「テルスター衛星」発射とジョー・ミークの「テルスター」

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そのイベントは1962年7月10日に行われ、英国のポップ・ミュージックを宇宙時代へと変換させることになった。その日、世界中の目がフロリダにあるケープカナベラル空軍基地に向けられていた。一方その頃ロンドンでは、ジョー・ミークという名の若いプロデューサーがこの出来事に刺激を受け、デッカ・レコードからリリースされるシングルをプロデュースし、その楽曲は成層圏へと上昇していくことになる。

1962年7月10日は電話会社であるAT&Tが、世界で初めて民間の通話目的用の衛星をデルタ・ロケットに乗せて打ち上げた日だった。この模様は7月10日に生中継され、メイン州アンドーバーで振ったアメリカ国旗の映像を衛星を介し、3300マイル離れたフランスのプルームール・ボドゥに映すというそれまでSFの世界だと思われていたことが実際に行われた。その後2週間も経たないうちに、初のテレビ放送が開始となった。その衛星の名を「テルスター」といった。

アメリカにとってフランスは、大西洋を超えて通話するという勇気ある試みを開発するパートナーだったが、ポップ・ミュージックの世界においては、イギリスが最も情熱的なパートナーであった。

当時33歳にして、既に才能があり評価も地位も確立したプロデューサーのジョー・ミークは、その発明とも言えるプロダクションで英国音楽シーンで最も熱い名前を残すことになる。彼がジョン・レイトンの楽曲「Johnny Remember Me」で使った不気味なエフェクト音のおかげで1961年に最もヒットした曲となったのだ。

彼は地球の裏側で起こっている技術革命に敬意を評し、自分の作った楽曲に衛星の名を付けたのだった。彼はその「Telstar / テルスター」を、これまでにバックを何度も務め、成功こそしなかったもののシングル「Love and Fury」をデッカからリリースしたロンドンのインスト・バンドであるトルネードズと共にレコーディングしたのだ。

「Telstar」は別格であった。ジョー・ミークがとてつもなくキャッチーなメロディーを書いただけでなく、彼の見事なプロダクションによって新たな秘密兵器が与えられたからだ。この曲は未来的な音のするクラヴィオリンという鍵盤楽器で演奏され、ジョー・ミークの死後ポップの世界を征服したシンセサイザーよりも間違いなく先を行っていた楽器であった。

衛星が打ち上げられた5週間後、デッカがリリースしたこのトルネードズのシングルは留まることを知らなかった。「Telstar」は9月に英国チャートを駆け上がり、首位を5週間に渡って守ると世界的にスマッシュ・ヒットになり、全世界で500万枚を売り上げ、アイヴァー・ノヴェロ賞を受賞した。

何より最も名誉であったのは、クリスマス直前から1963年の年明けまでの3週間という時期に、イギリスのグループが初めて全米チャートで1位になったのがこの曲だったのだ。ジョー・ミークは、いつでも星に手を伸ばすことの大事さを証明したのだった。

Written by Paul Sexton



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