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いかにしてゴスペルがリズム&ブルースに影響を及ぼしたか:ゴスペルからソウルに転向したサム・クックの死を通して

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サム・クックが、逃げた女をめぐって言い争いになり、その激昂ぶりに恐怖を覚えた安モーテルの夜間管理人に撃たれて33歳の若さで命を落とした後、シカゴで行なわれた追悼式には2万人のファンが弔問に訪れた。エンターテイナーの死はリズム&ブルースやポップスの世界だけでなく、ゴスペル界をも揺るがすことになる。

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ソウル・シンガーのルー・ロウルズとボビー・“ブルー”・ブランドは、ロサンゼルスでの彼の葬儀で歌を捧げた。ゴスペル・シンガーのベッシー・グリフィンも歌うはずだったが、悲しみに打ちひしがれるあまり登壇することができなかった。その代役として名乗りを上げたレイ・チャールズが歌った「Angels Keep Watching Over Me」は、居合わせた人々の心を震わせた。ソウルとゴスペル両方のアーティストたちが共にサム・クックの功績を称え、その死を悼んだことは、世俗の音楽へとクロスオーヴァーした史上最初、そして最大のゴスペル・スターの見送りにはまさに相応しかったと言えよう。ソウル・ミュージックの定義を確立した人物をひとり挙げるとするなら、それは間違いなくサム・クックなのである。

これ以後、彼の死の経緯自体が折々議論の的となっているが、サム・クックの音楽に触れたことのある人々に共通の理解がひとつあるとすれば、それは彼が誰とも違う才能を持っていたということだ。アトランティック・レコードのプロデューサー、ジェリー・ウェクスラーが語る通り「サム・クックはこの世に生を受けた中で最高のシンガーだ、誰も彼には敵わないよ。彼の歌を聴いていると、いまだに信じられない気持ちになるんだ」

1931年、ミシシッピ州クラークスデイルで生まれたサム・クック(Sam Cook、本名では苗字の最後にeはついていない)は、父親がチャーチ・オブ・クライスト・ホーリネスの牧師になったのを機に移り住んだシカゴで育った。10歳になる前には既に、サム・クックはゴスペル・グループで歌い始めていた、ザ・シンギング・チルドレンだ。ティーンエイジャーになると、彼はザ・ハイウェイQCsというゴスペル・グループに加わり、シカゴで巡業を行う名のあるゴスペル・グループ全てのサポート・アクトを務めた。このザ・ハイウェイQCsで歌っている時に彼は、当時ザ・ソウル・スターラーズとザ・ファイヴ・ブラインド・ボーイズ・フロム・アラバマと並び、ゴスペル・カルテット界で互いに競い合う“ビッグ3”の一角だったザ・ピルグリム・トラヴェラーズのシンガー兼マネジャー、J.W.アレクサンダーの目に留まる。

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アメリカの中でもほぼ圧倒的にポピュラーだった地域が南部だったために、別名サザン・ゴスペルとも呼ばれたこのゴスペル・カルテットというスタイルについて、最初に理解しておくべき点は、どのグループもカルテット(4人組)ではなかったと言うことだ。この名称は、彼らが4パート編成(テナー、リード、バリトン、ベース)のハーモニーを使っていたところに由来していた。スタイルの起源はもはや時のもやの彼方に見えなくなってしまったが、恐らくは19世紀後期に進化を始めたものだろう。20世紀の初めにはもう既に、ゴスペル・カルテットは人気を確立していた。

ザ・スタンプス・カルテットは 「Give The World A Smile」というヒット曲を 1927年に出し、タラデガにあるアラバマ・インスティテュート・フォー・ザ・ニグロ・ブラインドから出てきたザ・ファイヴ・ブラインド・ボーイズ・オブ・アラバマやサウスカロライナ州グリーンヴィル出身のザ・ディキシー・ハミングバーズといったグループは第二次世界大戦勃発前から既に人気を誇っていた。その後約20年間にわたり、ニューオーリンズ出身のザ・ザイオン・ハーモナイザーズ、ヴァージニア州ノーフォーク出身のザ・ゴールデン・ゲート・カルテット、そしてナッシュヴィル出身のフェアフィールド・フォーらがスタイルを確立し、グループ同士バスで南部の州を転々としながら、生き馬の目を抜くが如きゴスペル・バトルで互いにしのぎを削り、チトリン・サーキット(訳注:黒人エンターテイナーの出演が呼び物の劇場やナイトクラブ)代わりの教会や公会堂を大いに沸かせ、聴衆を骨抜きにしたのだった。

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ゴスペル・ミュージックは教会の説法から様々な要素をそのステージングに採り入れていた。ピーター・ドゲットが著書『Electric Shock: 125 Years of Pop Music』で述べている通り、「ブラック・ゴスペルの伝統に継承されたのは、牧師と会衆との間での掛け合いやコール&レスポンス、限りなく自然発生的に見える規格化された構成である」。また、多くのアーティストたちがブルースやジャズの要素をゴスペルに採り入れ始めていた、これが明らかに、宗教的領域から‘悪魔の音楽’へと近づく冒涜的逸脱行為であるにも拘わらずである。ジョージア・トムは子供の出産時に妻が命を落としたのをきっかけに、「It’s Tight Like That」のような世俗的音楽から足を洗い、本名のトーマス・A.ドーシー名義でその出来事に触発されたゴスペルの名曲「Precious Lord, Take My Hand」を書き上げた。 グリール・マーカスは1975年出版の出世作であるアメリカ音楽探訪記『ミステリー・トレイン~ロック音楽にみるアメリカ像』(第三文明社・刊)で、 「かつてはいかがわしい歌詞で南部中の敬虔な黒人家庭を憤慨させたこともある……その彼が、ブルースとジャズのモードをミックスし、崇高なテーマを扱うことで、“モダン・ゴスペルの父”と呼ばれるようになったのである。また1939年、汽車に乗っていたドーシーは、当時ヨーロッパで始まったばかりの戦争に対する自らの中の恐怖心と、車窓に突然開けた穏やかな谷間との対比で、黒人霊歌 ‘We Shall Walk Through The Valley In Peace’をベースに、その場で‘Peace In The Valley’を書き上げたのだ」と書いている。

ジュビリー(黒人民謡)・カルテットの中でも屈指の人気を誇り、また絶大な影響を与えたグループのひとつが、ザ・ソウル・スターラーズである。元々はテキサス州トリニティで結成された彼らは、画期的なツイン・リード・シンガーの使い方で、まるでバプティスト教会の忘我の境のようなオーディエンスの熱狂を引き出し、大半のライバルたちを凌駕した。ハイウェイQCsに話を戻すと、サム・クックはJ.W.アレクサンダーに強烈な印象を遺した、その印象のおかげで、ザ・ソウル・スターラーズのリード・シンガー、ロバート・ハリスがツアー中の放埓な生活に対する良心の呵責に耐えかね、グループを去る決断をした時、サム・クックがその後釜として抜擢されたのである。この時、彼は二十歳になったばかりだった。

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ザ・ソウル・スターラーズに加入したサム・クック、下段左

ロバート・ハリスの抜けた穴は大きかった。ゴスペルの歴史に詳しいトニー・ハイルバットは、『The Gospel Sound』の中で、ロバート・ハリスがいかにしてカルテット唱法に新たな定義を打ち出したかを説いている。「歌詞について言えば、彼はアドリブのテクニックを導入した……メロディの面で言えば、キーワードをバックで繰り返すチャントの手法を採り入れた。そしてリズムに関しては、『ディレイをかけて歌うようになったのは俺が最初だよ。俺はグループの歌を半拍後で追いかけるんだ、完全に拍子を外してしまうんじゃなく、クセになるようなシンコペーションを作り出すのに十分な程度でね』とロバート・ハリスは語った」。最初のうち、サム・クックは馴染むのに苦労していた。「加入直後のサムは、ハリスの下手な物真似でしかなかったよ」とザ・ソウル・スターラーズのメンバー、ジェシー・ファーレイは回想する。だが程なくしてサム・クックは自分の声を見つけた。そして、その声の何と素晴らしかったことか。不自然さなどまるでない、苦も無く完璧にコントロールされたサム・クックの歌声は、聴衆をその一語一句で釘付けにした。

深みがありソウルフル、それでいてヴェルヴェットのように滑らかなサム・クックの声は、彼が自らペンを振るう物語調の曲にはまさにピッタリだった。彼は常にソングライティングにおいて大事なことは、子供でも歌えるようなシンプルなメロディだと語っていた。 「Touch The Hem Of His Garment」は、サム・クックのソングライティングと歌のコンビネーションがどれだけ魅力的な音楽を生み出すことができるかという完璧な例である。彼がこの曲を書いたのは、ザ・ソウル・スターラーズとのレコーディング・セッションに向かう途中で、ただひたすら聖書のページをめくり、自分の気に入った話で、かつオーディエンスにも馴染みがあるものを探していたのだと言う。トレードマークのヨーデル(“whoa-oho-oh-oh-oh”)が既にフィーチュアされていた「Touch The Hem Of His Garment」 は、サム・クックのゴスペル時代の音源のひとつだ。彼はこの後、1957年に“悪魔の音楽”へと転向し、還俗した最初のゴスペル・スターとなったのだった。

ピーター・ギュラルニックが『スウィート・ソウル・ミュージック―リズム・アンド・ブルースと南部の自由への夢』(シンコーミュージック・刊)の中で説明している通り、サム・クックの決断はゴスペル界を根底から揺さぶることとなった。「この出来事のインパクトを理解するには、エルヴィス・プレスリーが王位を退いた、あるいはザ・ビートルズが人気絶頂期にイエス・キリストを見つけたのと同じくらいだと想像することが必要だ。ゴスペル界はポップやリズム&ブルースの世界より遥かに小さく、そのために支持者の忠誠心は比べ物にならないほど凄まじく、そんな中で最も人気のあるグループの、しかもアイドル視されていたシンガーが、一時的であれ永久にであれ、“悪魔の音楽”に改宗してしまったという事実は、ゴスペル界にもポップ・ミュージック界にも相当な衝撃波をもたらすに十分だった」。デイル・クックという分かりやすい変名で出されたシングル 「Loveable」に続き、1957年秋、今度はサム・クック自身の名前で リリースされた「You Send Me」は、リズム&ブルースとポップ両方のチャートでNo.1に輝いた。更にヒットは続いた。 「Only Sixteen」、「Cupid」、「Chain Gang」、「Bring It On Home To Me」、「Shake」、その他多数。彼はポップ・チャートだけで29曲のTop 40ヒットを出している。

抜け目のないビジネス・マンだったサム・クックは、自らのレコード・レーベルと音楽出版社を設立し、自分の作品を自分の手で管理する最初のアフリカ系アメリカ人アーティストの草分けとなった。スーパースターとして生きた彼だが、その人生は絶えず悲劇と隣り合わせだった。彼の最初の妻は自動車事故で命を落とし、息子のヴィンセントは自宅の家族用プールで溺死している。

ビリー・プレストンは1981年、モータウン・レーベルから「A Change Is Gonna Come」 を出した

ビリー・プレストンは1981年、モータウン・レーベルから「A Change Is Gonna Come」 を出した

ルイジアナ州シュレヴポートで有色人種お断りのモーテルから宿泊を断られ、ボブ・ディランの 「Blowin’ In The Wind(邦題:風に吹かれて)」を聴いて、サム・クックは多くの人から生涯最高傑作と評価される 「A Change Is Gonna Come」を書く。自らの宗教的な生い立ちから投げかける疑問と、公民権運動の支持者としてのいや増す情熱とを綯い交ぜにしたこの曲を書きあげた後、「きっとうちの親父も自慢に思ってくれるだろう」と彼はJ.W.アレクサンダーに語っていた。曲の中で、彼は“I don’t know what’s up there, beyond the sky(一体この空の向こうには何があるのだろう、それは僕にも分からない)”と歌い、“It’s been a long, a long time coming/But I know a change is gonna come/Oh yes it will(とても長い長い道程だったけれど/僕には分かるんだ、変化の時が近いことが/ああ、そうさ、きっとその時が来る)”と歌詞は続く。彼にこの曲を聴かされた弟子のボビー・ウーマックは、素晴らしいけれど、まるで死を暗示しているかのようだと感想を述べた。サム・クックもその意見に同意した「ああ、俺にもそう聴こえるよ。だからこいつを公の場でプレイすることはきっとないだろうな」。そして本当にその通りになったのだ。この曲がシングル「Shake」のB面としてリリースされる2週間前、サム・クックは銃弾に倒れ還らぬ人となったのだった。

歴史に残るどのシンガーよりも、サム・クックはジャンル全体に絶大な影響を及ぼした。60年代に成功を収めた事実上すべてのソウル・シンガーが、彼の志を継いでいたと言っても過言ではない。 「A Change Is Gonna Come」 は公民権運動のアンセムとなり、サム・クックの崇拝者たちによって何度となくカヴァーされた。サム・クックの旧友アレサ・フランクリンがこの曲をレコーディングした時、彼女は曲の冒頭に独自のイントロダクションを加えた。「昔、古い友達に言われた言葉に、とても心動かされたの、それはこんな風に始まるのよ…」そしてそこから素晴らしいパフォーマンスが始まるのである。

しかしながら、ゴスペル・ミュージックでの成功を足掛かりに、かつては“レイス”・ミュージック(訳注:race=人種という意味だが、要は有色人種、つまり黒人を指す言葉)と呼ばれていた音楽ジャンルがポップチャートへとクロスオーヴァーし、ヒット曲を生み出したのはサム・クックが最初ではなかった。最も重要なパイオニアのひとりが、サム・クックの葬儀でこの上なく優しい歌声を聴かせたレイ・チャールズである。レイ・チャールズはナット・キング・コールのコピーからスタートしたものの、すぐに個性を発揮し始めた。そして自身の心の深い奥底を探るうち、世界に向かって披露することのできるものを発見したのである。彼はそのことについて、50年代初期にこう語っている。「俺は自分の魂を引っ張り出そうとしたんだ、そうすればきっとみんな俺って人間が分かってくれるだろうと思ってね。俺はみんなに自分の魂を感じて欲しいんだよ」。

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(c) Ray Charles Foundation

“ソウル” とは南部の音楽における重要なエレメントとして、宗教の壁に隔てられた両方の側が歳月を追う毎に強く主張するようになった言葉である。その背景をピーター・ドゲッドはこう解説する。「聖職者の娘だったアレサ・フランクリンにとって、“ソウル”は彼女の父親が説教壇の上で歌い、熱弁を振るう様子を体現する言葉そのものだった。一方トーマス・ドーシーにとって、“ソウル”とはあくまである特定の音楽形式を表わす限定的な形容詞だった。アフリカ系アメリカ人によるゴスペル唱歌だ。魂(ソウル)はイエス・キリストのため、心(ハート)は政治とロマンスのためにあるのだから、世俗の音楽は本来“ハート・ミュージック”と呼ぶべきなのだ」。

レイ・チャールズにとって、ソウル・ミュージックの定義は単純に心の奥底にあるものに正直であることだ。彼は自伝の中で、自らのアプローチについてこう説明している。「(ソウルを歌うことを通じて)俺は俺になったんだ。心の堰を開け放って、それまでやったことのないことをやり、みんなに後から言われたけれど、誰も作ったことのないものを作りあげた…ゴスペルの歌詞やメロディを普通の歌に仕立てることを始めたんだよ」。時に目に余るほど露骨なこの方法論(例えば彼は 「This Little Light Of Mine」を 「This Little Girl Of Mine」に仕立て直している)は、彼自身が雇ったミュージシャンたちからも疎まれるほどで、実際バッキング・シンガーのひとりはこんな冒涜的行為は許されないと歌うことを拒み、仕事の場から去ったと言う。レイ・チャールズにしてみれば、多くの人々にとっては革命的であったとしても、自身にとってはごく当たり前のヒット曲の公式を実行したに過ぎなかった。自伝の中でも書かれているが、「俺は3つの時からスピリチュアルを歌ってきたし、ブルースも同じくらい小さい時から聴いてきた。その2つを一緒にするのはごく自然なことだろ?」。

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レイ・チャールズが自分のインスピレーションの原点を3歳の時まで遡ることが出来るなら、ソロモン・バークはそれを軽々と超えている。ソロモン・バークいわく、彼の祖母は彼が生まれる12年ほど前に、既に誕生を夢に見ていたと言うのだ。その夢のインパクトがあまりに大きかったために、彼女は教会を建立して彼の到来を待った、ソロモンズ・テンプル:ザ・ハウス・オブ・ゴッド・フォー・オール・ピープル(すべての人々のための神の家)である。ソロモン・バークは7歳にして説法を始めた。その後数年の間に、彼は‘天才少年伝道師’の評判を得るようになり、12歳にしてラジオやツアーでも説法を行うようになった。成長するにつれ、自らのグループであるザ・ゴスペル・キャヴァリアーズを率いて地元のタレント・コンテストに出場したいという願望を持つようになったが、その夢が潰えると、彼はソロで歌うようになり、非常に鮮烈な印象を遺したために、ニューヨークのアポロ・レコードのオーナーを紹介され、1955年に同レーベルから最初のレコードをリリースする運びとなった。もっともソロモン・バークにはゴスペル・ミュージックに固執する気持ちは最初からなかった(ただし、2010年に亡くなるまで説教壇には立ち続け、副業としてエンバーマー(訳注:亡くなった人の遺体に香油や薬品で防腐処理を施す職業)の仕事も続けていた)。彼は後にアトランティック・レコードと契約を交わし、「Cry To Me」やゴスペル的思想をまとわせた「Everybody Needs Somebody To Love」をクロスオーヴァー・マーケットで 大ヒットさせている。

しかしながら、片方に大きく振れた物事というのはたやすく逆振れするものだ。トーマス・ドーシーの肝入りでキャリアを築いたマヘリア・ジャクソンは、国際的なスターになるにつれ、同胞である黒人の支持層を失ってしまったことに気付いた。そしていま一組、クロスオーヴァーすることを拒絶したゴスペル・グループがスタックス・レーベル所属のザ・ステイプル・シンガーズである。ただ彼女たちは自分たちのレパートリーにポップ・ソングを組み込んだり、キリスト教のテーマだけに拘らず、メッセージ・ソングを歌うことにも意欲的だった。

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サム・クック同様、メイヴィス・ステイプルズもシカゴでゴスペルを歌いながら育った。実のところ2人のシンガーは住んでいた場所も近く、メイヴィス・ステイプルズの回想によれば、その他大勢の未来のソウル・シンガーたちと共に、サム・クックもよくメイヴィス・ステイプルズの家を訪れていたのだと言う。「私はシカゴ育ちでね。住んでいたのは33番通り、そうしてみんな30番通りに住んでいたわ。サム・クック、カーティス・メイフィールド、ジェリー・バトラー…」。

「私は9つになった頃から家族と一緒に歌い始めたの。ポップス(パパ)が私たち子供を居間に呼び集めてね…そうして、彼がミシシッピにいた時に、自分の兄弟姉妹と一緒に歌っていた歌を歌うための声を鍛えてくれたのよ」。言うまでもなく、彼らが歌っていたのはスピリチュアルだった。「私たちが最初にパパから教えてもらった歌が、‘Will The Circle Be Unbroken’だったの」。教会で歌い始めたザ・ステイプル・シンガーズは、あっと言う間に引っ張りだこになった。50年代後半には人気レコーディング・アーティストとなり、とりわけメイヴィス・ステイプルズのディープ・ヴォイスはラジオのリスナーたちを仰天させた。「ディスクジョッキーが番組で言うのよ、このメイヴィスは13歳なんですよって。みんな言ってたわ、『まさかそんな、これがそんな小さい女の子のわけがない。絶対男か、女にしてもデッカい太ったおばさんだろう』って」。

ファミリー・グループのもうひとつユニークな売りが、ポップス・ステイプルズのギター演奏だった。ミシシッピのドッカリー・ファームでチャーリー・パットンやハウリン・ウルフのギターを聴いて育った彼は、何とか彼らのスタイルをコピーしようと腕を磨いていた。「私たちは何年もゴスペルを歌っていたのに、ポップスがその傍らで、ギターで弾いていたのがブルースだったなんて全然知らなかったのよ。」 とメイヴィス・ステイプルズは明かす。けれどこのブルースの影響は、確実に娘の歌に入り込んでいたのだった。カントリー界のレジェンド、ボニー・レイットはメイヴィス・ステイプルズの声を評してこう語っている、「彼女の声にはどこか凄く官能的なものがあって、でも決して下品だとか猥雑にはならないのね。きっとそこがこんなにも多くの人の心を掴んで離さないんだと思うわ。何故って、ブルース・ミュージックの持つセクシュアリティって、ともすれば場末の小汚いロードハウスみたいな嗄れ声を連想しがちでしょう」。宗教的なテーマに対する拘りを捨てることはなかったものの、ザ・ステイプル・シンガーズはディープ・サウスのバイブル・ベルト(訳注:‘聖書地帯’、主にアメリカ南部及び中西部。キリスト教原理主義思想が特に根強く、多様な価値観が受け容れ難い保守的な地域を指す)においては決して超えることの許されない境界を超えていたのだった。

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メイヴィス・ステイプルズ同様、アレサ・フランクリンもサム・クックと多くの共通点を持っていた。彼と同じく、彼女の父親も牧師であり、しかもとてつもなく人気があったのだ。C.L.フランクリンは‘100万ドルの声を持つ男’として知られており、その人気ゆえに彼らの家はサム・クックをはじめ、大勢の有名人が絶えず出入りしていた。アレサ・フランクリンは彼に夢中になり、ツアーに付いて行くようになった挙句、ゴスペルの生い立ちを持ちながら、彼の後を追ってポップ・シンガーになることを選んだ、彼女の父親の後押しを得て。C.L.フランクリンはデビューしてしばらくの間、娘のキャリアのマネジメントを務め、多少の成功を得た。だが彼女が本当の意味でブレイクを果たすのは1967年以降のことである。アトランティック・レコードと契約を交わした彼女は、かの有名なマッスル・ショールズ・リズム・セクションとFAMEスタジオで仕事をするためにアラバマに向かった。ここから次々にヒット曲が生まれた、「I Never Loved A Man (The Way I Love You)(邦題:貴方だけを愛して)」、「Respect」、「(You Make Me Feel Like A) Natural Woman(邦題:ナチュラル・ウーマン)」、「Chain Of Fools」、「I Say A Little Prayer(邦題:小さな願い)」……彼女の中に蓄積されていたゴスペルの影響は、刺激的でパーソナル、かつ喜びに満ちた音楽を、みなぎるパワーと気迫による圧倒的な説得力をもって聴き手に届ける武器となった。

60年代半ばにはサム・クックの影響はどこにでも遍在していた。ソウル・ミュージックは一大ビジネスとなり、その最高位に君臨するスターたちは自らのアイドルを惜しみなく称えた。メンフィスではオーティス・レディングがスタックス・レコード(彼らはチャリースというゴスペル・レーベルを傘下に抱えていた)で大いなる成功を収めたが、1967年にモンタレー・ポップ・フェスティヴァルでロックの観衆の度肝を抜いた際、彼のセットのオープニングはサム・クックの「Shake」だった。そしてこの出演が、伝統的に人種毎に聴く音楽が隔離分断されていたアメリカで、白人オーディエンスにソウル・ミュージックを聴くきっかけを与えることになった(ちなみに“リズム&ブルース”というのは、当時Billboard誌で働いていたジェリー・ウェクスラーが、それまで使われていた‘レイス・ミュージック’・チャートという名称の代わりに提案した呼び名である)。

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オーティス・レディングと並び、ジョー・テックスやドン・コヴェイ、ベン・E.キングやアーサー・コンリーといったソウル・シンガーたちが、サム・クックの後に続いた。だが、ゴスペル・ミュージックの影響はブラック・アーティストだけに留まらない。少年時代のエルヴィス・プレスリーは、生まれ故郷であるミシシッピ州トゥペロの黒人教会の外に座り込み、建物の中から響いてくるパワフルなサウンドに耳を傾けていた。彼はゴスペル・シンガーになることを夢見、プライヴェートでも公の場でも、生涯ゴスペルを歌い続けた。彼が1965年に全英1位を獲得したのは、ジ・オリオールズの 「Crying In The Chapel」の心揺さぶるカヴァーで、そのキャリアを通じていつも歌っていたトーマス・ドーシーの「Peace In The Valley」は、彼のお気に入りの1曲だった。彼がかの有名なミリオン・ダラー・カルテットでジョニー・キャッシュ、カール・パーキンス、ジェリー・リー・ルイスとジャムした時に、セットの大半を占めたのはゴスペル・ナンバーだった。ジョニー・キャッシュとジェリー・リー・ルイスはそれぞれゴスペル・アルバムをレコーディングしており、また他にもリトル・リチャード(1957年、ツアー途中でロックン・ロールを放棄し、神の使命に自らを捧げたことでも有名)をはじめ、多くのロックン・ローラーたちが同様の作品を世に出している。

そして今も、サム・クックの影響は音楽の世界に完全に浸透している。彼の親しい友人であり歌のパートナーでもあったボビー・ウーマックは、自らもソロとして何十年にもわたるキャリアを誇りながら、ファミリー・グループであるザ・ヴァレンティノスでも成功を味わった。彼らの1964年のヒット曲「It’s All Over Now」はザ・ローリング・ストーンズにカヴァーされ、彼らに最初の全英No.1ヒットをもたらした。かのボブ・ディランでさえ、ファースト・アルバムにはトラディショナルな「In My Time Of Dying」(別名「Jesus Make Up My Dying Bed」として知られる)でゴスペルのエレメントを盛り込んでいたのだ。ボブ・ディランのその後の作品にもゴスペルの影響はみとめられ、1969年にロサンゼルスを拠点に活動するザ・ブラザーズ・アンド・シスターズが出したアルバム『Dylan’s Gospel』では「I Shall Be Released」等数多くの彼の曲が力強いゴスペル風の解釈でカヴァーされている(ボブ・ディラン自身はそれから何十年と時を隔てた後にクリスチャン・アルバムを数枚制作している)。

サム・クックが世俗の音楽に転向して60年が経過したが、彼の愛したゴスペル・ミュージックの影響は今も消えることがない。ザ・サウンズ・オブ・ブラックネスやテイク6、カーク・フランクリンら現代のアーティストたちも、このジャンルで自らの解釈を駆使し、絶大な成功を収めている――カーク・フランクリンはひとりで12回もグラミー賞を獲得しており、一方テイク6の2016年のアルバム『Believe』は、現時点までの彼らのキャリアにおける最高傑作の一つと言われている。メイヴィス・ステイプルズは2017年を過去60年とほぼ同じように世界中をツアーして過ごしている。そして現在音楽界で断トツのビッグ・ネームのひとり、カニエ・ウェストは、2016年のアルバム『Life Of Pablo』をゴスペル・アルバムだと語っている。そして、なるほど、その言葉通り、オープニング・トラックの 「Ultralight Beam」にはカーク・フランクリンが参加しているのだ。.

ゴスペルの世界を後にするという、サム・クックにとってはリスク以外の何ものでもなかった行為が、彼の短い生涯を遥かに凌ぐものを生み出し、現在も脈々と生き続けている。サム・クックの名曲にあった予言的な言葉は、彼自身ではなく、彼の音楽にとって現実となったのかも知れない。

 

何度となくもうこの先は永らえられないと思ったことがあった
けれど今 僕は続けていけると思っている
随分長い、長い道程だったけれど
僕には分かる 変化の時が訪れようとしているのが ああ そうとも

サム・クック「A Change Is Gonna Come 」より


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