【前編】サー・ゲオルグ・ショルティによる《ニーベルングの指環》の新リマスター盤を徹底解説。デジタルメディア評論家、麻倉怜士氏が聞くリマスター秘話公開。

Published on

©Decca Christina Burton

1958年、当時デッカ・レーベルのプロデューサーだったジョン・カルショーが考案した、指揮者サー・ゲオルグ・ショルティとウィーン・フィルハーモニー管弦楽団による「ワーグナー:楽劇《ニーベルングの指環》」の史上初の全曲スタジオ録音。総演奏時間が15時間を超えるこの録音はデッカ・レーベルの総力を結集したクラシック音楽史上最高の作品として今もなお尊ばれている。

2022年、ショルティの生誕110周年・没後25周年を記念してこの歴史的録音の新たなリマスター盤が発表された。このリリースに際して、デジタルメディア評論家、麻倉怜士氏とこのリマスターの制作を手掛けたデッカ・クラシックス・レーベル・ディレクター、ドミニク・ファイフ、そしてエンジニアのフィリップ・サイニーとの対談が実現!今回のリマスター盤で使用した1958年―1965年録音のオリジナル・ステレオ・マスターテープの編集修理や、24bit/192kHzの高解像度で行ったマスタリングについて、リマスタリング秘話を語ってもらった。(後編はこちら


「今」のリリースの理由は?

麻倉:今日は、よろしくお願いします。新しくリマスタリングされた《ニーベルングの指環》
(以下《指環》)のSACDを聴き、圧倒的な素晴らしさにノックアフトされました。まさにジョン・カルショーが夢見た、高品位で臨場感豊かな音響世界が、初めてディテールまで、完全に聴けた思いでした。ぜひ、本作品のリマスタリングに関して、お聞きしたいと思います。最初に、今回の《指環》の制作、リリースがなぜ「今」なのか、とても気になりました。

ファイフ:それには3つの理由があります。1番目の理由は、このプロジェクトを担った指揮者、サー・ゲオルグ・ショルティ(1912~97)の生誕110周年・没後25周年記念を祝うことです。2番目は偶然にも、1997年にジミー・ロック(James Lock、有名なデッカのレコーディング・エンジニア)がリマスタリング制作したCDから25年目であるということです。それについては後でもう少し詳しく説明しましょう。

3番目の理由は、Dolby Atmosの登場です。ご存知のように、Dolby Atmosはアップルやアマゾンなどのストリーミング・プラットフォームの多くで採用されており、ユニバーサル ミュージックはリリースに力を入れ、Appleや他のパートナーに、できるだけ多くのカタログを提供しようと考えています。エンジニアのフィリップ・サイニーはすでに、ヴラディミール・アシュケナージなどのカタログの中から、王冠のような作品をいくつかに取り組みました。

私たちが最初に《指環》のリマスタリングの検討を始めたのは約1年半前です。ここまで来るのにとても長い時間がかかりました。その推進力は今、述べたようにシュルテイ卿の記念日と、Dolby Atmosの登場だったのです。今回のリリースでは、SACD、CD、LPレコードと広く普及しているメディアだけでなく、2チャンネルとDolby Atmosのストリーミングも、行います。

サー・ゲオルグ・ショルティ(©DECCA Christina Burton)

55℃で10時間焼き、テープ修復に成功

麻倉サイニーさんは、2012 年にも《指環》をリマスタリングされています。それと今回
の違いを教えてください。

サイニー2012 年、私たちはロンドンのアナログ専門家、ファインスプライスのベン・タ
ーナーに、アーカイブにあったアナログテープを調べてもらいました。
ユニバーサル ミュージックは彼にテープを送りましたが、彼は見たもの、聞いたものにかなり愕然とし、アナログテープを使うのは止めた方がいいと報告してきました。なので、その時はアナログテープに戻るのではなく、ジミー・ロックが作ったデジタル・リマスターを強化するという方針にしました。でもジミーが作ったデジタル・トランスファーは、今できる解像度からすると、かなり低いものでした。

麻倉:今回は、オリジナルテープから直接デジタル変換したと伺っておりますが、テープはかなり昔に録音されたものなので、劣化したり、傷がついていたりするはずです。どのように修復したのでしょうか?

《ジークフリート》オリジナルテープ(©DECCA)

サイニー:デッカが使用した多種類のテープの問題と、アンドリュー・ウェドマンの存在がポイントでした。デッカは《ラインの黄金》ではAmpexを使い、その後Scotch 102に変えています。特にScotch 102は酸化物がテープから剥がれ落ち、現在でも問題を引き起こしています。だからアナログテープは非常に慎重に扱わなければなりません。2012年当時、テープはドイツの施設に保管されていました。ユニバーサル ミュージックはアーカイブ・プロジェクトの一環として、38本のテープの管理とトランスファーを、ドイツのギュータースローにあるアルヴァートという会社に依頼していました。

録音から最大65年前のオリジナル・マスターテープなので、どうしても酸化膜剥離が発生します。特に状態の悪いテープは、55℃で10時間焼くことで修復に成功したそうです。さらに補修を加え、すべて192kHz/24bitでデジタル化されました。その作業は2013年頃から行われ、2年をかけてすべて完了していました。

そこに超一流の専門家がいたのが幸運でした。元ドイツ・グラモフォンのエンジニアのアンドリュー・ウェドマン(Emil Berliner Studios)です。彼は素晴らしいアナログのスペシャリストです。彼に《指環》トランスファーを担当していただきました。テープはStuder A820で再生し、Weissアナログ/デジタルコンバーターを経由し、独自のワークステーションがデジタルファイルを記録しました。

麻倉:24bit/192kHzのパラメーターを選択したのですか?現在では、DSDやDXDなどのより高品質も可能ですが。

サイニー:確かに、それ以上のクォリティのフォーマットも現在では選択できますが、2013年では192kHz/24bitは最上位のフォーマットでした。もうひとつこのパラメーターにしておけば、デッカの様々な部門が望むダウンサンプリングが容易だという理由もありますね。192kHz/24bitは非常に高い周波数を記録します。人間の聴覚の閾値をはるかに超え、コウモリや犬でさえも満足させることができます。今回のSACD用には192kHz/24bitから変換されたDSDファイルが使われています。

アナログテープのイコライジング・カーブは?

麻倉:アナログテープは独自の再生カーブを持っています。ドイツでのトランスファーではこの問題については、どのように対処したのでしょうか。

サイニー:各オペラの最初のテープリールには、左右の識別信号とテープヘッドの正しいキャリブレーションを確認するための一連のトーンが収録されていたので、テープレコーダーのヘッドアライメント調整には大いに助けられました。再生時には、できるだけ平坦な周波数特性を得るために、古典的なNABイコライザー・カーブを使用しました。

テープはDolbyノイズリダクション技術が適用される前なので、アンペックス社が提案したAME(Ampex Master Equalization)カーブを使用していました。録音時に中高域を標準特性より強くして、高域の録音レベルをあげ、再生時に逆に下げることによって、ヒスなどの高域ノイズを減らすという方法です。でもドイツでの作業では、AMEのデコード回路がないので、NABイコライザー・カーブのままで、高域が持ち上がった形でそのままトランスファーされました。

なので、これを聴くと、あまりいい音ではありません。ヒステリックな音なのです。ドミニクがそれを聴くのをとても楽しみにしていたので、私は手許のワークステーションでデジタル的にAMEを逆再生するためのキュー・カーブを作り、納得いくものができるまで、ただひたすら調整に没頭しました。

ファイフ:それは、たいへん素晴らしかったですよ。LPや以前のリマスターCDと比較しても、とても良い音でした。その存在感、ダイナミックレンジの広さ、ディテールの綿密さに驚かされました。興奮してフィリップに電話をかけました。「これだ!よりクリーンな音、より鮮明で、より生き生きとしていて、本当に興奮した!」。自分たちの耳で聴いたことを、今回のプロジェクトでは、そのまま伝えたいと思いました。

サイニー:それで、私は落ち着いて、ドミニクに言っていることが正しいかどうかを考えました。確かに、ずっとずっと良くなっていた。テープは太陽の下での古い写真のようなものです。私の別荘には、太陽の光で色褪せた絵があります。毎年色がどんどん落ち、買い替えなければならなくなります。つまり、AMEカーブの調整とは、経年劣化を補うことだったんですね。

ファイフ:トランスファーの大元のテープは、プロの写真家が撮ったときに記録する、RAWファイルに喩えると良いでしょう。RAWファイルとは、色調補正などの処理を行う前の画像のことです。ですから、トランスファーについて私が言える最も良い喩えは、それは「戦争写真のようなもの」ということです。それがとても優れていたので、ここからイコライゼーション・カーブ、ノイズ除去、テープヒスの低減など、ほとんどゼロから作業を始めることができました。

では、今回はどんなイコライジング・カーブにするのが最良なのか。私達はオリジナルのLP、最初のCD、97年のジミー・ロックのCD、その後のトランスファーもSACDもすべて入手し、すべてを仔細に検討しました。フィリップがリマスターに取り組んでいたときの彼のコンピュータの画面を想像してみてください。これらすべてを並べていたのです。

だから、われわれはいつでも過去にさかのぼって、何が行われていたのかをすぐに聴くことができました。どんな周波数特性にするのか、最終的には私たちの耳で判断し、すべてのバージョンに共通する理想的なイコライジング特性を得ることができました。

ヒスを除去する作業で、注意しなければならないこと

麻倉:そのノイズ除去には、最新のRX9、CEDARレタッチなどの洗練されたツールを使用されたそうですが。確かに以前のバージョンに比べ、ヒスノイズが大幅に減っていることに驚きました。

サイニー:先進的な機器で、ヒスを除去すると、それは同時に音楽信号の高調波(倍音)と高周波を除去することにもつながります。だから非常に、非常に慎重に作業しなければなりません。もともとの音楽信号には、興味深い情報がたくさん含まれているのですが、それはノイズリダクションでとても簡単に失われてしまいます。だから、ヒスノイズ除去はたいへんなのです。時間がかかるんですね。古い家具を修復して、何層にも塗り重ねられたペンキを剥がしながら、その下の木材を傷つけないようにするようなものです。

音楽音とノイズをあるレベルまで下げることの間の微妙なバランスを見つけなければなりません。ノイズが気にならないレベルでありながら、同時に音楽的な内容が削除されないような、絶妙なバランスにする必要があります。今回、いくつかのパッセージでは、まだヒスやバックグラウンドノイズが少し聞こえますが、以前のような大きな音ではありません。

1997年当時、「ディヒス」技術は、かなり粗雑なものでした。当時のCEDARは単体のユニットで、ボックスの前面にノブがひとつあるだけでした。ジミーは、リアルタイムで再生される音楽に合わせて、このつまみを調整しなければならなかったと教えてくれました。彼はかなり苦労したはずです。何度も試行錯誤を繰り返したといいます。

現代では、時間の進行と細かな調整がコンピュータで関連づけられ、いちど覚えさせるとコンピュータが私の動きを記憶しているから、私はじっくりと腰を据えて、微調整するだけです。だから、ジミーよりずっと楽でした。もしジミーがそこに座って見ていたら、とてもうらやましいと思うでしょうね。(後編は続く

第1作目《ラインの黄金》と第2作目《ヴァルキューレ》の国内盤は2023年1月11日に発売。第3作目《ジークフリート》は3月31日、《神々の黄昏》(2023年5月)順次リリースされる予定。

Written By 麻倉怜士


■対談者プロフィール

麻倉怜士 あさくられいじ

オーディオ・ビジュアル/音楽評論家。UAレコード合同会社主宰。日本経済新聞社、プレジデント社(雑誌「プレジデント」副編集長)を経て、独立。津田塾大学では2004年以来、音楽理論、音楽史を教えている。2015年から早稲田大学エクステンションカレッジ講師(音楽)。HIVI、モーストリー・クラシック、PEN、ゲットナビなどの雑誌に音楽、映像、メディア技術に関する記事多数執筆。音楽専門局「ミュージック・バード」では、2つレギュラー番組を持つ。ネットではアスキーネット「麻倉怜士のハイレゾ真剣勝負」、AVウォッチ「麻倉怜士の大閻魔帳」を連載。CD、Blu-ray Discのライナーノーツも多い。

ドミニク・ファイフ(プロデューサー)

 2002年に録音プロデューサーとしてデッカ・クラシックスに入社、2020年1月からレーベル・ディレクターに就任。2003年から指揮者、小澤征爾とサイトウ・キネン・オーケストラのプロデューサーを務め、2015年グラミー賞最優秀オペラ賞(『ラヴェル:歌劇《こどもと魔法》』)、2016年度 第54回「レコード・アカデミー賞」 オペラ部門で大賞を受賞(『バルトーク:歌劇《青ひげ公の城》』)。また、ファイフは17年間、故ネルソン・フレイレのプロデューサーも務め、2013年にはラテン・グラミー賞の最優秀クラシック・アルバム(『ブラジレイロ~ヴィラ=ロボスと仲間たち』)を受賞。2018年にはクラシックのプロデューサーとして初めてロンドンのMBW A&R AwardsでA&R of the Yearの受賞を果たす。

フィリップ・サイニー(エンジニア)

1989年にデッカに入社し、ジミー・ロック、スタン・グドール、ジョン・ダンカーリーといったデッカの伝説的なエンジニアの下で働く。1996年にバランス・エンジニアとなり、シカゴのサー・ゲオルク・ショルティ、モントリオールのシャルル・デュトワ、日本の小澤征爾、ライプツィヒとミラノのリッカルド・シャイー、ウラディーミル・アシュケナージやチェチーリア・バルトリなど著名なデッカ・アーティストのエンジニアを務める。2009年からはフリーランスとして新録音とリマスタリングの両方で功績を残しており、1997年と2012年の《指環》のトランスファーもそのひとつである。


■リリース情報


『ワーグナー:楽劇《ジークフリート』
2023 年 3 月 31 日発売
CD


『ワーグナー:楽劇《ヴァルキューレ》』
2023年1月11日発売
CD / iTunes /Amazon Music / Apple Music / Spotify


『ワーグナー:楽劇《ラインの黄金》』
2023年1月11日発売
CD iTunes /Amazon Music / Apple Music

ウィーン国立歌劇場合唱団
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
指揮:サー・ゲオルグ・ショルティ

▽今後の発売予定
2023 年 5 月発売予定 楽劇《神々の黄昏》
※発売日・商品番号・価格等詳細は決まり次第ご案内いたします。



Share this story

Don't Miss

{"vars":{"account":"UA-90870517-1"},"triggers":{"trackPageview":{"on":"visible","request":"pageview"}}}
モバイルバージョンを終了