U2を筆頭とする80年代アリーナ・ロックのムーヴメントを率いた“ビッグ・ミュージック”のバンド達

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U2 - Photo: Ross Marino/Getty Images

I have heard the big music and I’ll never be the same 
ビッグ・ミュージックを聴いたあとは、かつての自分にはもう決して戻れない

ウォーターボーイズの1984年の曲「The Big Music」の中で、マイク・スコットはそう歌っていた。そのバックでは、耳障りな音を立てるサックス、大砲のように打ち付けるビート、ほとんど教会音楽のような荘厳なピアノ、泣き叫ぶような女性バック・ヴォーカルが鳴り響いている。

彼の好みを踏まえると、この歌詞が何かスピリチュアルなものの隠喩だった可能性は高い。とはいえ信奉者たちは、この“ビッグ・ミュージック”、または“ビッグ・サウンド”というフレーズを1980年代中期のある種のバンドを緩やかにまとめる総称として使うようになった。この言葉で言い表されていたのは、壮大な雰囲気を持ち、スケールの大きいロックの救済の力を臆面もなく信じるような者たち ―― U2、シンプル・マインズ、ビッグ・カントリー、ジ・アラームといったバンドだった。

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U2の登場

ニュー・ウェイヴ、ポスト・パンクの時代が幕を開けたころ、クールなキッズは“アンセム”を忌み嫌い、“生真面目さ”を忌み嫌っていた。これらはベビーブーム世代のロックの恥ずべき遺物とみなされていたのだ。とはいえパンクに詳しい若者の中のごく一部は、クラシック・ロック的な主義主張とパンク的な激しい活動態度を誇らしげに融合させていた。

早くからそうした姿勢を取っていたのがU2である。10代のころ、彼らはスティッフ・リトル・フィンガーズやジョイ・ディヴィジョンに影響を受けていたが、ボブ・ディランやアイルランドのブルース・ロック・ミュージシャン、ロリー・ギャラガーにも同じくらい 魅力を感じていた。

1980年代が終わる前に、彼らはザ・ビートルズのレパートリーをカヴァーし、さらにはジミ・ヘンドリックスの霊媒であるかのような演奏を披露していた。デビュー・アルバム『Boy』を発表した1980年10月の時点では、ボノ以外のメンバーはまだティーンエイジャーだった。

このダブリン出身の少年たちは、かつてのマッチョなアリーナ・ロッカーに代わる存在だった。とはいえ決定的に重要なことがあった。彼らは、超然としたポスト・パンクのクールさという考えをすべて投げ捨ててもいいという姿勢の持ち主だった。その代わりに、精神的な面での動機を持ち、政治的な力を備え、メッセージを前面に打ち出すという新鮮な種類のロックをやろうとしていた。それゆえに、U2というバンドはデビュー当初から注目を集めることになったのだ。

彼らのサウンドは1980年代中期により壮大なものに変わっていった。しかしながら『Boy』のオープニング・トラック「I Will Follow」の時点で既に基本的な音作りはできあがっていた。それは、ワイド・スクリーンの映像を聴き手の心の中に描き出すような音作りだった。ボノの明快に呼びかけるヴォーカル、ジ・エッジのリヴァーブの効いた揺るぎのないリフ、ラリー・ミューレンの疾走感あふれるビートがそうしたサウンドを展開させていたのである。

 

重要なバンドたちの登場

このような壮大なスケールの音を構築する上でカギとなったのは、プロデューサーを務めたスティーヴ・リリーホワイトのヴィジョンだった。この直前に彼は、1980年代のロックに革命を起こしたピーター・ガブリエルのサード・アルバムでプロデュースを担当し、フィル・コリンズと組んで見事なゲート・リバーブ・サウンドを作り上げていた。そしてビッグ・サウンドの代表的な名盤でリリーホワイトの名前を見かけるのは、『Boy』が最後ではなかった。

1983年の夏の時点では、このサブジャンルにはまだ名前がついていなかった。とはいえ、この時期には、重要なレコードが次々に発表され、サウンドの進化という面で大きな役割を果たした。つまり6月から7月にかけて、ビッグ・カントリー、ザ・ウォーターボーイズ、そしてジ・アラームが最初のレコードを発表したのである。

ジ・アラームのEP『The Alarm』は、あたかも別の世界でビリー・ブラッグがザ・クラッシュのフロントマンになったかのような作品だった。一方ウォーターボーイズの『The Waterboys』とビッグ・カントリーの『The Crossing』は、どちらもインスピレーションに満ちた叫び声を生み出すスコットランドならではの才能を浮き彫りにしていた。

 

ビッグ・カントリー

ビッグ・カントリーのフロントマン、スチュアート・アダムソンは、それ以前にザ・スキッズというバンドでアート指向の好戦的なポスト・パンクを演奏していた。そうした前歴のおかげで、『The Crossing』は拳を突き上げるような雰囲気に仕上がっている。とはいえアダムソンとブルース・ワトソンのバグパイプのようなギター・サウンドは過去に例のないもので、このバンドならではの領域を切り拓いていた。

このアルバムのヒット曲「In a Big Country」と「Fields of Fire」はケルト風味の情熱的なロックであり、チャートで人気を集めた。そこには、ニュー・ウェイヴ的な親しみやすさと、すぐにでもアリーナの大ステージに進出できそうな要素が同居していた。驚くまでもないことだが、このアルバムに生命を吹き込んだ黒幕はスティーヴ・リリーホワイトだった。

 

ウォーターボーイズ

このサブジャンルの中で最も気まぐれなバンド、ウォーターボーイズは、ヴァン・モリソンのような神秘的な側面をもつと同時に、ポスト・パンク的な衝動性も兼ね備えており、時おりネオ・サイケデリック的な渦巻くようなサウンドも聞かせていた。そしてマイク・スコットの怒りに燃えた詩的な黙想に、アンソニー・シスルスウェイトの騒々しいサックスがある種の雰囲気を付け加えている。

最初から彼らの音楽には情感があふれていた。さらに1984年のセカンド・アルバム『A Pagan Place』からはキーボード・プレイヤーのカール・ウォリンジャーが新たに参加し、そのおかげでさらに大きな世界が描かれることになった。

 

シンプル・マインズ

シンプル・マインズは、1984年に『Sparkle in the Rain』でシンセ・ポップ/ニューロマンティックのさなぎから抜け出し、新たな姿に生まれ変わった。初期の楽曲に堂々たる面がなかったわけではないが、「Up on the Catwalk」や「Waterfront」のような曲は、マインズが世界征服に乗り出したことを示す楽曲だった。

これらの曲で鳴り響く巨大な轟音のドラムスと神聖な雰囲気のキーボード・フレーズを聞くと、人はどこへでもついて行きたくなる。そして、このバンドをロック・スターの座へと導いたプロデューサーが誰なのか、想像がつくだろうか? 誰あろう、スティーヴ・リリーホワイトその人である。

 

ジ・アラーム

この年の後半、U2は新たなプロデューサー・チームと組み、さらに大きなものを得ることになる。ブライアン・イーノ&ダニエル・ラノワの電子音楽方面における専門知識は、『The Unforgettable Fire』で大きな助けとなった。こうして「Pride  (In the Name of Love)」や「Bad」と言った曲はきらびやかな天空の城となり、その巨大で明るい光は地球上のどこからでも崇め奉ることができた。

一方、ジ・アラームは、その前の年にU2のツアーでオープニング・アクトを務めていた。1984年の『Declaration』で、彼らはストリート・レベルで負け犬を代弁する最高の扇動者たちとなった。「The Stand」「Blaze of Glory」「Sixty Eight Guns」といった曲を聴いても正義の拳を振り上げたくないという人は、おそらく医療機関で緊急の手術が必要だろう。

当時、ジ・アラームについての記事を雑誌Creemで執筆したシルヴィー・シモンズは、次のように問いかけた。

「こうした流れについては、さまざまな呼び名が押し付けられている。たとえばニュー・ホープ・ムーヴメント、ニュー・ヤング・ギター・リヴァイヴァル、ニュー・フォーク、ニュー・エナジーといった具合だ。呼び名はどうあれ、彼らは単に昔からいるヒッピーの群れがファッション意識を高めただけなのだろうか?」

とはいえ最終的には、シモンズは次のように判断している。

「こうした曲は、聴く者が踏み鳴らしたくなるビートと、聴く者が信じたくなる言葉でできている……。自分たちのやっていることに深い信念を持っている人たちには何かがある。その旅路に (少なくとも部分的に) ついていかずにはいられない」

その翌年、ジ・アラームは『Strength』で激しさを維持しつつ、サウンドを新たなレベルにまで洗練させた。「Walk Forever By My Side」には艶のあるブラス・アレンジを施し、「Spirit of ’76」にはブルース・スプリングスティーン風の要素を加え、そしてアルバムのタイトル曲では過去最高に説得力のある思いやりのメッセージを歌い上げていた。

 

同じころ、ウォーターボーイズは大作『This is the Sea』を発表している。ここでマイク・スコットはロック界のセシル・B・デミルという役割を引き受けており、このバンドの歴史の中で最大規模の大がかりなサウンドを作り上げていた。ウォーターボーイズにとって最大のヒット曲となった「The Whole of the Moon」は、「星空の下にあるすべての大切な夢とビジョン」を讃える壮大な賛歌となった。

シンプル・マインズも、『Once Upon a Time』で新たなピークに達した。このアルバムは、従来のポスト・パンク/シンセ・ポップから、スタジアム・サイズの会場に対応したきらめくようなサウンドにシームレスに移行した作品だった。「All the Things She Said」「Alive and Kicking」「Sanctify Yourself」といったヒット曲で、彼らはアート・ロックからの影響をごく普通の人にも親しめる楽曲へと昇華させた。

 

ザ・コール

そうした楽曲は十分に魅力的だったので、彼らは本物の国際的なスーパースターになるための資格を得た。そうした展開は、『So』時代のピーター・ガブリエルとそう変わらないものだった。

そのピーター・ガブリエルが「アメリカ音楽の未来」と高く評価したのがザ・コールだ。とはいえこのグループは、ビッグ・サウンドの他の仲間たちと同じような商業的な成功を収めるところまで行かなかった。『Reconciled』と1987年の『Into the Woods』の2連発は、ガブリエルが口にした言葉通りの未来を実現しようとした作品だった。

ボノやマイク・スコットのように、ザ・コールのマイケル・ビーンは文字通り「魂の救済」を目指して動いていた人間だった。ドラマチックなバリトン・ボイスを持った彼は、あたかもひとつひとつの音符に命がかかっているかのような雰囲気で歌い上げていた。

一方ドラマーのスコット・ミュジックはマンモスの地響きのようなビートを叩き出し、キーボード奏者のジム・グッドウィンは大聖堂のようなサウンドを築き上げ、ビーンの情熱をさらに増幅させていた。こうして「Everywhere I Go」「I Still Believe」「I Don’t Wanna」といったソウルフルで激しい曲が、大学のキャンパスで放送されるカレッジ・ラジオの定番曲となった。

 

ビッグ・サウンド・ムーブメントの最高峰

U2の次なる一手は、単なるアルバムではなかった。それは、驚くべき巨大な現象だった。『The Joshua Tree』は、ビッグ・サウンド・ムーブメントの最高峰といえるだろう。1987年3月にこのアルバムがリリースされたとき、”Melody Maker”誌にはサイモン・レイノルズによる次のような記事が掲載された。

「U2は壮大だが、それでいてミニマルだ。雄大だが、仰々しさや派手派手しいところがない」

精神的な切望を描いた「I Still Haven’t Found What I’m Looking For」や「Where the Streets Have No Name」のようなシングルが大ヒットしたおかげで、U2のこの5枚目のアルバムは文化的な面でも商業的な面でも1980年代で最も影響力のあるレコードのひとつになった。ここまで到達した以上、U2というバンドそのものと同じように、ビッグ・サウンドもさらに大きくなることはないように思われた。

 

ビッグ・サウンド・シーン第二世代

この時点まで来ると、このビッグ・サウンド・シーンにも第二世代が登場していた。ダブリンのバンド、カクタス・ワールド・ニュースはシーンの頂点にいる友人たち ―― すなわちU2の助けで姿を現した。

このバンドのデビュー・シングル「The Bridge」はU2のレーベル、マザー・レコードから発売され、プロデュースはボノが担当している。またデビュー・アルバム『Urban Beaches』で描かれる広がりのある音世界に耳を傾けると、彼らがU2の直系にあたることがよくわかる。

一方ロンドン出身のセン・ジェリコはどちらかといえばシンプル・マインズの方と共通点が多く、1989年の『The Big Area』でUKのヒット・チャートの上位に食い込んだ(ちなみにシンプル・マインズのキーボード奏者、ミック・マクニールは、このグループの1990年代のアルバムに参加している)。ニュー・モデル・アーミーは、よりダークでよりはっきりと政治的な姿勢を打ち出していたが、彼らのファン層がビッグ・カントリーやジ・アラームのファン層と一部重なっていることは容易に想像できた。

こうしたアーティストたちは1980年代ロックにテクニカラーの色彩をもたらした。彼らに影響を受けたバンドは、その後の数十年間も絶えず出現してきた。ビッグ・サウンドから始まった流れが、ジェイムズ、エルボー、トラヴィス、キーン、スノウ・パトロール、さらにはアーケイド・ファイアやコールドプレイのようなワールドビートのアーティストにまで受け継がれていると想像するのは決して難しくないことだろう。

言うまでもなく、ビッグ・サウンド第一世代のバンドの大部分は今もステージの上で大旋風を巻き起こし、新しい曲を作っている。そして、メンバー間の相互交流もいまだに続いている。ビッグ・カントリーにはさまざまなミュージシャンが加入していったが、そうした新メンバーの中にはジ・アラームのシンガー、マイク・ピーターズやシンプル・マインドのベーシスト、デレク・フォーブスも含まれていた。

一方シンプル・マインドは、ザ・コールのマイケル・ビーンが2010年に若くして亡くなった数年後にザ・コールの「Let the Day Begin」と「The Walls Came Down」をカヴァーしている。その際、ジム・カーは、次のように説明していた。

「マイケルは、ロビー・ロバートソンやボブ・ディランといったアメリカの本物の偉大なるミュージシャンに感じられるのと似たような魂を持っていた」

これらのバンドの精神は、長い年月を経ても生き残ってきた。その理由は、彼らが私たちひとりひとりの中に潜む感情を増幅させることを真の目標としていたからなのかもしれない。1985年に『A Pagan Place』がリリースされたときNMEの紙面でジャーナリストのデヴィッド・クアンティックがマイク・スコットに次のような質問をしていた。

「どの曲もフィル・スペクター的な音の洪水で仕上げられていて、ほとんどすべての歌詞が勇壮な感情を表現しており、すべてのヴォーカルがほとんどシャウトになっています。こんなアルバムになった理由は、どこにあると思いますか?」

これに対して、ヴォーカリストであるスコットは正直に次のように答えた。

「その理由はよくわからないな。でもこういうやり方でないといけないんじゃないかと僕は思う」

Written by By Jim Allen


U2「Atomic City」
2023年9月29日配信
iTunes Store / Apple Music / Spotify / Amazon Music / YouTube Music



 

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