カナダを代表するアーティスト、コリー・ハートとの思い出【今泉圭姫子連載】

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ラジオDJ、ライナー執筆など幅広く活躍されている今泉圭姫子さんの連載「今泉圭姫子のThrow Back to the Future」第21回は、2019年7月にポール・ヤングとともに来日公演が決定したコリー・ハートについて。80年代に本国のカナダはもちろん日本でも大活躍した彼と過去に行ったインタビューや2016年の来日などを振り返っていただきました(これまでのコラム一覧はこちらから)


 

2019年3月17日、カナダ・ロンドンにて、ジュノ賞の授賞式が行われました。ジュノ賞は、カナダのグラミー賞にあたる最大の音楽賞です。今年はサラ・マクラクランのMCで開催され、最大の見せ場は、カナダのHall of Fame(殿堂)入りを果たしたコリー・ハートのスペシャル・ステージでした。式の前半には、コリーのこれまでの軌跡を映像にまとめたものが映し出され、本人も感激した様子。本人よりも子供達が涙して、それを見て私も涙でした。今年は、5月3日に新作がリリースになり、5月31日からはカナダ16ヵ所回るアリーナ・ツアーが発表になり、完全復活となります。また、カルガリーにあるナショナル・ミュージック・センター内にあるスタジオ・ベルでは、コリーの展示会が大々的に催されています。

 

コリー・ハートは、カナダ・モントリオール出身。1983年、22歳の時に「Sunglasses at Night」でデビューしました。デビュー・アルバム『First Offense』は、ジョン・アストリー、フィル・チャップマンのプロデュースで、イギリスでレコーディングされました。アルバム収録曲「Jenny Fey(愛しのジェニーフェイ)」には、エリック・クラプトンがギターで参加しています。これはプロデューサーのジョンの計らいで、クラプトン自身も楽曲が気に入り演奏したということです。「Sunglasses at Night」は世界中でヒットし、ジュノ賞では、ベスト・ビデオを受賞。またグラミー賞の新人賞にもノミネートされました。

 

日本でも、ブライアン・アダムスと共に、カナダの若手シンガーとして大人気となったコリー。その後「Everything in My Heart」「Boy in the Box」「Take My Heart」、カバー曲「Can’t Help Falling in Love(好きにならずにいられない)」などをヒットさせました。1985年には、”決して諦めない“というテーマを歌った「Never Surrender」で、ジュノ賞のベスト・セリング・シングルを受賞しています。

当時の彼の人気をどのように説明したらいいでしょうか?彼は、音楽に集中したいがために、映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』の主役の座を断ってしまう、というそんな話もありましたっけ。1989年には、日本武道館のステージに立っています。

80年代は北米だけでなく、日本での人気を不動のものにしたのコリー。90年代に入ると、長年の恋人で日系カナダ人のエリカと結婚するも離婚。ジュノ賞の授賞式で知り合ったケベック出身の人気歌手ジュリー・マスと出会い再婚。子供が誕生してからは子育てにそのエネルギーを向けることになったのです。そしてセリーヌ・ディオンに楽曲を提供したり、若手をプロデュースしたりと音楽面ではマイペースな活動で、あえて自分自身が歌うことはありませんでした。1999年にリリースしたアルバム『Jade』が現時点で最後のアルバムです。その後2014年ごろからSiena Recordsを立ち上げ、活動再開はしたものの、本格的なものではありませんでした。三女のリヴァーがテニス・プレイヤーとしての才能を発揮すると、英才教育もかねて、彼女のツアーに同行するようになっていたのです。そして末っ子のレイン君が成長してからは(現在15歳)少しづつ、自分の音楽キャリアを再開しました。

80年代のコリーは、少し気難しいという印象がありました。まぁ、取材で大変な思いをしたトップ3の中に入ります。初めてインタビューしたのはカルガリー公演を観た翌日でした。1985年だったと思います。コンサートはもちろん素晴らしく、若さ溢れるステージに感動でした。LA在住のフォトグラファー、ウイリアム・ヘイムズさんと取材を敢行。このツアーは、コリーにとって最大のアリーナ・ツアー、そしてコンサートの翌日なので疲れていることを考えれば、当然のことなのですが、サングラスをはずすことはありませんでした。日本からわざわざカルガリーまで来たんだから、ちょっとだけでも笑顔をみせてよ、と心の中で思っていましたが、それは叶わず、終わった後の記念撮影もこんな感じです。

そしてあまり多くの写真を撮らせず、取材はあっけなく終わりました。一生懸命応援していたアーティストですが、本人はアーティスト気質丸出しで、それを隠そうともしない若者だったのです。今思えば、そういう人ほど魅力的なのですが、私も若かった! その後初来日を果たし、熱狂的な洋楽女子ファンに支えられ、彼はアジアでもブレイクするのですが、やはりあまり笑わない。その後、2作目『Boy In The Box』リリース時に、ニューヨークにいるコリーを取材。当時のディレクターY氏に「取材がいつもスムーズにできない」と愚痴ってみたもののスルーされニューヨークへ。到着するとすぐに、コリーが宿泊しているブティックホテルに出向きました(Morgan Hotelというおしゃれなホテルだったなぁ)。到着してもインタビューがいつできるかの返事を得られていなかった状況だったので、ひたすらOKの返事をもらうために、待つこと2日間。その時もウィリアムさんがカメラマンでしたが、「とにかく待とう」と。

私はそんないつになるか分からないインタビューを待ちつつも、Y氏から「スヌーピー、コリーのご挨拶状のポストカードを作ったらから、ニューヨークで切手を貼って、投函してきてほしいんだ。お世話になっている媒体のみなさんに届けたいから」と。1枚じゃありません。100枚です。ロックフェラーセンターだったと記憶してますが、私はビル内の郵便局でひとり切手を貼る作業をしていました。新人インタビューアーですから、なんでもやります。

ホテルに戻ると、そろそろ動きがありそうというウイリアムさん。コリーは恋人のエリカさんとようやく現れたのです。どんなインタビューをしたのか忘れましたが、写真撮影は10分ほどで切り上げられ、ハイ終了! ちょっと〜、ニューヨークまでわざわざ来たのに〜、切手貼りにきたわけじゃないのよ〜。本当に写真が嫌いな人でした。
そんな苦い海外取材を経験し、それでも日本での取材も含め、何度も会うことになったコリーと、少しは信頼関係を築くことができたのか、1988年、私がロンドンに1年間住んでいる時には、励ましの応援カードが届いたりしました。振り返れば、コリーの愛想のない表情の裏には、照れとか、新人の時はまだ自信がなかったのか、そういったことが警戒心を生んでいたのかもしれません。それからは、時々連絡をとりつつ、コリー担当のT氏が亡くなった時の彼の落ち込みがひどかったので、励ましたり、そういう関係が続きました。そしてコリーとの再会は、2016年にやってきたのです。

湯川れい子先生の記念パーティに、コリーがサプライズ・ゲストとして登場するという企画が持ち上がり、私はコリー担当の裏方として、れい子先生に絶対に知られないように、コリー一家をお世話する役を仰せつかりました。そうジュリと子供4人の6人家族での来日でした。成田に迎えに行き、ミーティングポイントで待っていると、懐かしいあの顔がやってきました。そしていきなり私の靴を見て、「今から幼稚園行くの?」と。履きやすい、丸い先の靴に対する反応です。「ちょっと、30年振りの再会がそれか?」と。でもコリーらしいです。

翌日のパーティ本番までは原宿で買い物を楽しんだり、パパとして一家をまとめている様子を見ることができました。成城石井の味噌せんべいが気に入っていましたっけ。パーティでは、「Never Surrender」と「Can’t Help Falling in Love(好きにならずにいられない)」を熱唱。その場にいた誰もが、コリーの歌声が以前と変わらない、素晴らしいものであったことに驚いたのです。もちろんコリーの歌声を聴き、れい子先生は大泣きでした。

その後コリー一家、れい子先生と箱根の温泉に出かけたのですが、その道中、私はカルガリーで写真撮らせない事件、ニューヨークでの切手貼り事件、その他もろもろを家族にレポート。「家族の前で言わないで〜」と笑いながらコリーは必死。「そんなことはなかった」と言い訳をしていましたっけ。そんな会話の流れから、コリーが「ところでブライアン・アダムスとは何枚写真撮ったの?」「いや〜、ブライアン・アダムス氏とはたくさん撮ることができたのよ」と嫌味っぽく言うと、「じゃあ、箱根でいっぱい撮ろう。」とコリー。箱根でいっぱい撮ってもしかたないですよね。「いや、1枚でいいよ」と返事しました。それがこの写真。サングラスしてるし(笑)。

今年は、そんなコリーがコンサートで来日します。7月2日Bunkamuraオーチャード・ホール、7月3日NHK大阪ホール。今回は同じく80年代に数多くのヒットを飛ばしたブルー・アイド・ソウルのポール・ヤングとのジョイント・コンサートです。二人でのスペシャルも準備しているようです。どんなスペシャルかは、近いうちに明かされるはずです。楽しみにしていてください。

7月のコンサートまでは、こちらのTwitterアカウントで最新情報をアップしますので、こちらもチェックしてくださいね。



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今泉圭姫子(いまいずみ・けいこ)

ラジオDJ、音楽評論家、音楽プロデューサー
1978年4月、湯川れい子氏のラジオ番組「全米Top40」のアシスタントDJのオーディションに合格し、この世界に入る。翌年大貫憲章氏とのコンビでラジオ番組「全英Top20」をスタート。以来現在までにラジオDJ以外他にも、テレビやイベント、ライナー執筆など幅広く活動。また、氷室京介のソロ・デビューに際し、チャーリー・セクストンのコーディネーションを行い、「Angel」のLAレコーディングに参加。1988年7月、ジャーナリスト・ビザを取得し、1年間渡英。BBCのDJマーク・グッドイヤーと組み、ロンドン制作による番組DJを担当。
1997年、ラジオ番組制作、企画プロデュースなど活動の場を広げるため、株式会社リフレックスを設立。デュラン・デュランのジョン・テイラーのソロとしてのアジア地域のマネージメントを担当し2枚のアルバムをリリース。日本、台湾ツアーも行う。
現在は、Fm yokohama「Radio HITS Radio」に出演中。

HP:http://keikoimaizumi.com
Twitter:https://twitter.com/radiodjsnoopy
Radio:Fm yokohama「Radio HITS Radio」

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