アルゲリッチのピアノの完璧で調和のとれた美、心を高揚させる情感の豊かさ、強靭なエネルギーとは

Published on

© Mike Evans

今年80歳を迎える世界的ピアニスト、マルタ・アルゲリッチ。アルゼンチン、ブエノスアイレス生まれで、長きにわたり、人気、実力ともに世界のトップ・ピアニストとして活躍を続けている彼女の魅力とは?音楽ジャーナリストの伊熊よし子さんによる寄稿。


アルゲリッチのピアノは完璧で調和のとれた美、心を高揚させる情感の豊かさ、強靭なエネルギーの奥に限りない官能美が潜む

女性のピアニストにはさまざまなタイプがある。自己の感情をはげしくストレートに鍵盤にぶつけるタイプ、地に足を着けたどっしりとした母性的な演奏をするタイプ、清らかで愛らしいピアノを奏でるタイプ、あくまでも作品に忠実に、作曲家の意図するところに従おうとするタイプなど…。

マルタ・アルゲリッチはこうしたタイプとはひと味異なった個性的なピアニストである。情熱的で直截的、加えて飾らず気負わず自然体。言動はサバサバしているように見えるが、実はとてもこまやかな神経の持ち主で、常に周囲の人に気を配り、不思議な女っぽさを感じさせる。

© Ilse Buhs / DG

音楽も自由奔放で天衣無縫、熱いマグマのような激情が一気にほとばしるもので、共演者に挑みかかるような凄みを見せる。室内楽の共演者が口々に「自分の最大限のよさを引き出され、音楽する最高の喜びが味わえる」と評する所以だ。それは彼女のピアノが内包する完璧で調和のとれた美、心を高揚させる情感の豊かさ、強靭なエネルギーの奥に限りない官能美が潜むからではないだろうか。

アルゲリッチは「恋多き女性」という名誉ある称号を獲得しているように、結婚も何度か、恋人も多数。いつも男性の熱い視線を浴びている。そういう女性は情熱が枯渇することはなく、美しさにさらに磨きがかかっていく。同性から見ると、うらやましい限りである。

アルゲリッチの三女、ステファニーの監督による映画「アルゲリッチ 私こそ音楽!」(2012年、フランス/スイス)には、アルゲリッチがあらゆる問題を抱えながら演奏に向かう様子が描かれ、輝かしいキャリアや演奏風景も挟み込まれていた。映画の主軸は、悩み多きひとりの女性の姿である。

「母は映画を見て、自分の外観、話し方などに違和感を覚えたみたい。複雑な表情をしていたわ。父は逆にこの映画を誇りに思うといってくれた。姉のアニーは感動して泣いたといい、姉のリダは自分が家族の一員であると認知されたように思うと喜んでいた」

映画公開の来日時にインタビューでこう語っていたステファニーは、母親の素顔を映し出した。アルゲリッチはエネルギッシュで情熱的な演奏をする人だが、性格は多分にシャイで本番前には常に緊張し、完璧なる演奏をしなければと恐怖感すら抱く。

© Ilse Buhs / DG

その精神の葛藤も描かれ、偉大な音楽家の心の奥に潜む深い苦悩が浮かび上がる。これまでアルゲリッチは取材やインタビューにはほとんど応じない姿勢をとり、音楽以外の顔はほとんど知られていなかった。それゆえ、実の娘ならではのこうした素顔への肉薄は貴重である。

彼女は演奏だけで自己を表現する。映画は自身の感情を持て余すアルゲリッチの姿が映し出され、日々さまざまなことに悩み、家族の間で心が揺れ動いていく。「真の天才」と呼ばれるアルゲリッチの素顔は傷つきやすく、常に本音を語る。生き方も音楽も率直。そのストレートな生きざまが映像から伝わり、観る人に各々の人生を考えさせる。

アルゲリッチのピアノを聴くとき、完璧なるテクニックと深い表現力と音楽性に魅せられるが、それらは実に自然で努力の痕跡がまったく感じられないことに驚く。本能で弾いている、自分の気持ちの赴くままに弾いているというナチュラルなピアニズムが、聴き手の心にえもいわれぬ幸福感をもたらし、本物だけがもつ圧倒的な存在感が光を放っている。

それゆえいつもアルゲリッチの演奏を聴くと、本物の絵画や壁画や彫刻を目の前にしたときと同様の感動が心の奥に湧いてくるのを感じる。実際に本物を見たときに、動けなくなるほどの深い感動を味わう。それと同様の思いがアルゲリッチのピアノには存在する。

真の芸術に接すると、人はそれに感動する自分の気持ちに気づき、自己の発見に心を揺さぶられる。ああ、自分はこんなにも感性が豊かだったのだと、改めて気づく。アルゲリッチのピアノはそうした気持ちを喚起する。

アルゲリッチのピアノは長年聴き続けているが、成熟とか安定とか落ち着きということばとは縁遠い。常に進化し、前向きで、高みを目指してひたすら飛翔していく。リズムは鋭角で勢いに満ち、打鍵は深く濃厚、速いパッセージは限りなく速く、ジャングルを駆け巡る雌豹のような怖さと威厳をもつ。そしてえもいわれぬ妖艶な味わいが全編を覆う。

アルゲリッチは完全な夜型で、親しい音楽仲間と夜を徹して飲み明かしたり、語り合ったりすることを好む。そうした場では、得意の料理の腕を披露することもしばしば。親友のミッシャ・マイスキーやネルソン・フレイレによれば、「ものすごくおいしい」とのこと。

そんなアルゲリッチの演奏は、聴き手を瞬時に異次元の世界へと運んでしまう稀有なピアニズム。日常を離脱し、天上の世界で音楽に酔いしれる、まさに至福のときを与えてくれる音楽である。その完璧なる美の世界を生み出すために彼女は日々苦悩し、本番前にはナーバスになり、舞台から逃避したくなるほどの緊張感を味わう。そのすべてがステージでさらけ出されるわけである。

本番でのアルゲリッチは、情熱的で力強く、圧倒的な存在感をピアノで示す。だが、映画でステファニーが描き出した彼女は、ひとりの人間としての弱さや迷いや不安を抱えている。そんなアルゲリッチの繊細さ、情感の豊かさ、緊迫感などが音楽を形成していることに改めて気づき、聴き方が変わる。

近年、彼女は若手音楽家を支援したり発掘することに喜びを見出し、国際コンクールの審査員なども積極的に引き受けている。毎年開催される「別府アルゲリッチ音楽祭」でも日本の若手演奏家と共演し、その可能性を引き出すことにひと役買っている。

思い出すのは、2011年の音楽祭でのこと。最終日にあたる5月19日の「チェンバーオーケストラ・コンサート」では、ユーリー・バシュメット指揮モスクワ・ソロイスツ合奏団選抜メンバー&桐朋学園オーケストラとの共演によるアルゲリッチのショパンのピアノ協奏曲第1番(弦楽合奏版)が演奏されたが、疾風怒濤のようなことばではいい尽くせないほどの勢いと、特有のひらめきと、すばらしく創意に富んだピアノに心が高揚し、ショパンの新たな魅力に開眼する思いを抱いた。

会場は感極まり、終演後にはアルゲリッチの6月5日の70歳の誕生日を祝う早めの祝福の歌が響いた。この夜、アルゲリッチを囲んで懇親会が催されたが、彼女はそこで珍しくスピーチを行った。

「とても深く愛に満ちた美しいひとときを過ごすことができました。心からの感謝にたえません。私自身、みなさまとともにこの別府をミーティングポイントとする大きな輪のなかのひとりでいられることをこの上なく幸せに感じています。そして日本の地震の犠牲となられた方々のため、私にできることはなんでもいたします。私は日本の状況をとても憂い、とても気にかけています。ニュースをずっと見ていますが、日本のみなさまの計り知れない痛みと、それに耐える勇気を感じ、深い愛と尊敬の念を抱かずにはいられません」

そのことばには率直で温かな気持ちが込められ、居合わせた全員が深い感動を得た。ここに登場したベスト盤は、そんなアルゲリッチの豊かな人間性があますところなく凝縮。ソロもコンチェルトも唯一無二の貴重な演奏で、ひととき異次元の世界へと飛翔し、えもいわれぬ至福の時を味わうことができる。

Written By 伊熊よし子

■公演情報

別府アルゲリッチ音楽祭

5月14日(金) アルゲリッチとマイスキー 至高のデュオ(東京オペラシティ コンサートホール)

5月16日(日) アルゲリッチとマイスキー 至高のデュオ(別府市ビーコンプラザ フィルハーモニアホール)

5月21日(金)ピノキオコンサート〜未来と出会うために(大分市平和市民公園能楽堂)

5月22日(土) 室内楽コンサート〜80歳を祝して(大分市iichiko総合文化センター・iichikoグランシアタ)

▼詳細はこちら

https://www.argerich-mf.jp/


■リリース情報

マルタ・アルゲリッチ 『ベスト』
2021年4月28日発売
CD / iTunesApple Music / Spotify




 

Share this story

Don't Miss

{"vars":{"account":"UA-90870517-1"},"triggers":{"trackPageview":{"on":"visible","request":"pageview"}}}
モバイルバージョンを終了