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レコード・ストア・デイ共同創設者マイケル・カーツ氏、独占インタビュー(前編)

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4月の第3土曜日と言えば、毎年世界中の音楽ファンが心待ちにするレコード・ストア・デイ。その第11回目を前に、共同創設者のマイケル・カーツ氏が来日した。普段はデパートメント・オブ・レコード・ストアズ(北米最大のインディペンデント・レコード店の団体)の会長を務める彼を中心に企画されたこのイベントは、音楽のデジタル化が進む中で苦戦を強いられた独立系・個人経営のレコード店を支援するべく誕生。敢えてアナログ盤にフォーカスし、大物アーティストたちの協力のもとに、趣向を凝らした限定タイトルを多数ラインナップして、今ではグローバルな音楽の祭典へとスケールアップしたことは、ご存知の通りだ。日本でもここにきてすっかり定着。参加店も、国内アーティストによるタイトル数も増えている中、改めてイベントの歴史、そしてカーツ氏自身の音楽人生を語ってもらった。


──まずあなたの経歴について伺いたいのですが、レコード店との関わりは長いのですか?

そうだね。1978年、まだ10代の頃にレコード店でバイトをしたのが始まりだった。当時はトーキング・ヘッズやデヴィッド・ボウイやフリートウッド・マックのレコードを売っていたっけ。その後大学に進んで、作曲とビジネスを専攻し、中退してバンド活動をして……その間もずっとレコード屋で働いていたから、全人生を通じて、何らの形で関わってきたと言えるね。

──若い頃に通った思い出深いレコード店はありますか?

父が軍人だったから、幼い頃に基地内にある軍属専用の店に行ったのが一番古い記憶かな。その後ノース・カロライナ州ウィルミントンで暮らしていた頃、マグラスという小さなレコード店に通ったよ。そこにはいくつか、テーマごとに分けられたセクションがあった。そのひとつがザ・ビートルズのセクションで、アップル・レーベルの作品ばかりを集めていたんだ。あの鮮やかなグリーンのロゴを冠したジャケットの数々を目にして、アナログ盤は視覚的に美しいアートなのだという鮮烈な印象を、僕の心に刻んだものだよ。ただヨーコ・オノのシングルは、ひと味違っていた。彼女の場合、ヴェトナム戦争のことだったり、ジャケットを使って何らかの情報を伝達しようと試みていた。だからちょっと怖かったけど(笑)、それはそれで色んなことを考えさせてくれて、別の意味で印象に残っているよ。

──そんな風に、音楽ファンにとって非常に重要な場所だったレコード店が衰退したことを受けて、あなたたち業界関係者がレコード・ストア・デイ(以下RSD)を企画したそうですね。

そうだね。ただレコード店の衰退というのは、見え方の問題でもあったんだ。確かに当時のアメリカではタワーレコードが閉店したばかりで、あれは衝撃的だった。音楽ファン全員にとって、友達が亡くなったかのように感じられる事件だったよ。今後レコード店はこの世から消えて、誰もが音楽をダウンロードするようになるだろうと、マスコミは騒ぎ立てた。でも実は、状況はそこまで悪くなかった。だから、ネガティヴな印象を拭うために異なるストーリーを伝える必要があると感じて、盛大なパーティーを開こうという話になったのさ。

──2008年の第1回はどの程度の規模だったんでしょう?

アメリカ国内で約100店の参加を得て、12枚の限定タイトルを用意した。だから規模は決して大きくなかったが、想定を遥かに超える大成功を収めたんだ。レコード店の前に行列ができるなんて、もう何十年も見なかった光景だからね(笑)。

──サンフランシスコでのキックオフ・イベントでは、メタリカの参加を得ましたね。

彼らが参加した背景には、レーベルの協力があったんだ。というのも、メタリカが所属していたワーナーミュージックの当時の会長は、アナログ盤をこよなく愛する、熱心なコレクターでね。話をしたら即座に「面白い!ぜひやろう!」と乗ってくれて、RSDを実現させる上で大きな役割を担ったんだ。大手レーベル関係者の中で、彼は唯一RSDを理解してくれた。ほかの人たちは、そんなことをやってもセールスにつながりっこないと思ったようだね。ところが実際には、ものの数時間で何もかも売り切れてしまって、みんな一気に態度が変わったよ(笑)。

Metallica – Record Store Day (2008)

 

──そんな、売り切れ必死の限定アイテムの数々は、どのように監修しているのですか?

アーティストからアプローチを受けるケースと、RSD側が依頼するケース、両方あるよ。最初の頃はこちらから依頼することが多かったが、最近は専らアーティストたちから提案を受ける。そういう提案をまとめて、レコード店オーナーたちから成る10人のチームと一緒に検討し、毎年約600~700の候補から350~400くらいに絞るんだ。英国ではさらに独自のリリースが多数加わるから、合計で600くらいあると思うよ。日本でも今年は80近い独自タイトルが用意される。英国以外では一番多いんじゃないかな。

──旗振り役の“アンバサダー”のシステムも面白いですね。初代は誰だったんですか?

第2回のRSDで、イーグルス・オブ・デス・メタルのジェシー・ヒューズが勝手に名乗り出たんだよ(笑)。彼のマネージャーから「ジェシーがアンバサダーになりたいと言ってるんだけど、どうかな?」と連絡があってね。「そりゃ面白そうだな」と賛成したんだ。半ば遊びで、まあ楽しくやろうじゃないかと。その後は大物アーティストが続々アンバサダーを務めてくれたから、最終的には非常にシリアスな役割へと発展したんだけどね。

──団体としてのRSDはどのように維持されているのですか?非営利団体なんでしょうか?

そうだね。僕以外にキャリー・コリトンというスタッフがいて、ふたりで運営している。お互いに本業があるから、報酬は必要ないんだ。正確にはほんの少し報酬があるけど、僅かな額だからお茶代にしかならないよ(笑)。とにかく、最初からRSDそのものが利益を得ることがないように、組織を考えたんだ。そうしないとアーティストたちに、「なぜ君らが儲けるために協力しなくちゃいけないんだい?」と言われてしまう。RSDではなく、アーティストとレコード店とレーベルが利益を得ることが重要だった。それに、僕も普段はレコード店の団体で働いているわけだから、RSDの仕事を掛け持ちしても誰も文句は言わないよ(笑)。

──ではこれまでを振り返って、あなたが直面した困難というと?

“使命に忠実であり続ける”というのが、間違いなく大きな課題だね。僕たちはRSDをあくまで、レコード店のセレブレーションにしたかった。そして、部外者に利用されたくなかった。これだけ成功すれば当然、自分の利益のために利用しようとする人が出てくるものだ。それで、まずは商標登録をしたんだよ。現時点ではうまく行っていて、レコード店の支援に集中できているけどね。もうひとつ苦労したのは、海外進出かな。国外でも成功させられると感じた僕は、2年目にヨーロッパを訪れて関係者と話をして、ローンチにこぎつけたんだが、言語やカルチャーの違いもあるし、かなり手こずったよ。ヨーロッパでも疑いの眼差しで見ていた人が多かった。でも結果的にはアメリカ以上に成功するに至り、今では世界的に、年間で最大のセールスを記録しているよ。日本に進出した時も同じことで、自分で足を運んで色んな人と話をして進めた。どの国でもキーパーソンになる人や企業を探すんだ。RSDを理解し、それぞれの国に広めてくれる人を。日本の場合は、日本版RSDを運営する東洋化成が、そういう役割を担ってくれているよ。

──ちなみに、あなた自身は毎年RSDをどこで過ごしているんですか?

以前はカリフォルニアに住んでいたから、もちろん第1回はサンフランシスコでのキックオフ・イベントに足を運んだよ。メタリカのロバート・トゥルージロとは友達だしね。その後は毎年LAで、友人たちと車に乗り込んで、1日中あちこちの店を回って過ごした。今はニューヨークで暮らしていて、同じように終日レコード店巡りをしているよ。

──ロバートと言えば、彼のプロデュースで制作されたジャコ・パストリアスのドキュメンタリー映画『JACO』に、あなたが撮影したジャコの貴重なライヴ映像が使われたとか。

ああ。確か15歳の時だったかな。いつも8ミリ・カメラを持ち歩いていて、なんでもかんでも撮影していた。今の若者がケータイで写真を撮るのと、似た感覚なのかもしれない。で、ジャズが大好きだった僕は、ある日ジャコ・パストリアスが在籍していたウェザー・リポートのライヴを観に行って、ステージ前に立ってカメラを取り出したんだ。するとジャコがそれを見て、ステージの端にやって来て、目の前で踊ってくれたんだよ。その一部始終をカメラに収めたのさ。それから長い年月を経て、知人に映画の話を訊いて、映像があったことを思い出した。それで「こんなものがあるけど、使えるかい?」とロバートに打診してみたんだ。

──当時はライヴ会場にカメラを持ち込めたんですね。

70年代は、なんだって許されたんだよ。それがロックンロールってヤツさ(笑)。

後編はこちら

Interview & Written by 新谷洋子


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