ロリー・ギャラガーがアイルランドのジミヘンやクラプトンになった理由

Published on

Photo courtesy of the Rory Gallagher Estate

ロック・ヒストリーにおける最も影響力のある革新的なギタリストは誰かと問われたら、ファンや批評家たちはエリック・クラプトンクイーンのブライアン・メイといった象徴的な名前を必ず挙げるだろう。だが、彼らのようなレジェンドに最も尊敬されているギターの神は誰かと尋ねると、高い確率でロリー・ギャラガーの名が挙がるだろう。

エリック・クラプトンはBBCに、“自分をブルースの世界に復帰させてくれた” ことでロリー・ギャラガーは評価を得るべきだと伝えたことがある。ドキュメンタリー映像『What’s Going On: Taste At The Isle Of Wight』の中では、クイーンのギタリスト、ブライアン・メイはこう語っている。

「ロリーのセット・アップを真似て、この小さなAC30アンプとダラスのレンジマスターのトレブル・ブースターを購入したんだ。そして俺の自作ギターをプラグインしたのさ。それは俺が求めていた音を出してくれたね。ギターを輝かせてくれた。だから “俺のサウンド” をくれたのはロリーなんだ」

先駆的なギタリストであり、バンド・リーダーであり、シンガー・ソングライターであるこのアイルランド人に強い尊敬の念を抱いていた数々の名士の中の2人がブライアン・メイとエリック・クラプトンである。1995年、47歳という若さでこの世を去ったロリー・ギャラガーだったが、ロリー・ギャラガーを褒め称えるU2のジ・エッジやガンズ・アンド・ローゼズのスラッシュなど代々続くギターの名手たちを含め、彼の音楽はロックン・ロールに大きな影響を及ぼし続けている。

生涯ロリー・ギャラガーの熱狂的なファンであるジョニー・マーは、アルティメイト・クラシック・ロック誌上で、情熱を込めて心からの感謝の気持ちをこう表している。

「13歳のときにロリーのアルバム『Deuce』に合わせて弾いていた1975年から、僕がザ・スミスに在籍していた時まで、そして僕のソロ活動までずっと、ロリー・ギャラガーは僕に大きな影響を与えてきた。僕にコード・チェンジを教え、ステージ上でもそうでないときもどのように振る舞えばいいか教えてくれたのは彼だ。僕は彼に借りがあるんだよ」。

ロリー・ギャラガーのソロ曲全曲目がCDとレコード盤で再発間近となり、新旧のファンたちはロリー・ギャラガーの輝かしい一連の作品を再評価する機会に恵まれるが、非常に惜しまれる存在であるこのアイルランド人は非常に多くの面で尊敬に値し、彼が達成してきたものは本当に今までに例がないものだった。

まず、ザ・ビートルズが国の若者に影響を与えていただろう60年代中盤のアイルランドには本物のロック・スターが存在していなかった。実際、ロリー・ギャラガーが最初に3人組のパワー・グループ、テイストを1966年に結成したとき、アイルランドの地方の会場は当時の人気バンドの曲を効率良くカヴァーしたショーバンドたちで湧き上がっていた。

まだ若く、理想主義者でブルース好きだったロリー・ギャラガーはアイルランド南部の都市コークのシャンドン・ボート・クラブから、ロンドンの有名なマーキーまで、彼のバンドの評判を築きながら彼の倫理的価値観、そして自ら作詞作曲を手掛けた楽曲と扇動的なライヴと共にその古くさい殻を破り、最終的にはメジャー・レーベルのポリドールと契約するまでに至った。この努力が『On The Boards』といったアルバムのヒットやロンドンのロイヤル・アルバート・ホールでのクリームとの名誉あるコンサート、そしてザ・フーやジミ・ヘンドリックス、ザ・ドアーズやフリーと共に出演した1970年のワイト島フェスティバル へと繋がった。

ロリー・ギャラガーは信念を持ち人気を得ることも可能にした初のアイルランド出身のロック・ミュージシャンであった、とマルクス・コノートン著作のロリー・ギャラガーの伝記『His Life And Times』の中で、ホット・プレス誌のジャーナリスト、ダーモット・ストークスは語る。

「彼のキャリアにおいてロリーが初期に行った極めて重要なことは、アイルランドの人間にもバンドを結成し、自ら作詞作曲を手掛けたオリジナルの曲を演奏することが出来るということを世間に認めさせたことだと思う。最初はアイルランドで証明し、それからロンドンへと渡り、ヨーロッパ、そして世界中で出来ることを証明した。最初にテイスト、そしてロリーのソロと、この国からそれができた最初のバンドだった。彼らが基礎となる良い標となったのだ」。

ロリー・ギャラガーを同世代から際立たせた他の要素は、長いキャリアにわたって彼が発散させた本質的資質ともいえる。それは生まれながらのプロ意識、鍛錬、そして彼の仕事へのこだわりだった。ツアー中以外は滅多に幸せそうに見えないロリー・ギャラガーは、70~80年代にかけて絶え間なくツアーを行い、その最高の活動は『Live In Europe』やライヴ盤ダブル・アルバム、コンサート映像『Irish Tour ’74』といった不朽のライヴ盤に記録されている。

「ロリーのような素晴らしいインストゥルメンタルのソリストたちは、ただただ圧倒されるスキルの持ち主で、夜な夜な音楽の才能と繋がっていた」と、コンサート映像『Irish Tour ’74』の監督トニー・パーマーはマルクス・コノートンに伝えていた。

「ジミ・ヘンドリックスを撮影した最初の人間は僕だと思う。“そしてなぜ彼を撮ったの?”とよく聞かれるんだけど、あんな風にギターを弾く人を今まで見たことがなかったからさ!だから『Irish Tour ’74』を制作したいと思ったんだ。ロリーの才能は長い間、過小評価されていたと感じたからね。彼は素晴らしいミュージシャンであり、彼に関するくだらない話は一切存在しないという事実も気に入った。非常にプロフェッショナルで、熱心で。僕らはそれを映像に反映したんだ」

ロリー・ギャラガーの弟でありマネージャーを務めていたドネル・ギャラガーは、もしロリー・ギャラガーが存命ならば70歳の誕生日を迎えていただろう2018年3月2日のアイリッシュ・エギザミナー紙でこのようにコメントしている。「彼はうぬぼれた事など一度もなかった。彼は本当にどこにもでもいる普通の人だったよ。ステージにあがるために生きていたような人だった。ステージから降りている時の彼は、AからBへと進めることが全てだった。ステージに上がるか、曲を書くか。そんな人だったんだ」。

もちろん、3,000万枚を超えるアルバムの販売数と共に、私たちはロイ・ギャラガーのレコーディングしてきた作品たちが商業的な成功をもたらしたことも忘れてはならない。けれども、ステージを降りた際の内気なの振る舞いとは対照的に、精力的なライヴを繰り広げる謙虚な人物にとって、チャートのポジションと名声の証が原動力になることはなかった。ロック界の優れた職人の一人であるロリー・ギャラガーは、彼の芸術作品を非常に大事にしていた。彼は今までもこれからも、意欲的な若手のギタリストにとって模範的な人物であり続け、彼の一連の作品は先の世代にも刺激を与えるだろう。

「僕が最初に買ったアルバムは “Live In Europe” だった」と、デフ・レパードのヴィヴィアン・キャンベルは音楽サイトのミュージックレーダーにこう伝えた。「僕の従兄弟がクリスマス・プレゼントとしてくれたんだ。今までもらった中で最高のプレゼントのひとつになったよ。あっという間にロリーは僕にとって大きな影響力のあるギタリストとなった。主要な楽器としてのギター・サウンドに対して、僕の耳を鍛えてくれた。本当に楽器を使いこなせるようになりたいと僕に思わせてくれた」。

「彼のソロ作品はまるで小さな協奏曲のようで、その先の展開が全く読めないんだ。彼は実に独特だった」と、ジョニー・マーはアルティメイト・クラシック・ロックに興奮気味に話した。「彼のソロ作品は、ジョージ・ハリスンや僕のように構成されたものではなく、ギター・ブレイクでもなければ、普通のブルース・ロックのソロ曲でもなかった。彼の曲は大胆でありながらも、奇想天外でもなく、ジミ・ヘンドリックスのようにやりたい放題でもなかった。ただただ巧妙で、かっこよく見えていた。彼は音楽的に視野も広く、すべてに優れた点を見出していた。解放的だったよ」

Written By Tim Peacock


My Generation, My Music on SHM-CD <ロリー・ギャラガー編>

“第2のクリーム”と呼ばれたテイストのフロントマンとしてデビューして以降、一貫して質の高いブルース・ロックを演奏し続けたアイルランドの孤高のギタリスト、ロリー・ギャラガーのソロ作品17タイトルがユニバーサルの定盤シリーズ“My Generation, My Music”に登場!


 

Share this story

Don't Miss

{"vars":{"account":"UA-90870517-1"},"triggers":{"trackPageview":{"on":"visible","request":"pageview"}}}
モバイルバージョンを終了