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聴くべきSTAXレーベルのヴォーカル・グループTOP11

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ソウル・ファンであれば、それほどいれ上げていない人でも、スタックス・レコードと言えば胆力があり、素朴なメンフィス・サウンドを思い起こすことだろう。この音楽は60年代から70年代初期、オーティス・レディングやジョニー・テイラー、アイザック・ヘイズ、ルーファス・トーマスといった面々によって火が付き、そのヒット曲は80年代と90年代、『ザ・ブルース・ブラザーズ』や『ザ・コミットメンツ』といった映画のヒットの牽引役となった。だが、オーティス・レディングやカーラ・トーマス、ウィリアム・ベルらのソウルの独演者たちが、このレーベルの成功においては不可欠な布石であった一方で、スタックスと傘下のレーベルは、聴く人を踊らせ、また歌い手に完璧に感情移入させるような、心揺さぶる洗練されたレコードを次々に世に送り出してきた。60年代から70年代には、若く才能ある黒人ミュージシャンであることの素晴らしさを謳歌する、時代が誇るこの上なく偉大なヴォーカル・グループを何組も輩出している。ここでは通常のトップ10よりもうひとつおまけに、是非聴いていただきたいスタックス・レコードのトップ11をお届けしよう。


◇ステイプル・シンガーズ
シンガー兼ギタリストのローバック・“ポップス”ステイプルズに率いられたファミリー・カルテットであり、彼の子供たちであるメイヴィス、クレオサ、パーヴィス、そしてイヴォンヌ(これでは合計5人となるが、パーヴィスとイヴォンヌは2度交代している)をフィーチャーしたステイプル・シンガーズは、スタックスの社会的良心だった。他の60年代後期から70年代のヴォーカル・グループたちと比べると、彼らのサウンドは一際泥臭く粗削りだった。ゴスペルからソロに転向する歌い手は多かったが、ヴォーカル・グループが丸ごとスピリチュアルから商業音楽に宗旨替えするケースはまだまだ少なかった時代である。ステイプルズ・シンガーズは決して教会を離れることはなかった。彼らはそのフィーリングをそのままソウル・アリーナに持ち込み、幾つも大ヒットを飛ばして、彼らの時代のアフリカ系アメリカ人の日常の変わりようをそのまま投影する存在となったのである。

グループがレコーディング活動を始めたのは1950年代のことで、ヴィージェイ、ユナイテッド、チェッカーといったレーベルで次々に優れた楽曲を制作した。ゴスペルとフォークをブレンドした彼らのスタイルは、公民権運動真っ盛りの時代に人気を博し、「Uncloudy Day」のような曲はアンダーグラウンドで大いに愛聴された。ステイプル・シンガーズが68年にスタックスと契約したのを境に‘セルアウトした’とはよく言われる話だが、実のところ彼らは67年の時点で既に、ハードなグルーヴを効かせたスティーヴン・スティルスのカヴァー曲「For What It’s Worth」で、そのファンキー・ポップな才能を既にお披露目していたのである。

彼らのスタックスでのデビュー・アルバム『Soul Folk In Action』は、幅広いファンを取り込むためにあえて多義的に解釈できるタイトルが付けられ、「The Weight」や「(Sittin’ On) The Dock Of The Bay」といったカヴァー曲に加えて、政治色の濃い「Long Walk To DC」なども収められた。ステイプル・シンガーズが本格的にそのスタイルを確立したのは71年の『The Staple Swingers』で、ここには「Heavy Makes You Happy (Sha-Na-Boom-Boom)」や 「Give A Hand – Take A Hand」といった、聴く者を力強く鼓舞するような曲が幾つも入っている。リードを取るメイヴィス・ステイプルズの声は説得力に満ちていると同時に、彼女自身が意図するまでもない自然なセクシーさが備わっていた。この同じ年に出た『Be Altitude: Respect Yourself 』は更に聴きどころが多いアルバムで、「I’ll Take You There」や「Respect Yourself」といった心の奥底から揺さぶられるようなパフォーマンスがぎっしりつまっている。軽快なレゲエのリズムに乗った彼女たちのアンセム「If You’re Ready (Come Go With Me)」がフィーチャーされた『Be What You Are』(1973年)も負けず劣らずの傑作である。スタックス帝国が70年代半ばに崩壊した後も、グループは活躍を続け、1985年にはトーキング・ヘッズの「Life During Wartime」の見事なカヴァーをヒットさせた。彼らはゴスペルをそれまでなかったような領域まで持って行き、更にやることなすことすべてにルーツ・ミュージック的なフィーリングを加えたのである。

オススメトラック: 「Respect Yourself」 (1972年)

◇ドラマティックス
ドラマティックスはデトロイトが生んだ極上のヴォーカル・クインテット、彼らには足りない要素がひとつもなかった。彼らはスリリングな曲から思わず指を鳴らしたくなるようなナンバーまで幅広いレンジの曲を、1968年にスタックスでジョニー・テイラーの大ヒット曲「Who’s Making Love」を手掛けたプロデューサーのドン・デイヴィスと共に、彼らの故郷にあるユナイテッド・サウンドで多数レコーディングした。スタックスが南部でレコーディングを行なわないグループと契約を交わすのはいささか珍しいことだったが、ドラマティックスがソウル全盛期の他のどのグループともハッキリと違っていたのは、彼らのライヴ・パフォーマンスだった。彼らはまさにその名にふさわしく、持ち曲を優雅に、かつダイナミックに演じ分けた(実を言えば彼らの元々のグループ名はザ・ダイナミックスだった)。幸いなことに、彼らの音楽にはそれに堪えるだけのパワフルさがあったのだ。

彼らは地元のレーベルで数枚のレコードを出した後、1968年にスタックスと契約を結んだ。スタートこそ若干危なげだったが、71年、立て続けに名曲ばかりのシングルを出したことで、グループの活動は一気に軌道に乗った。皮切りになったのは「Whatcha See Is Whatcha Get」で、ファンキーなラテン・フレイヴァーの利いたビートの上に、リーダーでファルセット・シンガーのロン・バンクスと、リード・ヴォーカルのウィー・ジー・ハワードの激しいシャウトは、絶妙なコントラストをもたらしていた。「Get Up And Get Down」では彼らがもっとタフなファンク・ナンバーも難なくこなすところを見せ、更に次の「In The Rain」は彼らのトレードマーク的な曲となった。これらの曲がすべて収められたデビューLP『Whatcha See Is Whatcha Get』は、後にクーリオからパブリック・エネミーまで、あらゆるアーティストたちにブレイクのきっかけを与えるサンプリングの元ネタ・アルバムとなった。

1972年の『A Dramatic Experience』は「The Devil Is Dope」、「Jim, What’s Wrong With Him」、「Hey You! Get Off My Mountain」といった感情に訴える曲を多く収録し、彼らが評価されるべきグループであることを証明し、1975年に出したビリー・ポールのカヴァー「Me And Mrs Jones」では予想以上に卓越したソウル・ヴォーカルの手本を示した。残念なことに、数々の不和とメンバー・チェンジが災いしてグループとしては伸び悩んだものの、後年加入したメンバーのひとり、L.J.レイノルズは後にソロで多少の名を挙げた。メンバーたちの死や分裂騒動に加え、数々のクローン・グループたちがツアーに出るようになる中で、ザ・ドラマティックスは今も活動を続けていて、1994年にはスヌープ・ドッグの 「Doggy Dogg World」に参加したりしており、 ツアー・アクトとしても現役バリバリだ。

♪オススメトラック: 「In The Rain」 (1972)

◇マッド・ラッズ
メンフィスのマッド・ラッズがスタックス/ヴォルトと契約を交わしたのは1964年、彼らがハイスクールを出て間もなくのことで、乱暴で騒がしい様子からその名を思いついたのは、スタックス数十年来のヴェテラン社員で、会社にとっては礎のような存在のディーニー・パーカーである。マッド・ラッズのデビュー・シングル 「The Sidewalk Surf」はサーフ・ミュージック・ブームの波に乗ることを狙ったストンプ調のダンス・ミュージックだった。幸いにもこの曲は全く売れなかったので、次の美しいレトロなドゥーワップ・ナンバー 「Don’t Have To Shop Around」をリリースした際にも支障にはならず、彼らはこちらで最初のチャート・ヒットを手に入れた。「I Want Someone」、 「Patch My Heart」、 「So Nice」に 「Whatever Hurts You」 といった曲で、彼らは69年のR&Bチャートをずっと賑わせ続け、ジミー・ウェッブの 「By The Time I Get To Phoenix」 のソウルフルなカヴァーは、下位ではあったが全米シングル・チャートに食い込んだ。ヴェトナム戦争による徴兵のためにメンバー・チェンジを強いられながらも、グループは活動を続け、60年代のスタックスで、コメディ映画をもじったタイトルの69年の『The Mad, Mad, Mad, Mad, Mad Lads』を含む3枚のアルバムをリリースしている。ちなみに1990年、再興成ったスタックスでカムバック・アルバムを出した時も、タイトルはかつてと同じウィットを感じさせる『Madder Than Ever』だった。

オススメトラック: 「Don’t Have To Shop Around」 (1965)

◇オリー&ザ・ナイチンゲールズ
ディキシー・ナイチンゲールズは南部においてはヴェテランの大物ゴスペル・グループで、50年代後半から60年代初期にかけて数え切れないほどのレコードを出し、うっとりと聴き入るオーディエンスの前に神を降臨させていたものだった。だが1968年、スタックス傘下のゴスペル・レーベルであるチャリースで彼らに3枚のシングルを出させたアル・ベルが、彼らを説得して“還俗する(=商業目的のレコードを出す)”ことを承諾させ、メンバーのひとりがそれを理由に脱退した。リーダーのオリー・ホスキンスはグループ名をオリー&ザ・ナイチンゲールズと改め、彼らはパワフルな「I Got A Sure Thing」 でソウル・チャートを沸かせ、翌年には「You’re Leaving Me」も中ヒットとなる。 彼らが最後にチャートを賑わせたのは1969年の「I’ve Got A Feeling」で、その年にリリースされた、グループ名をそのまま冠した彼ら唯一のアルバムは、まるでゴスペル・レコードに見せようとしているかのようなジャケットになっている(ただし若干の俗っぽさは感じさせるが)。オリー・ホスキンスは1970年にグループを辞めたが、残ったメンバーたちはザ・ナイチンゲールズとして活動を続け、トミー・テイトを加えて3枚のシングルをリリースした。トミー・テイトは後にディープ・ソウルのシンガーとして一目置かれる存在となった。

オススメトラック: 「I Got A Sure Thing」(1968)

◇テンプリーズ
元々はザ・ラヴメンとしてスタートしたテンプリーズにとって、スタックスは身近な地元のレコード会社だった。力強いファルセットのジャボ・フィリップスは学生時代にデル・カルヴィンとスコッティ・スコットに出逢い、ラリー・ドッドソンとつるむようになった。ラリー・ドッドソンはレーベルのハウス・バンド、ザ・バーケイズが、オーティス・レディングとのツアー中に起こった悲劇的な事故(*訳注:飛行機事故)で大部分のメンバーたちを喪った後、再結成された後の主要メンバーのひとりである。彼らはごく自然な流れでスタックス傘下のレーベル、ウィ・プロデュース(We Produce)に加わり、かつて名乗っていたグループ名をもじった『Loveman』を含む3枚の素晴らしいアルバムを出した。彼ら最大のヒットは「Dedicated To The One I Love」(1973年)の瑞々しいカヴァーで、次いでエタ・ジェームスのヒット曲「At Last」のガヴァーも高い評価を受けた。

彼らの音楽はスタックスの代名詞として知られる骨太なメンフィス・グルーヴと言うよりも、より一般層向けのフィリー・サウンドに対抗すべく作り込まれた、聴き心地よく洗練されたソウル・ミュージックだった。70年代半ばにレーベルが倒産すると、テンプリーズはエピックに移籍したが、1976年にいかにもありがちな「I Found Love On The Disco Floor」が小ヒットになった程度だった。

オススメトラック: 「Dedicated To The One I Love」(1973)

◇エプシロンズ
70年代初期、スタックスの一部のアーティストたちが苦難を味わったことは疑いの余地のない事実である:レーベルのカラーとも言うべきアーシーなスタイルが、フィリー・インターナショナルのような大衆受けするサウンドに比べて野暮ったく映った部分があったのだ。もしも68年の時点でレーベルがもっと大衆受けを狙っていたとしたら、世間の風潮に日和って、自分たちの手元にいたフィラデルフィア出身のヴォーカル・アクト、ジ・イプシロンズにしがみついていたかも知れない。アルファベットのギリシャ文字表記5番目に当たる記号をグループ名に頂いた彼らは、白いパンツとロール・ネックのトップスをお洒落に着こなし、華麗なダンス・アクションが売りの、洗練されていながらパワフルなグループだった。彼らはオーティス・レディングとツアーを回り、彼がアーサー・コンリーのためにプロデュースしたヒット曲「Sweet Soul Music」でもバッキング・ヴォーカルを務めた。

彼らにとってスタックス在籍時唯一のシングル 「The Echo」はフィリー・ソウル的には完璧で、鳴り響くヴィブラフォンと、地元のレジェンドであるボビー・マーティンによる、当時盛んにヒットを飛ばしていたデルフォニックスばりのスウィートなアレンジメントが際立っていた。悲しいことに、このレコードは鳴かず飛ばずに終わったが、メンバーたちの多くはここから更に名を挙げた:ジーン・マクファーデンとジョン・ホワイトヘッドはオージェイズのために 「Backstabbers」を書き、他にもジ・イントゥルーダーズやアーチー・ベル&ザ・ドレルズに多くのヒット曲を提供した上、彼ら自身のアンセム 「Ain’t No Stoppin’ Us Now」を生み出した;ロイド・パークスはハロルド・メルヴィン&ザ・ブルーノーツがヒットを連発していた時代のメンバーである。

オススメトラック: 「The Echo」 (1968)

◇ソウル・チルドレン
1968年頃、アイザック・ヘイズがメンフィス周辺で下積み生活を送っていたシンガーたちを集めて結成したソウル・チルドレンは、男性2人に女性2人という、この手のグループとしては珍しい編成だった。彼らはすぐに「Give ’Em Love」 でR&Bチャートに食い込み、更に「Take Up The Slack」 や 「Tighten Up My Thang」といったナンバーで、当時のその他大勢のヴォーカル・アクトと比べてよりルーツ・ミュージック色濃い、ファンキーな持ち味を徐々に発揮していった。69年には彼らとしてはジェントルな 「The Sweeter He Is」が全米チャートで 52位を記録し、翌年に出したサム&デイヴの「Hold On, I’m Comin’」の骨太なカヴァーも同程度のヒットになった。グループのメンバー2人、ジョン・コルバートとノーマン・ウェストのペンによる 「Hearsay」は、1972年に44位まで上昇する。それを上回るヒットとなったのが、シェルブラ・ベネットをフロントに押し出した 「I’ll Be The Other Woman」だった。本来であれば更に大きな成功を掴めるだけのポテンシャルを持ちながら、時に男性がリード、時に女性がリードを取るラインナップは、ソウル・チルドレンにはいささか不利に働いたと見える:保守的なオーディエンスが、それを彼らのアイデンティティとして丸ごと受け止めるのは容易ではなかったのだろう。グループは1979年に解散を発表する;ジョン・コルバートはその後ソロとなり、J.ブラックフットの名で、1984年に美しいディープ・ソウル・ナンバー 「Taxi」をヒットさせた。

オススメトラック: 「Hearsay」 (1972)

◇エモーションズ
エモーションズは60年代から70年代への切り替わりの時期に、ひときわ燦然と輝きを放っていた女性ヴォーカル・アクトのひとつで、魂を揺さぶり、涙を誘う高度なヴォーカルのパイロテクニックを次々に連発していたグループである。シカゴ出身のシーラ、ワンダ、ジャネット・ハッチンソン姉妹は、ザ・ハッチンソン・ステレオやザ・ハッチンソン・サンビームスといったパッとしない名前で何枚も売れないシングルを出していたが、1969年にスタックスが彼女たちを発掘し、エモーションズの名前で売り出すと、 「So I Can Love You」はたちまち耳目を集め、R&Bチャートでヒットを記録した。アイザック・ヘイズは当時既にソロとして大成功していたにも拘わらず、彼女たちがヴォルトからリリースした「Black Christmas」、「Show Me How」 、そして魅惑的な 「My Honey And Me」等を含む17枚のシングルのレコーディングに参加していた。同レーベルから出た『So I Can Love You』(1969年)と『Untouched』(‘72年)は期待したほどの売り上げはなかったものの、グループはその後大成功を掴む。彼女たちのアース、ウィンド&ファイアー(以下EWF)とのシカゴ・コネクションがコロンビア・レーベルとの契約に繋がり、アルバム『Flowers』を経て、EWFのモーリス・ホワイトのペンとプロデュースによるブラスの効いた世界的なディスコ・ヒット 「Best Of My Love」を手に入れたのである。グループは1977年に復活したスタックスと再契約を交わして名作『Sunshine』をリリースした。このアルバムには1961年にカーラ・トーマスがスタックスでヒットさせた「Gee Whiz (Look At His Eyes)」のカヴァーが収録されている。

オススメトラック: 「My Honey And Me」(1972)

◇スウィート・インスピレーションズ
スウィート・インスピレーションズはバッキング・シンガーたちの間では有名だった――いささか矛盾のように聴こえるかも知れないが。シシー・ヒューストン(ホイットニーの母)をリーダーに、グループのラインナップは従姉のディオンヌとディーディー・ワーウィック、R&Bスターのドリス・トロイ、そしてスタックス所属ヴォーカリストのジュディ・クレイの妹であるシルヴィア・シェムウェルという顔ぶれだった。メンバーたちがソロとして巣立ってゆくと、ラインナップはシシー・ヒューストン、シルヴィア・シェムウェル、エステル・ブラウンにマーナ・スミスに落ち着き、グループはアレサ・フランクリンからヴァン・モリスン、エルヴィス・プレスリーに至るまで、ありとあらゆる人々のバッキングを担当した。彼女たちはアトランティック・レーベルで5枚のアルバムを出し、中でも最大のヒットは、アレサ・フランクリン在籍時のマテリアルを彷彿とさせる、その名も――ご明察――1968年の 「Sweet Inspiration」だった。シシー・ヒューストンは1969年にグループを脱退しソロに転向する。グループは1973年にスタックスと契約を交わし、イキのいいシングル「Slipped And Tripped」をフィーチュアした同レーベルで唯一のアルバム『Estelle, Myrna & Sylvia』を出したものの、思うような評価は得られなかった。グループは現在もエステル・ブラウンに率いられ、現役で活動中である。

オススメトラック: 「Slipped And Tripped」(1973)

◇チャーメルズ
チャーメルズを知る人は決して多くないはずだ。メンバーのうち2名、メアリー・ハントとミルドレッド・プラッチャーにとっては、自分たちがレコーディングに参加してもいないヒット・シングルをフィーチャーしたツアーで歌わなければならず、キャリアの上ではある意味後退を意味していたことだろう。だが、これもソウルの世界で時として起こる興味深い巡り会わせのひとつと言うべきか、彼女たちの音楽は、どんな風に生み出されたのかも知らない未来の世代の若者たちの耳に届き、大いに愛されることとなったのである。

メアリー・ハント、ミルドレッド・プラッチャー、シャーリー・トーマスの3人はメンフィス出身で、元々はザ・トーネッツ(The Tonettes)と名乗り、1962年にスタックスのヴォルト・レーベルから 「No Tears」と 「Teardrop Sea」という2枚のシングルを出していたが、セールスははかばかしくなかった。翌年、ナッシュヴィルのレーベルであるサウンド・ステージ7が、白人セッション・シンガーたちに歌わせたソウル・ナンバー 「(Down At) Papa Joe’s」でヒットを記録する。この曲をツアーで歌う黒人グループが必要となり、レーベルはザ・トーネッツをザ・ディキシーベルズと改名させて雇うことにした。やがてシャーリー・トーマスはグループを去り、メアリー・ハントとミルドレッド・プラッチャーは66年にスタックスに復帰する。プロデューサーのアイザック・ヘイズは彼女たちをユーラ・ジーン・リヴァースとバーバラ・マッコイと一緒に組ませることにし、4人はザ・チャーメルズとして4枚のシングルをリリースした。

ヒット曲こそなかったものの、彼女たちには彼女たちの魅力があった[訳注:魅力のcharmとグループ名のCharmelsをかけている]。 「Please Uncle Sam (Send Back My Man)」は当時の現実社会を下敷きにしたロマンティックな物語である――アメリカはヴェトナム戦争の泥沼の只中にいたのだ。「As Long As I’ve Got You」はまるでバート・バカラックがディオンヌ・ワーウィックのスーパヴァイザーからスタックスに乗り換えたかのような、美しくムーディなレコードだ。だが、1968年に契約は打ち切られ、グループは解散し、熱心なソウル愛好家以外にその存在を思い出す者もいなくなってしまった。そんな時、その愛好家のひとりであるウータン・クランのRZAが、1993年に「As Long As I’ve Got You」をサンプリングしてヒップホップ・アンセム「C.R.E.A.M」を作り上げ、新たな世代に提供したのである。チャーメルズは彼女たちに十分に商業的価値があったことを証明したのだった――26年遅かったけれど。

オススメトラック: 「As Long As I’ve Got You」(1967)

◇グッディーズ
昔ながらの白人ガールズ・グループ・サウンドが1969年には死に絶えていたとしても、メンフィス出身の3人組、ザ・グッディーズはそのことを知る由もなかったのだから、きっとシャングリラにでも拠点を置いていたのだろう。確かに、彼女たちの小ヒット 「Condition Red」は、 「Leader Of The Pack」の弱っちい妹分といった趣ではある。スタックスのヒップ・レーベルと契約を交わしたケイ・エヴァンス、サンドラ・ジャクソン、ジュディ・ウィリアムスの3人が一緒に歌い始めたのはハイスクールの時で、’67年には優勝すればスタックスのオーディションが受けられるというタレントショーで見事1位に輝いた。レーベルはプロデューサーにドン・デイヴィスを任命し、彼は「Condition Red」を共作すると共に、在籍時唯一のLP『Candy Coated Goodees』 (1969年)を手掛けた。アルバムには彼女たちが教会で花婿の不在を嘆く 「Jilted」や、へとへとになりながらも一度ではとても満足できない男を自慢する 「Double Shot」といった曲が収録されている。グループは間もなく人々の記憶から消え去ったが、サンドラ・ジャクソンは現在もスタックス時代に愛着を持っているようで、レーベルのオンライン・アーカイヴ担当者として働いている。

オススメトラック: 「Double Shot」 (1969)

♪プレイリスト『Stax Classics』:Spotify

Written By Ian McCann


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1957年にメンフィスで設立されて以来、数多くのソウル・アーティストを輩出してきたアメリカを代表するSTAX。レーベルの設立60周年を記念して、STAXを代表する名盤を一挙再発!素敵なグッズがあたるキャンペーンも実施中!

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