ビートルズ後のポール・マッカートニーによるベストソング20曲:本人と関係者のコメント

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Photo: Michael Ochs Archives/Getty Images

ザ・ビートルズが1970年に解散する頃には、ポール・マッカートニーはミュージシャンであれば誰もが望むような偉業を既に成し遂げていた。彼はザ・ビートルズのメンバーとして音楽界の様相を激変させるような作品を幾度となく作り上げており、バンド解散後はセミ・リタイア生活に入り、過去の偉業を時々振り返る程度の人生を送る事もできたはずだ。

しかしソロ・アーティストとして、マッカートニーは曲を作り続けた。それは時に新たなコラボレーションであることもあった(組む相手は妻のリンダ、ウイングス、エルヴィス・コステロ、プロデューサーのナイジェル・ゴッドリッチなど)。

あるいは、クリエイティブの女神(ミューズ)が導くままに、ありとあらゆる方向性を試すこともあった。ここでは、そうやって新たな表現形式を絶えず探し続けてきたポール・マッカートニーを讃えるため、彼が作り上げた名曲の数々を紹介していこう。

今回は20曲をリストアップした。もしもあなたが考えるポール・マッカートニーの名曲がここに含まれていないという場合は、ぜひ一番下のコメント欄でその曲のタイトルを書き込んでください。

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20位  Early Days(2013年)

ボールが2013年に発表したアルバム『NEW』では、興味深いことに、プロデューサーとしてジャイルズ・マーティンとイーサン・ジョンズがクレジットされている。このふたりはどちらも新進気鋭の若手プロデューサーとして成功を収めているが、実はこのふたりの父親はジョージ・マーティンとグリン・ジョンズだった。つまり、過去にザ・ビートルズを手がけたプロデューサーの息子たちがポールのソロ・アルバムをプロデュースしたわけだ。

イーサン・ジョンズがプロデュースしたレコーディングから生まれたのが「Early Days」だった。これは、リバプールで過ごした少年時代を振り返った曲。ポールは次のように語っている。

「“Early Days”を作った日は、昔のことを考えていた。特に、若い頃の僕とジョンがリバプールで過ごした日々のことを。というわけで、それをそのまま歌にしてみたんだ。レコード店で初期のロックンロールのレコードを聴いたり、ポスターを眺めたりといったイメージを最初に頭の中で描いてみた。そういうことが楽しくて、いろんな思い出が蘇ってきたんだよ」

 

19位  I Don’t Know(2018年)

ポールは、表面的にはいつも変わらないポジティブな姿勢の持ち主として知られている。そうした世間の認識を踏まえると、2018年のアルバム『Egypt Station』が

I got crows at my window, dogs at my door
I don’t think I can take any more

窓にはカラス 戸口には犬
もう耐えられそうにない

という歌詞で始まったのは驚きとして受け取られたに違いない。このアルバムの第1弾シングルとなった「I Don’t Know」では、ポールは自分の内面を探求するモードに入っている。

「人生の中では、時には自分がオリンポスの宮殿にいる神様でないこともある、みんな通りを歩き回る現実の人間なんだ。僕は孫がいるおじいさんであり、子供がいる父親であり、妻がいる夫でもある。そういう括りの中では、どの瞬間も正しいことをするという保証はない」

彼はこう述べた後、さらにこのように付け加えている。

「実のところ、まるで正反対だよ。それにとてもプライベートな出来事があった、ここではあれこれ詳しく言わないけど、そのせいですっかり意気消沈してしまった。“ああ、何を間違ったんだろう?”って。僕はすばらしい人生を送っているけれど、時々、そこに現実の厄介事が入ってくるんだよ」

 

18位  Letting Go(ワインカラーの少女)(1975年)

ウイングスの1975年のアルバム『Venus And Mars』に収められていた「Letting Go」はファンキーな曲であり、実に魅惑的なグルーヴで出来た作品だ。ポールは今でもこの曲をライヴで楽しんで演奏している。ベーシックなトラックはアビー・ロード・スタジオで1975年初頭にレコーディングされたが、この曲の特徴のひとつであるブラス・セクションはその後にニューオーリンズでオーヴァーダビングされている。

ジョン・レノンと一時交際していたガールフレンド、メイ・パンによれば、この時期、レノンはニューオーリンズに行って旧友のポールと再び共演する計画を立てていた。しかしレノンは(部分的にはポールの助けもあって)オノ・ヨーコと復縁し、ニューオーリンズ行きの話はキャンセルとなった。

 

17位  Waterfalls(1980年)

1980年、日本にて大麻所持容疑で逮捕され留置所に入ったポールは、イギリスに帰国すると、1970年の『McCartney』以来となるソロ名義のアルバムをリリースした。それにふさわしく『McCartney II』というタイトルになったこのアルバムは、ポールが自分のスタジオでシンセサイザーなどを使って実験を繰り広げ、ひとりで曲を作り上げていったのが特徴の作品だ。

そうしたレコーディングの途中で、彼は事前に作り上げていた唯一の曲を録音することにした。本人は次のように説明している。

「“Waterfalls”は基本的にはこう呼びかけている曲なんだ。“危ないことにあれこれ手を出してはいけない。だって君は僕にとって必要な人だから”って。これは以前よりも成熟した考えの曲で、20年前ではできなかったものだと思う。なぜなら、何もかもが永久に続くというわけじゃないことに気づいていなかったから。三十歳を過ぎると、そういうことに気がついてくるんだよ」

 

16位  My Brave Face(1989年)

さまざまな面で、1989年はポールのソロ・キャリアにおけるターニング・ポイントになった。この年に発表された『Flowers In The Dirt』はアルバム・チャートで首位を獲得。その後には、1970年代中期以来となるワールド・ツアーも始まった。

このアルバムでのボールはエンジン全開。そして多くの曲で、エルヴィス・コステロと共作をしている。そうした共作曲のひとつ「My Brave Face」はこのアルバムから出た第1弾シングルになった。

この曲のレコーディングでは、ポールは久々にあの有名なヘフナーのヴァイオリン・ベースを使い、ザ・ビートルズ風のサウンドを醸し出している。ポールはインタビューで、コステロとの共作についてこう語っている。

「彼と一緒に作った曲は、僕の今までの作風とはちょっと違っていて、少し言葉数が多い感じ。エルヴィスは歌詞にかなり入れ込むタイプでね。僕にとって良いパートナーだった。僕も、彼のかなりいいパートナーだと思う。僕が何か作ると、彼が少し編集してくれる。こちらがそれで問題ないと感じるなら、それでOK というわけだ」

一方でコステロは次のようにコメントしている。

「当然のことだけど、“なんてこった、これぞまさにポール・マッカートニーだ”っていう感じでしたよ」

 

15位  Jenny Wren(2005年)

2005年のアルバム『Chaos And Creation In The Backyard』に収められていたこの魅力的な曲で、ポールは昔から得意としていたアコースティックな作風に再び戻っている。「Jenny Wren」は、「Blackbird」「Mother Nature’s Son」「Calico Skies」といったアコースティック・ギター・ピッキングに似たスタイルで作られた曲だ。

さて、曲名に歌われているこの謎めいた「ジェニー・レン」という女性は誰なのだろう? ポールによれば、これは鳥のことを考えている時に作り上げた架空の人物だという。

「ミソサザイ(Wren)は大好きな鳥で、UKにいる鳥の中でも一番小さい鳥なんだ。ミソサザイを見てると、いつも自分がとてもラッキーな人間のように感じる。とてもシャイな鳥だから、なかなか姿を見せてくれないんだ。というわけで、そうしたあれこれを歌にまとめてみたんだ。お気に入りの鳥なんだけど、それを“Blackbird”みたいにただの鳥にする代わりに、今回は女の子ということにしてみたんだ」

 

14位  Coming Up(1980年)

この「Coming Up」のプロモーション・ビデオでは、ポールが架空のバンド「プラスティック・マックス」のさまざまなメンバーに扮している。たとえばロン・メイル(スパークス)、ハンク・マーヴィン(これはバディ・ホリーの扮装だと勘違いされていることが多い)、ジョン・ボーナム……といった具合だ。

「この曲は、元々スコットランドにある僕の農場で吹き込んだんだ。毎日スタジオ入りして、ドラム・トラックを土台にして作り上げていった。どういう仕上がりになるのか全然わからないままに少しずつ組み立てていったんだよ。ドラム・トラックを作った後でギターやベースをオーヴァーダビングして、バッキング・トラックを組み立てたんだ」

ニューヨークにもこの曲のファンがいた。誰あろう、ジョン・レノンである。彼は「Coming Up」を「良い曲」だと語っていた。この曲にインスパイアされ、レノンはレコーディングを再開したと言われている。

 

13位  Goodnight Tonight(1979年)

忘れてはいけないことだが、ザ・ビートルズでのポール・マッカートニーの主な役割は、元々はベースのプレイヤーだった。そういう側面が、このシングルで露わになっている。

この曲は、思わず引き込まれるようなディスコっぽいベースラインとフラメンコ風のリズムで作られている。当時コロンビア・レーベルと契約したばかりだったポールは、このコマーシャルな「Goodnight Tonight」をアルバム『Back To The Egg』に収録してほしいとレーベル側から求められた。しかし、ポールは次のような言葉でその注文を拒んだ。

「僕はレコードを作っている。レコード店を経営しているわけじゃない」

 

12位  Too Much Rain(2005年)

ポールは、「Too Much Rain」のヒントになったのはチャーリー・チャップリンが作り、ナット・キング・コールらが歌った名曲「Smile」だと認めている。その「Smile」の歌詞には

Smile, though your heart is aching
Smile, even though it’s breaking

微笑んでみて、心が痛くても
微笑んでみて 挫けてしまっても

という一節が含まれている。この「Too Much Rain」では、悲しみにあふれた人生についてさりげなく歌われている。そのため、この曲は彼の母親、ジョン・レノン、妻のリンダ、ジョージ・ハリスンといった彼の身近な人たちの死にちなんだ歌だと解釈されることが多い。歌詞の冒頭では

Laugh, when your eyes are burning
Smile, when your heart is filled with pain

笑ってごらん 君の瞳が痛い時には
微笑んでごらん 君の心が痛みでいっぱいの時には

と歌われている。これは、高い評価を受けた2005年のアルバム『Chaos And Creation In The Backyard』の中でもハイライトのひとつとなっていた。このアルバムは、ナイジェル・ゴッドリッチがプロデュースを担当していた。

 

11位  Pipes Of Peace(1983年)

1983年のブリット・アワードで、ポールは最優秀ブリティッシュ男性ソロ・アーティスト部門を受賞した。この年の締めくくりとして、彼はクリスマスの直前に「Pipes Of Peace」をシングルで発表。そのプロモーション・ビデオでは、第一次世界大戦中のクリスマス休戦を映像化。その中でポールは、英国軍・ドイツ軍双方の兵士を演じている。

兵士たちは両軍の中間にある緩衝地帯の塹壕で顔を合わせ、故郷にいるお互いのガールフレンドの写真を見せあう。やがて弾薬の爆発と共に、戦闘は再開する。

不朽の反戦ソングとなったこの曲は、80年代のポールが作り出した中でもとりわけ興味深いアレンジで仕上げられている。そこで使われているのは、テーブル、パンフルート、レゲエ、マーチングドラム、合唱隊。このシングルは1984年1月の全英チャートで首位を獲得した。

 

10位  Uncle Albert / Admiral Halsey(アンクル・アルバート ~ ハルセイ提督)(1971年)

ポールは、昔から細かい曲の断片をつなぎ合わせた組曲を作るのが好きだった(たとえば彼とジョン・レノンが共作した「A Day In The Life」やかの有名なアビイ・ロード・メドレーなど)。このミニ・メドレー「Uncle Albert / Admiral Halsey」は、1971年9月にビルボード誌のシングル・チャートの首位に輝いた。さらには、この曲のおかげでポールはグラミー賞をも獲得した。彼は次のように説明している。

「僕にはアルバート・ケンドールという名前の叔父がいる。アルバート叔父さんはとても楽しい人でした。“Uncle Albert / Admiral Halsey”を作った時は、叔父さんの世代のことを大まかなテーマとしていたんだ。叔父さんたちの世代の人は、僕の世代の振る舞いをどう思っているのか? って考えたんだ。だから“We’re so sorry, Uncle Albert / アルバートおじさん、すまないと思っている”という一節が歌詞に含まれているんだ。僕の曲の多くには、空想っぽい要素が含まれている。僕にとっては、“ハルセイ提督”というのは偉い人の象徴でしかない。だから、この歌をあんまり真面目に受け取ってほしくはないんだ」

9位  No More Lonely Nights(ひとりぼっちのロンリー・ナイト)(1984年)

1984年の映画『ヤァ!ブロード・ストリート』のテーマ・ソングとなったこの曲は、1980年代のポールが出したシングルの中でも特に優れたもののひとつとなった。この曲はスタジオの中で試行錯誤をしているうちに生まれた曲で、形がまとまり始めてからはあっという間に完成に至った。ここでリード・ギターを弾いているピンク・フロイドのデイヴ・ギルモアは、後にこう振り返っている。

「ポール・マッカートニーと一緒に“No More Lonely Nights”をレコーディングするのは、驚きの経験でした。3時間のセッションのあいだに、バンドが曲を覚えてバッキングを仕上げ、ポールがピアノを弾いてリード・ヴォーカルをライヴで録音して、僕がギター・ソロを吹き込んだ。それで完成なんですから」

 

8位  Say Say Say(1983年)

ポール・マッカートニーとマイケル・ジャクソンが一緒に写っている写真の中には、ふたりが並んで台所で皿洗いをしているものがある。意外な光景のように思われるかもしれないが、イギリスに渡ってポールと共作したマイケルは、マッカートニー家での家庭生活を存分に楽しんでいた。

ポールは次のように振り返る。

「ロンドンにある僕のオフィスの上の階で、彼と一緒にくつろいでいた。僕がギターを手に取って、“Say Say Say”が生まれたんだ。マイケルは作詞をかなり手伝ってくれた。言葉数が多い曲ではなかったけれど、彼と共作するのは楽しかった。彼がとても熱心だったから」

この曲は1983年にチャートで最高2位を記録。2015年のリミックス・ヴァージョンでは、元々の曲に備わっていたファンキーさがさらに浮き彫りになっている。

7位  Beautiful Night(1997年)

ポールはこの典型的なマッカートニー・バラードの録音を1986年8月に行った。しかしそれは不満足な出来に終わり、この曲は10年以上お蔵入りになった。やがて彼は旧友の力を借りて、この曲を仕上げることにした。

「(ザ・ビートルズの)“Free As A Bird”を録音するまで、リンゴとは随分一緒に仕事をしていなかった。さらに“Real Love”を録音したんだけど、その時が本当に楽しかったから、今度のニュー・アルバムで2曲ほどドラムを叩いて欲しいと頼んだんだ。そうして“Beautiful Night”が出来上がった。リンゴに僕のスタジオまで来てもらって、一緒にレコーディングしたんだけど、ものすごく楽しかった。僕とリンゴ、つまりザ・ビートルズのリズム・セクションががっちりコンビを組んで、本当に良い感じだったんだ。ベースとドラムが、がっちりハマってて。もし昔のようなコンビネーションがなくなっていたらガッカリしただろうけど、あのコンビネーションはまだまだ消えてなかった。ザ・ビートルズで随分長い間一緒に演奏してたから、その名残がまだあったんじゃないかな。一緒にレコーディングするのは本当に気楽だったよ」

6位  The Back Seat Of My Car(1971年)

ポール&リンダ・マッカートニーのアルバム『Ram』を締めくくる「The Back Seat Of My Car」は、十代の若者の視点から描かれた歌詞になっている。ポールは歌詞についてこう語っている。

「若者時代なんて、僕にとってはもうずいぶん昔のこと。女の子の家に行ってその父親に自己紹介しなきゃいけないなんてのはね」

この歌の主人公は、恋人と共に、世界を制覇するつもりでいる。ふたりの目の前には、広く開けた道しかない。

「これはまさに若者の歌だ。典型的な石頭の親がいるけど、恋するふたりは世界を制覇するつもりでいる、“僕らは失敗するはずがない”ってね。僕はいつだって負け犬が好きなんだよ」

 

5位  Here Today(1982年)

「“Here Today”はジョンについての歌だ」とポールはインタビューで語っている。これは、1982年のアルバム『Tug Of War』に収められていた感動的なほどシンプルな曲だった。歌詞には「What about the night we cried?」という一節があるが、これは本人の説明によれば、ザ・ビートルズがツアーしていたころのある夜の出来事にちなんだものだという。

その夜、ポールとジョンは一晩中語り合い、やがてどちらも10代のころに母親を亡くしたという共通の悲しい思い出があることに気づいた。ポールがこの曲を初めてライヴで演奏したのは発表から20年後のことだった。しかし今では、これはジョージ・ハリスンの「Something」のカヴァーと並んで、彼のライヴでとりわけ感動的なレパートリーのひとつとなっている。

4位  Every Night(1970年)

1970年のソロ・デビュー・アルバム『McCartney』の中でも際立っている曲のひとつ「Every Night」は、ポールが経験したどん底の日々がテーマになっている。

Every night I just wanna go out, get out of my head
Every day I don’t wanna get up, get out of my bed
毎晩、外に出かけて嫌なことを忘れたい
毎日、ベッドから起きたくもない

本人も認めるように、ザ・ビートルズ解散直後のこの時期、彼はその後遺症と闘っていた。

「想像してほしいんだけど、3人の親友が突然自分に背を向けたらどういう気持ちになるだろう? 自分でも認めなきゃいけない。僕はアルコールに手を出したし、薬物にも手を出した。あれは僕にとってとても難しい時期だった」

 

3位  Live And Let Die(007 死ぬのは奴らだ)(1973年)

ロジャー・ムーアが主演する1973年の007シリーズの最新作にテーマ・ソングを提供してほしいと依頼された時、ポールは実に光栄な気分になった。

「ソングライターとしての野望のひとつは、ジェームズ・ボンドのテーマ・ソングを作ることだった。簡単にできるものじゃないとわかっていたけれど、僕の目には魅力的な仕事だと感じられたんだ」

ジョージ・マーティンがオーケストラの編曲とプロデュースを手がけた「Live And Let Die」は、大ヒットになる可能性を秘めた大作になった。しかしマーティンが完成した曲を映画会社に聞かせたところ、彼は先方の答えに驚くことになった。

「映画では誰にこの歌を歌わせるつもりですか? テルマ・ヒューストンあたり?」

面食らったジョージ・マーティンはこう返した。

「もうポール・マッカートニーが録音を済ませてるじゃないか!」

最終的にはマーティンの意見が通り、ポールのヴァージョンはアメリカとUKの両方でチャートのトップ10に入る大ヒットになった。それから20年後、ガンズ・アンド・ローゼズのカヴァーでこの曲は再びチャート入りした。

2位  Maybe I’m Amazed(恋することのもどかしさ)(1970年)

ポールがソロで初めて録音した大掛かりなサウンドの曲「Maybe I’m Amazed」はヒット・レコードのように聞こえるかもしれない。しかしこれがシングルとして発売されたのは、1976年の3枚組のライヴ盤『Wings Over America』が出た後のこと。

しかもシングル化されたのは、そこに収められていたライヴ・ヴァージョンだった。妻のリンダに捧げたポールの最高のラブ・ソングのひとつである「Maybe I’m Amazed」は、彼のコンサートでは最高に盛り上がる山場となっている。

1位  Band On The Run(1973年)

ポールにとって、1970年代初期はザ・ビートルズの解散後に自分が何をすべきか模索する時期となっていた。彼はまずソロ・アルバムをレコーディングし、次に妻のリンダと一緒にアルバムを作った。さらにその後にはウイングスを結成。しかしザ・ビートルズ時代のような大ヒットは出ず、評論家からの評価も芳しくなかった。

1973年にアルバム『Band On The Run』を録音するためナイジェリアに出発しようとしていた前夜には、ウイングスのドラマーとギタリストも脱退してしまう。しかしポールはへこたれなかった。ザ・ビートルズ時代に時々やっていたように、このレコーディングで自らドラムを叩くことにしたのである。そうして出来たアルバムは、ボールが待ち望んでいた世界的な大ヒット作になった。

重要なことに「Band On The Run」はジョン・レノンからも褒め称えられた。ジョンは、このシングルとアルバムを「素晴らしい曲と素晴らしいアルバム」だと評している。

Written By Paul McGuinness


ポール・マッカートニー『McCartney I II III (Limited Edition Colour 3LP Box Set)』
2022年8月5日発売
3LP


ポール・マッカートニー『McCartney III Imagined』
デジタル:2021年4月16日発売
CD&LP:2021年7月23日発売
CD&LP / iTunes / Apple Music / Spotify / Amazon Music / YouTube Music




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