アメリカ音楽史におけるクイア及びトランスジェンダーの女性アーティストたちの系譜

Published on

Photo: uDiscover

クイアやトランスジェンダーと呼ばれる人々は、現代の音楽シーンのあらゆる部分で重要な役割をこなしているが、レズビアン、バイセクシュアル、トランスジェンダーの女性たちがその貢献を讃えられてきた機会は必ずしも多くはなかった。男尊女卑、同性愛嫌悪、人種差別。この僅かな期間の変遷に登場する人々は皆、当たり前のように、一度ならずこうした様々な障壁に直面して来たのだ。だがそれでも彼女たちの音楽は、彼女たちの不屈の忍耐を証明するように、時代を超えて生き続けている。

<関連記事>
LGBTQミュージシャン史:不寛容の時代から、セクシャリティが二の次になる新世代まで
LGBTQに愛された15人のパイオニア
LGBTQを讃えるアンセム20曲:自らを愛する喜びを表現した歌

パイオニア的黒人女性たち

シスター・ロゼッタ・サープは、4歳の時から独学で身につけたテクニックで、家族と共にライヴ活動を展開していたが、そのスピリチュアルをベースにしたリズム&ロックがラジオで流れたのは1939年、彼女が20代になって出した初めてのレコードだった。伝記作家たちによれば、シスター・サープはツアー中に少なくとも1人の女性と関係を持っていたことが知られているが、これは多くの女性たちにとって、ツアーで移動している最中が同性愛嫌悪主義者たちによる報復を恐れることなくオープンに過ごすことが出来る場だったからだろう。

1920年代から30年代のハーレム・ルネッサンスのスター、グラディス・ベントリーや両性愛者の“ブルースの女王”ベッシー・スミス、むせび泣きのマ・レイニー、そして“ダーティー・ブルーズ”シンガーのルシール・ボーガンらのステージでは、その性的指向性が更に赤裸々に表現されていた。ルシール・ボーガンの持ち歌「B.D. Blues」における B.D.とは“bull dagger”、すなわちレズビアンの立ち役の略称であり、ベントリーのように短髪にトップハットとパンツスタイルという男性的な見た目の女性を表わす言葉だった。

アメリカ音楽史において恐らく最も有名なジャズ・シンガーのひとりであるビリー・ボリデイにも、女優のタルーラ・バンクヘッドと付き合っているという噂があったが、アンダーグラウンドでは専ら万事おおらかだった禁酒法時代にあってさえ、大多数のクイアの人々はステージ以外の場ではそうしたことを公に認めようとはしなかった。ホリデイ自身、ベッシー・スミスについては自らに絶大な影響を与えた人物と公言しつつも、アーティストとしての活動の中で、同性愛者であることをそこまであからさまに示すことはなかった。同性に対するラヴ・ソングや、ドラァグ的な着こなしも、あくまでおふざけ的なノリで披露されるに留まっていたが、それでもLGBTQの人々はあの手この手で互いの存在を認知し合う手段を体得していたのである。

1920年代から40年代にかけて、黒人あるいはバイレイシャル [訳注:biracial、単なる“混血”ではなく特に白人と黒人の混血を示唆する言葉]の女性たちはヴォードビルやチトリン・サーキット[訳注:黒人の出演が呼びものの劇場やナイトクラブを回るツアーのこと。Chitlin(chitterlings, chitlings)とは豚や子牛の臓物を意味する言葉で、黒人のソウルフードと呼ばれる料理にはこれらを使用したものが多かった]で他の人種や肌の色にこだわらない人々のためにプレイし、多くのミュージシャンたちを触発した。

中でも先人に敬意を表し、しばしば「ベッシー・スミスの妹分」という宣伝文句を冠されていたのがビッグ・ママ・ソーントンで、元々彼女の持ち歌だった「Hound Dog」はエルヴィス・プレスリーのヴァージョンで一気に有名になった。ビッグ・ママ・ソーントンは後にジャニス・ジョプリンの前座としてツアーに同行している。

 

ラヴェンダー恐慌 / Lavender scare

性別規範に基づく社会的威圧と差別的分離は第二次世界大戦以降更に悪化し、クイアや性別の縛りに囚われない女性ミュージシャンたちは、40年代後半から50年代、60年代に入るまで、ホモセクシュアリティを疑われるような“振る舞い”を慎重に回避することに徹した。このマッカーシズム[訳注:過激な反共産主義運動]と、いわゆる「ラヴェンダー恐慌」[訳注:この時期に立て続けに起こった、政府機関からの同性愛者の解雇に端を発するあからさまな社会差別。ラヴェンダーは同性愛を象徴する色とされる]の時代が、結果的には最古の草の根運動の機関紙とLGBTQの権利を主張する団体の発足に繋がったのである。

アンダーグラウンドのラウンジ・サーキットでは、シンガー兼ピアニストのフランシス・フェイが、ダブル・ミーニングをふんだんにちりばめたコミカルな持ち歌で、サッフォー的な恋のたわむれ[訳注:サッフォーは紀元前レスボス島に生まれたギリシャの女流抒情詩人で、女性に対する愛の歌が有名。またレスボス島はレズビアンという言葉の起源とされている]を披露していた。ニューヨークやロサンジェルス、サンフランシスコといった大都市にはマダム・スパイヴィーやモナズ・クラブ440といったレズビアン客向けの施設があり、リベラーチェやグラディス・ベントリーらクイアのアーティストたちも、既に名の知れたLGBTQ系アーティストたちに混じってステージに立った。

この時代にメインストリームでの成功を収めた女性たちと言えば、概ねポップな歌唱スタイルの持ち主に限定されていたと言っていいだろう。当時は一切カミングアウトしていなかったが、レズビアン・シンガーのレズリー・ゴアは、グラミー賞にもノミネートされた60年代ポップ・ミュージック史上屈指のヒット曲「It’s My Party」に続いて「You Don’t Own Me」もヒットさせ、一方バイセクシュアルのシンガー、ダスティ・スプリングフィールドも「Wishin’ and Hopin’」「I Just Don’t Know What to Do with Myself」「You Don’t Have to Say You Love Me」そして「Son of a Preacher Man」と数々のヒットを飛ばした。

折しも世間ではフェミニズムの第二波の到来により、女性たちが自らの声を通じて世界を変えるチャンスが生まれつつあり、これらのはしりとも言うべき曲にも、自立心や独立独行といったフェミニスト思想傾向が滲んでいた。

 

女性たちの音楽ムーヴメント

60年代終盤から70年代初期にかけてジョーン・バエズ、ジャニス・イアン、そしてジョーン・アーマトレーディングといったシンガー・ソングライターたちは、彼女たちの半生を同性たちに向けて歌い、この歴史的に重要な時代の中で自身の過去の経験が再び活かせる機会を得たことに喜びを見出していた。

自由恋愛やゲイ解放思想も混じり合い、女性たちの興した行動は、当時流行していた告解調のフォーク・ミュージックと相まって女性たちによる一大音楽ムーヴメントを産み出したが、それは彼女たちの分離主義に則った部外者たちからは隔絶したものだった。どういうことかと言えば、彼女たちが書く歌はどぎついほど明確に女性たちについて、かつ女性たちのためのものであり、彼女たちの多くは生来のレズビアンだったのである。

中でも顕著な活躍を見せていたシンガー・ソングライターがクリス・ウィリアムソン、ホリー・ニア、マキシーン・フェルドマン、そしてフランク(Phranc)らで、彼女たちは自分たちのコミュニティのために、教会の中やコーヒーハウス、ゲイバー、それに女性アーティストばかりの音楽フェスティバルといった場でプレイし、そこでは女性運動とコミュニティとが音楽それ自体と同様に重要視されていた。

LGBTQの女性パフォーマーたちにとってのホームとも言うべき所属先を早くから提供したのがオリヴィア・レコードで、自らもトランスジェンダーであるプロデューサー、サンディ・ストーンは彼女たちのアルバムを数多く手掛けて歴史を築き、その功績が他の女性アーティストたちにも道を拓くことに繋がった。スタンリー・キューブリック監督の『時計じかけのオレンジ』やディズニー映画『トロン』のサントラを手掛け、モーグ・シンセサイザーを有名にして数々のグラミー賞を獲得した後、1979年にトランスジェンダーとしてカミングアウトしたエレクトロニック・ミュージシャンのウェンディ・カルロスはその代表格である。

女性たちが自分たちで曲を書き、レコーディングし、その作品を自分たちの手で流通網に乗せ、更に自分たちでショウやフェスのブッキングを行っていたこの時代は、相変わらず男性上位を崩そうとしない音楽業界の門番たちに対する直接的な回答だった。古くからの因習に様々な形で異を唱える女性たちに対する風当たりはますます強さを増したが、それでも彼女たちは彼女たちのために、そしてお互いのために刺激的な創作活動を続け、次の世代の若い女性たちに楽器を手にして自らの物語を紡ぐことを促し続けた。

 

クイア・パンクとディスコ

新しいサウンドと新しいアイデアを核としたこの音楽ムーヴメントの隆盛は70年代、ゲイであることをオープンにしていたジューン・ミリントン率いるファニーや、ギタリストから後にフロントウーマンへと転向したジョーン・ジェット擁するザ・ランナウェイズなど、女性ばかりのバンドの登場でひとつのピークに達した。だがこれらフェミニスト・ウェーヴの女性アーティストたちは、自らの欲望と同時に女性運動において求められるところの両方を満たさなければならないというジレンマと、自分たちの抱える苦悩をそのまま音楽に投影出来ないことへの葛藤で、二重の意味での困難を味わうことになった。どちらのバンドもアメリカのコミュニティ内では大きな爪痕を残すに至らなかったものの、日本をはじめとする海外諸国ではそれなりの成功を収めた。

一方時期を同じくして、ディスコ・ミュージックがダンスクラブを席巻し、流動的な性的指向で知られるデビー・ハリーがブロンディを率いてマックス・カンザス・シティやCBGBのステージを飾り、クイアとされてはいないものの、パティ・スミスは両性具有のシンボルとして大いなる存在感を放っていた。グレース・ジョーンズとアニー・レノックスもこのドラァグ的イメージの打ち出しに参入し、メインストリームにおいて伝統的な古い女性性に真っ向から挑んでみせたものの、世間の同性愛嫌悪主義者たちは相変わらずレズビアンのミュージシャンたちに対する差別意識を隠そうとせず、その活動を実質彼女たち独自のサーキットに隔離させ制限させていた。

ディスコ・ミュージックはゲイ・クラブで圧倒的に支持され、かつ影響を受けた音楽で、関連として言及されることが多いのはもっぱらシルヴェスターやドナ・サマーあたりだが、「Lady Marmalade」のノナ・ヘンドリックスや「I Love the Nightlife」を全米シングル・チャートの最高位2位に送り込んだアリシア・ブリッジズも、各地で大規模会場を埋め尽くす集客力を誇り、巨大なダンスフロア・ムーヴメントに貢献したアーティストたちである。言ってみればディスコという音楽は、あまりに分かりやすくクイア色が強かったために圧倒的な逆風に晒されることになったわけだが、表向きはクローゼットの中に留まる(=カミングアウトすることを回避する)ことを余儀なくされても、クイアの人々はその後もあらゆるジャンルに着々と進出を続けた。

 

女の子たち、前へ

80年代はアンサンブルに属するクイアの女性たちにとって安息の地だった。プリンスと行動を共にしていたウェンディ&リサ、カルチャー・クラブのヘレン・テリー、ザ・ゴーゴーズのジェーン・ウィードリン、そしてB-52’sのケイト・ピアソンは、いずれもそのパフォーマンスやレコーディングでクイアの影響を感じさせるアーティストたちだ。一方、70年代半ばから終盤にかけてはパンクがシーンを席巻し、トランスジェンダーのパイオニアだったジェイン・カウンティ率いるグループがニューヨーク・ロンドン・ベルリンで活動を繰り広げると、1985年にはトロントから“クイアコア”(queercore)と称する一派が登場した。

この“クイアコア”という呼称はクイア・アーティストであり映画製作者のG.B.ジョーンズが彼女のミニコミ誌で造り出したもので、彼女の結成した女性ばかりのポスト・パンク・バンド、フィフス・コラムがそのムーヴメントを牽引した。

バンド名が示唆する通り(内側から破壊行為を行なう集団の意・訳注:フィフス・コラム/Fifth Column/第5列 とはフランコ政権下のスペインで、反乱者たちの中に政権側に通じる一派がおり、1936年に反乱軍が首都マドリード目指して4列縦隊で進軍した際、その一派が5列目として反逆すると宣言したことに由来する、後方攪乱や内部スパイを意味する言葉)、フィフス・コラムはストレート(異性愛者)のパンク・シーンとゲイのメインストリームの両方をターゲットにしており、ティム・ドレッチ、トライブ8、ザ・ブッチーズといった他のクイアコア・バンドを触発すると共に、90年代のライオット・ガール台頭の下地を整える役目も果たした。

ビキニ・キル、ブラットモービル、ヘヴンズ・トゥ・ベッツィ、そしてエクスキューズ17はいずれもクイアびいきのサード・ウェーヴ・フェミニスト系のDIY的な美意識には不可欠な存在で、パンクの世界をもっと公平に、そして女性のみならずあらゆる性別の人々にとって安全な場所にしようと活動に励んでいた。

 

クローゼットの扉を蹴破る

90年代もまた、音楽界のゲイの女性たちにとっては画期的な10年で、両性にアピールするセクシュアリティを持つマドンナが引き起こした幾つもの反響、シンディ・ローパーの唯一無二の個性、そしてクイーン・ラティファの堂々たる独立宣言は、それまでに増して更に様々な表現や主義主張を持った女性たちが声をあげられる余地を生み出した。中でもk.d.ラングとメリッサ・エスリッジは、明確な意思を持って同性愛者としてカミングアウトしながら、批評家たちの評価とビルボード・チャートの上位進出を成し遂げたアーティストたちである。

k.d.ラングはカナダ生まれのカントリー・フォーク・シンガーで、ばっさりと切り落とした短髪と男物の服を好んで着ることで知られ、1992年にThe Advocate誌上にてレズビアンであることをカミングアウトした最初のメインストリーム・アーティストの一人である。ちなみに同様に「エレンの部屋」で知られるエレン・デジェネレスがタイム誌の表紙巻頭でカミングアウトしたのはそれから5年後のことだった。クイア的概念における男らしさを前面に押し出したk.d.ラングのスタイルと、ヒット・シングル「Constant Craving」は大いに話題を呼んだ。彼女は“粋なレズビアン”のアイコンとなり、スーパーモデルのシンディ・クロフォードと共に表紙を飾ったヴァニティ・フェア誌の挑発的な写真は今も語り草となっている。

ブルース系ロッカーのメリッサ・エスリッジはk.d.ラングに倣い、1993年のアルバム『Yes, I Am』のリリースと共に自らのレズビアンとしてのアイデンティティを公にした。彼女にとっては4枚目となるこのアルバムで、「Come To My Window」のようなロック・ナンバーに加え、圧倒的にセンセーショナルな「I’m The Only One」が起爆剤となり、彼女は一気にシーンの重要人物の仲間入りを果たした。メリッサ・エスリッジの名前はいまや一般の音楽ファンの間でもすっかりお馴染みとなっており、グラミー賞の最優秀女性ロック・ヴォーカル・パフォーマンス部門で受賞も果たしている。

k.d.ラングとメリッサ・エスリッジだけに限ったことではないが、彼女たちがクローゼットの扉を蹴破り開け放ったことで、その他大勢のクイアの女性たちも、ソングライティングや公の場に出る時のペルソナにも関わっている自分たちのセクシュアリティについて、ぐっとオープンに言及できるようになった。

ザ・インディゴ・ガールズ、ミシェル・ンデゲオチェロ、4-ノン・ブロンズのリンダ・ペリー、ホールノドラマーのパティ・シェメル、ザ・ブリーダーズのジョセフィン・ウィグス、更にルシャス・ジャクソンのケイト・シェレンバックらは、皆それぞれにクイアである自らのアイデンティティについて、『Bitch』や『Girl Germs』といった女性主体のミニコミ誌に対してと同じように、スピン誌やローリング・ストーン誌の誌面上で臆することなく語り、ジル・ソビュールのシングル「I Kissed a Girl」(彼女のアルバム『I Can’t Think Straight』からのシングル・カット)は、1995年のMTVビデオ・ミュージック・アワードで2部門にノミネートされた。

カミングアウトすることは両刃の剣で、k.d.ラングもメリッサ・エスリッジもインディゴ・ガールズも、レズビアンとしての認知度があまりに高くなり過ぎたために、時にその性的アイデンティティが彼女たちの音楽的な能力の評価に陰りを落とすこともあった。これらのアーティストたちは皆、折にふれ情け容赦のないジョークや悪趣味な物真似のターゲットにされた経験を持っているが、彼女たちが衆目の中で怯むことなく活動を続けていたおかげで、例えば女性にもクイアにも安全と敬意を求めながら、ストレートなフェミニストたちにもゲイの男性たちにも置いてきぼりを喰らったような格好になっていた政治活動家団体のレズビアン・アヴェンジャーズにとっては、ちょうど重要な時期にレズビアンたちの視認性が高められることになったのである。

 

00年代のクイア・ポップ

ザ・スパイス・ガールズの登場と共に、フェミニズムはポップに姿を変えた。彼女たちはしばしばフェミニズムを商品化し、ガール・パワーとしてパッケージングしてしまったと糾弾されることもあるが、グループのクイア・ファンの存在を認めることは、同時にポップ・ミュージックの世界におけるクイアの女性たちの明るい未来を予感させてくれる(メルBも後にバイセクシュアルを公表した)。

ミレニアムの節目に、ポップ・ラジオはカルチャーにおける最も支配的な勢力としてカレッジ・ロックを凌駕し、レディー・ガガやマイリー・サイラス、ラ・ルーといったソロ・アーティストたちは、ステージでもTVでも多様な性欲表現を展開し、2003年MTVビデオ・ミュージック・アウォードでブリトニーとクリスティーナ・アギレラがマドンナとキスを交わした瞬間よりも更にクイア色の濃い時間を演出した。

そのちょうど一年前、MTVはもうひとつ同じように話題性たっぷりのスタントを仕掛けていた。ロシア人ポップ・デュオのt.A.T.u.と、レズビアンの女子高生に扮した彼女たちの思わせぶりなMV「All The Things She Said」である。もっともこれも、クイアの女性たちが00年代に目撃した数多くのフェティッシュな瞬間のひとつに過ぎなかった。

時代が進んでインターネットが幅を利かせるようになり、やがてアーティストたちは世界中とモードの流入点を共有するようになった。そしてますます多くのクイアの女性アーティストたちが、自らのありのままを隠すことなくオープンに出来るようになったのみならず、それを自由に表現し、また彼女たちの前の世代に比べれば、そうすることで後から喰らうことになる様々な誹謗中傷に対しても恐れを抱かずに済むようになった。

デミ・ロヴァート、ティーガン・アンド・サラ、キング・プリンセス、ホールジー、ジェネル・モネイ、そしてヘイリー・キヨコなどは過激なまでにクイア色の濃い音楽を生み出している。デミ・ロヴァートの同性愛をテーマにした「Cool for the Summer」や、ホールジーのバイセクシュアルを公表しているロレン・ハウレギとのデュエット「Strangers」も、新しい世代のクイアたちのアンセムが作り出される流れを促すものだ。

ポップ・ワールドの外では、2000年代はなお勢いづくエレクトロニック・シーンで、アノーニ、フィーヴァー・レイ、ゴールドフラップらのクイア・アーティストたちが各地の大規模なフェスティバルでステージを務め、またカントリー・ミュージックやヒップホップのシーンでも、ゲイであることをオープンにしているアーティストたちが目に見えて増加している。

2019年、アメリカーナのミュージシャン、ブランディ・カーライルは最新アルバムでグラミー賞3部門を獲得しているが、これはシェリー・ライトがカントリー・シンガー史上初めてレズビアンとしてカミングアウトしてから僅か12年後の出来事であり、またシンガー・ソングライターのブランディ・クラークも、その筋ではよく知られた同朋(そしてカントリー・ポップのクロスオーヴァー・クイーン)ケイシー・マスグレイヴスと、2014年のCMAアワードで年間最優秀楽曲に輝いたヒット・シングル「Follow Your Arrow」をはじめ、頻繁にコラボレーションを行ないながら、今も変わらずシーンの第一人者のひとりとして君臨しているのだ。

070シェイク、ヤングM.A.、チカといったシンガーたちも、今でも圧倒的にストレートと男性優位のヒップホップ・シーンという闘技場の中で、クイアの女性アーティストとして懸命に自分たちの居場所を作り出そうと切磋琢磨を続けている。その一方で、彼女たちと同世代であるカーディ・Bやミーガン・ジー・スタリオンは、彼女たちの最大のヒット曲の中で、おフザケでバイセクシュアリティをネタにしたりしている。パンク・シンガーのローラ・ジェーン・グレイスやソウル・アーティストのシェイ・ダイアモンド、ポップ・シンガーソングライターのテディ・ガイガーに代表されるトランスのパフォーマーたちも、いずれも傑出した才能を持ち、それぞれのジャンルで抜きん出た存在として注目を集めているが、まさしく最も初期のLGBTQの女性たちが、本来受けて然るべき評価や称賛を殆ど受ける機会がなくてもずっとそうして来たのと同じ、長くたゆみない努力の積み重ねの結果なのだ。

この1世紀をかけてようやく、LGBTQの人々、非白人の人々、そして女性たちは本来手にすべきものを掴みとってこれるようになってきたが、実は彼女たちはその間もずっと、音楽業界に影響を与え、その変化に関わってきたのだ。LGBTQの歴史の大半と同様、それは常にそこに存在しており、気づく手がかりはふんだんにあったにも拘わらず、無視される機会があまりに多過ぎたのである。

Written By Trish Bendix




Share this story

Don't Miss

{"vars":{"account":"UA-90870517-1"},"triggers":{"trackPageview":{"on":"visible","request":"pageview"}}}
モバイルバージョンを終了