結成していたスティーヴ・ヒレッジは、クイーン・エリザベス・ホール公演でマイク・オールドフィールドと共演を果たした。1972年後半、フランス滞在中にゴングと出会った彼は、アルバム『Flying Teapot』のセッションに参加し、彼らに惹かれてバンド加入を決意。1975年まではゴングで活動していたが、ヴァージンからリリースするソロ・アルバムをレコーディングした後、間もなくバンドを脱退した。アルバム『Fish Rising』には、ゴングのメンバー数人だけでなく、当時同じくヴァージンと契約していたハットフィールド&ザ・ノースに在籍していた元エッグのデイヴ・スチュワートも参加している。

Virgin The Early Years批評家達からの賞賛は必ずしも売り上げに結びつくものではなく、1976年頃になると、ヴァージンは経営難に直面していた。だが例のごとく、広告の力を熟知していたブランソンは、その過程で多少の混乱をきたすことも恐れずに、ちょっとした作戦をまたも見事に成功させる。セックス・ピストルズは、野放図なオランダ・ツアーの後、EMIから契約を解除され、その直後にグレン・マトロックがバンドを脱退。後釜としてシド・ヴィシャスが加入していた。3月にはA&Mと契約したものの、一説によればバンドがA&Mのオフィスをめちゃくちゃに破壊したのが原因で、ごく短期間で再び契約を破棄される。3番目の契約相手として名乗りを上げたのが、リチャード・ブランソンであった。 シングル「God Save the Queen」がリリースされたのは、その数週間後のことだ。エリザベス女王戴冠25周年記念の祝賀行事にちょうど間に合うように、同曲は期待通り全英シングル・チャート初登場2位を獲得。続くアルバム『Never Mind the Bollocks』で、セックス・ピストルズの伝説が正式に完成する。わずか2年の活動で名声を極めたセックス・ピストルズが、どのようにして世界を永遠に変えたのか、詳しくは『パンク・トゥ・グランジ特集』の項をご参照いただきたい。

セックス・ピストルズの解散後、ヴォーカリストのジョニー・ロットンことジョン・ライドンは、パブリック・イメージ・リミテッド(PiL)を結成。デビュー・アルバム『Public Image:First Issue』を1978年12月に発売し、ポストパンク・ムーヴメントの先頭に立った。そんな中、ヴァージンは、モーターズ、XTC、スキッズ、マガジン、ペネトレーション、ヒューマン・リーグらと契約、ムーヴメントで重要な役割を果たすことになる。

1980年後半、ポストパンクの栄光に浴している最中のヴァージンは、また別の大胆な、恐らくは勇敢だが普通ではないと言う人もいるであろう、ある契約を結んだ。それは、パンクのアンチテーゼであるプログレッシヴ・ロック界の人気者、ジェネシスのドラマーのフィル・コリンズによる初ソロ・アルバムをリリースするという契約であった。1981年2月にリリースされた『Face Value』は、3週間連続で全英チャート首位を制覇。皮肉なことに、ヴァージンのアルバムが全英1位となったのは、1977年のセックス・ピストルズ以来のことであった。フィル・コリンズの次のアルバム『Hello, I Must Be Going』も、ほぼその成功の再現となり、全英2位を記録。ジェネシスのメンバーのうちソロ作が全英1位となったのは、このフィル・コリンズが2人目だった。1人目は、1980年夏に自身の名を冠したアルバムで全英首位を獲得したピーター・ガブリエルである。

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ピーター・ガブリエルは1977年にジェネシスを脱退以降、特異な音楽道を歩み続け、ジェネシスの所属するレーベル<カリスマ>から2枚のアルバムを発表。素晴らしいシングル「Sledgehammer」や、ケイト・ブッシュとの雰囲気あるデュエット「Don’t Give Up」が収録された『So』を始め、一連のヒット・アルバムをリリースしていた。

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1980年初頭、ジェネシスはアルバム『Duke』で初の全英No.1を獲得。ヴァージンが設立された1973年、ジェネシスは5作目『Selling England By The Pound』を制作しているところで、このアルバムにより彼らは商業的な面で躍進を果たした。彼らは既に大物バンドとなっており、音楽的には居心地の良さを感じられたかもしれないが、発展途上のアクトを専門とするヴァージンと契約するようなタイプのアーティストではなかった。物事が一回転して元に戻ったのは、1984年、ヴァージンがカリスマ・レーベルを買収した時のことだ。ヴァージンからの第1弾アルバム『Genesis』は、彼らにとって連続3枚目の全英No.1アルバムとなり、1986年には『Invisible Touch』が、そして1991年には『We Can’t Dance』が、同じように全英1位を獲得している。

負けじとばかり、トニー・バンクスが初のソロ・アルバムをリリースしたのは1979年のこと。『A Curious Feeling』は全英チャートで21位を記録した。ジェネシスのドラマーのチェスター・トンプソンと、ヴォーカリストのキム・ビーコンを除き、その他の演奏を手掛けているのは全てトニー・バンクス自身だ。2枚目のソロ・アルバムは1983年の『The Fugitive』で、ここではヴォーカルもトニー・バンクスが担当。実際、1983年は彼にとって忙しい1年で、映画『二つの顔の貴婦人(原題:The Wicked Lady)』のサウンドトラックもこの年にリリースされた。同作の前半はトニー・バンクスが一人で録音、後半はサントラのオーケストラ・アレンジとなっている。

翌年、トニー・バンクスは映画『2001年宇宙の旅(原題:2001: Space Odyssey)』の続編映画『2010年(原題:2010: The Year We Make Contact)』の音楽に着手。彼の曲はこの映画には採用されなかったが、代わりに別の映画『夢翔戦艦スターシップ/亜空間脱出(原題:Lorca And The Outlaws)』で用いられた。 1986年、トニー・バンクスは映画『クイックシルバー(原題:Quicksilver)』の音楽を担当。そこにはマリリオンのヴォーカル、フィッシュと共作した曲も含まれている。

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1989年のアルバム『Bankstatement』ではトニー・バンクス自身に加え、数人のヴォーカリストが歌を担当。同様に、1991年のアルバム『Still』には、アンディ・テイラー、ニック・カーショウ、そしてフィッシュがフィーチャーされている。1995年のアルバム『Strictly Inc.』には、ワン・チャンのヴォーカリスト、ジャック・ヒューズが参加していた。トニー・ バンクスは2004年、『Seven』と題したオーケストラ作品をリリースし、2012年にも同種のスタイルのアルバムを発表。『Six』という気の利いたタイトルが付けられている。ジェネシスのマネージャー、トニー・スミスによれば、ジェネシスはトニー・バンクスのソロ・プロジェクトであり、実際、彼の驚異的なキーボード演奏と作曲が、バンドの成功に極めて重要な役割を果たしていたという。ジェネシスでは常に喜んでツアーに出ていた一方、彼が自身のソロ・アルバムを引っ提げてツアーを行うことはなかったことからも、この“ジェネシスの静かなる人“について多くのことが分かる。

ジェネシスのソロ・アーティスト物語の三部作を完成させるには、マイク・ラザフォードのソロ・プロジェクト、マイク&ザ・メカニックスについても語らねばならない。同名義での1作目は、グループ名を冠した1985年のアルバムで、同作からは2つのヒット・シングルが生まれた。1つ目が、ポール・キャラックがリード・ヴォーカルを務めた「Silent Running」で、もう1つが元サッド・カフェのヴォーカル、ポール・ヤングをフィーチャーした「All I Need Is a Miracle」だ。 次のアルバムは1988年の『Living Years』で、その第1弾シングル「Nobody’s Perfect」は、全米チャートで最高位63位を記録。2枚目のシングルとなったアルバム表題曲は全英2位、そして米国を始めとする世界各国でチャート1位に輝いた。

歴史上のどの時代でも、ヴァージンというレーベルは生まれ得ただろうか? それは恐らく無理だろう。各店舗に同じ雰囲気が浸透しているようなレコード・チェーン店を立ち上げることは、恐らくそれ以前には起こり得なかったはずだ。英国の経済状況は好調とは程遠く、買うべき音楽をどこで購入するかに関し、人々はどんどん抜け目なくなっていた。多種多様な方向にロックを導いていく数々の新しいアイデアは拡大の一途をたどっており、儚い理想を抱いたアーティスト達に同調して手を結ぶのは、多くの大企業レーベルにとってますます難しいことになっていた。ザ・マナーを購入出来たのも、当時はちょうどあのような大邸宅が時代遅れとなっており、今日の市場と比べれば非常に低価格だったことから、運に恵まれていたのである。

全てのきっかけとなったのは、言うまでもなくマイク・オールドフィールドの音楽だ。しかしリチャード・ブランソンは、時機、献身、魅力、そして少しの運が重なった時、誰にも止められないアイデアが湧き出す才能の持ち主であることを、幾度となく証明してきたのである。

文 : Richard Havers


 


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