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R.E.M. -『The IRS Years』

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R.E.M. – 『The IRS Years』
『Murmur(マーマー)』『Reckoning(夢の肖像)』『Fables Of The Reconstruction(玉手箱)』 『Lifes Rich Pageant(ライフズ・リッチ・ページェント)』『Document(ドキュメント)』

オルタナティヴ・ロック界のスーパースター、R.E.M.が解散したのは2011年9月。その時点で全世界における彼らのアルバム・セールスは8,500万枚を超えており、レディオヘッドやコールドプレイ、パール・ジャム、ペイヴメントといった高い影響力を持つバンドが、こぞって彼らのファンであることを公言していた。実際、R.E.M.の解散が発表されてからわずか数日後、グリーン・デイのフロントマンであるビリー・アームストロングと、R.E.M.の元所属レーベル、ワーナー・ブラザーズの社長ロブ・カヴァロの間に交わされた会話がローリング・ストーン誌に掲載され、カヴァロはそこで次のように語っている:「R.E.M.は、彼(アームストロング)が見た、メインストリームを征服した初めてのアンダーグラウンド・バンドだった。彼は当時13歳で、ロックの可能性について彼の認識が変わったのは、それがきっかけだったんだ」。

R.E.M.の決断は世界中の人々に惜しまれたが、彼らが世に送り出してきた一連の驚異的な作品群は、この先何世代にも渡り、新たなファンを驚かせ続けることになるはずだ。その一方、彼らの素晴らしい旅路の出発点は、実に慎ましいものであった。

世界各地で誕生した多くの理想主義的なグループと同様に、駆け出しの頃のR.E.M.もまた、70年代のパンク革命に大きな衝撃を受けていた。ヴォーカリストのマイケル・スタイプとギタリストのピーター・バックが出会ったのは、地元ジョージア州アセンズのレコード店<ワックストリー・レコーズ>でピーターが働いていた時のことだ。二人共、テレヴィジョンやパティ・スミスといった革新的なパンクやポストパンクのパフォーマーが好きだったことから、互いの絆が深まった。

パンクのDIY精神に触発されたバックとスタイプは、1980年初め、ジョージア大学の学生仲間だったベーシストのマイク・ミルズおよびドラマーのビル・ベリーとバンドを結成。伝えられるところによると、バンド名は、トゥイステッド・カイツ(Twisted Kites)やカンズ・オブ・ピス(Cans of Piss)といった候補が却下された後、最終的にR.E.M.に落ち着いたという(通説では、その名前は辞書の見出し語からスタイプがランダムに選んだもので、レム睡眠の“レム”[rapid eye movement=休息眼球運動]が由来だとも言われる)。バンドの初ライヴは、同年4月5日、アセンズにある米国聖公会の教会を改装した建物で開かれた友人の誕生パーティーであった。

スタイプの、奇妙だが観る者を惹きつけるステージ・パフォーマンス(ステージ上で飛び跳ね回ったり、前後の脈略がない不可解な言葉をマイクに向かって呟いたり等)によって、R.E.M.は急速に頭角を現し、地元周辺で多くのファンを獲得。その後1年半に渡って米南部を精力的にツアーすると、彼らの評判は草の根レベルで拡大していった。

1981年夏、バンドはプロデューサーのミッチ・イースターが所有するノース・カリフォルニアのドライヴ・イン・スタジオに入り、デモを録音。それは好評を博した。R.E.M.のファースト・シングルとして、1981年7月に地元アセンズのレーベル<ヒブ・トーン>からリリースされたのが、この時のセッションで録音された2曲「Radio Free Europe」と「Sitting Still」をリミックスした音源だ。1,000枚限定で発売されたこの7インチ・シングルは即ソールドアウトとなり、高い賞賛を受けただけでなく、その年、権威あるニューヨーク・タイムズ紙の『年間ベスト・シングル10枚』の1枚にも選出されている。

1981年10月、R.E.M.はプロデューサーのミッチ・イースターと再びスタジオ入り。ジェファーソン・ホルトとデヴィッド・ヒーリーが主宰する別の地元レーベル<ダッシュト・ホープス>からリリースするEPをレコーディングする予定であった。しかし、ドライヴ・インで録音したオリジナル・デモが、I.R.S.レコードを運営するマイルズ・コープランド3世とジェイ・ボバーグの耳に届くと、それに感銘を受けた彼らが契約に割って入ってきた。

その結果、イースターがプロデュースを手掛けた前述のEP「Chronic Town」は、1982年8月、I.R.S.からリリースされることに。儚げで、美しく、敢えて素朴さを残した同EPには、ファンの間で人気の高い「Gardening At Night(邦題:夜の庭師)」や「Wolves, Lower(邦題:ウルフ、汝、卑しきものよ)」が収録されており、R.E.M.独特の音楽スタイルが展開されている。バックのジャングリーなアルペジオ・ギターと、メロディックで推進力の高いミルズのベースラインが前面に押し出され、スタイプがもごもごしたヴォーカルで不明瞭な詞を歌うこのEPは、即座に評論家達の関心を引いた。英国ではNME誌のリチャード・ゲイブリエルが、これらの曲を「謎めいたオーラがある」と評し、また米国では、影響力のある音楽誌クリームの“ロボット”ことロバート・ハルが「このEPはあまりに不可解で、理解するまでに6回連続して再生しなくてはならなかった」とレヴューで記していた。

「Chronic Town」は、再び予想を超える2万枚以上を売り上げ、1982年末には有名なヴィレッジ・ヴォイス・ポップ&ジャズ誌の年間ベストEP部門で2位にランクインした。だが、真に彼らの名を世に知らしめたのは、1983年4月に発表した初のフル・アルバム『Murmur』であった。

当初I.R.S.は、同アルバムのプロデューサーとしてスティーヴン・ヘイグ(OMD、ニュー・オーダー、PIL)の起用を目論んでいたが、ヘイグのテクニカルなスタジオ・アプローチにバンド自身が不満を表明。結局、バンドはノース・カリフォルニアにあるリフレクション・スタジオへと向かい、ミッチ・イースターおよびドン・ディクソン(後者はノース・カリフォルニアのロック・バンド、アロガンスのメンバーでもある)と共に、セッションを開始した。

『Murmur』は、表面上はロック・アルバムであったが、ギター・ソロや当時流行していたシンセサイザーを意識的に避けており、代わりに提示されていたのが「Talk About The Passion」や「Pilgrimage(邦題:放浪者)」、そしてゴージャスかつメランコリックな「Perfect Circle」といった、儚く内省的な曲であった。中でも「Perfect Circle」は、ビル・ベリーの書いた耳に残るピアノ・メロディがその土台となっている。

スタイプの謎めいた歌詞や、陰鬱で儚げな曲に魅了された評論家達は、『Murmur』を絶賛。同アルバムは、ローリング・ストーン誌の1983年ベスト・アルバム・リストで(マイケル・ジャクソンの『Thriller』や、ポリスの『Synchronicity』をも押さえ)1位を獲得すらしている。商業的にも、同作は好調な売り上げを達成。約20万枚のセールスを上げ、全米チャート(ビルボード200)では最高位36位を記録した。一方、同アルバムのオープニング曲(再録音した、より明るいヴァージョンの「Radio Free Europe」)は米国でマイナー・ヒットとなり、最高位78位を記録している。

驚異的なペースで新曲を書いていたR.E.M.は、『Murmur』ツアーが終わるやいなや、1983年から84年にかけての冬、2作目『Reckoning(邦題:レコニング(夢の肖像))』をレコーディングするためイースターおよびディクソンと共に再びスタジオに入った。わずか3週間で録音した同アルバムは、『Murmur』からの論理的な発展形となっており、「Pretty Persuasion(邦題:想いはひとつ)」や「Second Guessing(邦題:チャンスはもう一度)」といったパンチの効いた強力な曲では、美しく鳴り響くバックのリッケンバッカーの音色が依然として前面に出ている一方、(自動車事故で友人を亡くした喪失感と向き合っている)音数の少ないバラード「Camera」では、バンドのよりダークな側面が示されており、ルーツ調の「(Don’t Go Back To) Rockville」では、プロト・アメリカーナの脇道へと分け入っている。

84年4月リリースの『Reckoning』は、全米チャートで最高位27位を記録し、1年以上に渡ってチャートにランクインし続けた。同作は英国でも温かく迎えられ、NME誌は「このアルバムにより、R.E.M.が地球上で最もエキサイティングなバンドであることが立証された」と宣言。また、英国の有名なテレビ音楽番組『オールド・グレイ・ホイッスル・テスト(The Old Grey Whistle Test)』にも出演を果たした。

R.E.M.は、3作目のアルバム『Fables Of The Reconstrucion(邦題:フェイブルス・オブ・リコンストラクション(玉手箱))』のレコーディングを英国で行うことに決め、米国生まれのプロデューサー、ジョー・ボイド(恐らく最も有名なのは、フェアポート・コンヴェンションやニック・ドレイクら、60年代後半のフォーク・ロックの伝説的アーティストらとの仕事だろう)と共にスタジオ入りした。過酷な英国の冬に耐えながら制作し、ホームシックに苦しんだと言われながらも、この『Fables…』には、R.E.M.にとって、その時点における最高レベルの楽曲が幾つも含まれている。同作は、広い意味での“コンセプト”アルバムとなっており、スタイプの(依然として曖昧な)歌詞の多くは米南部の伝承や地勢と関連。同アルバムには、爽快な「Driver 8」や、性急かつ耳障りな「Auctioneer (Another Engine)」を含む、快活なロック・ナンバーが収録されている。その他、弦楽四重奏が色を添えている陰鬱な「Feeling Gravitys Pull(邦題:マリオネットの夢)」や、フォーク混じりの「Wendell Gee」といった曲は、R.E.M.が、ジャングリーな典型的ジャングル・ポップ・サウンドから脱し始めていることを示唆していた。

全米チャートで最高位28位、また(好評を博したヨーロッパ・ツアーに後押しされ)全英チャートで35位を記録した『Fables…』により、世界的な人気を急速に固めていった彼ら。しかし米本国では、カレッジ・サーキットにおけるカルト人気バンドの地位からなかなか脱出できなさそうに思える現状に、I.R.S.はフラストレーションを感じるようになっていた。

この困難に対し、バンドは1986年7月、傑作『Lifes Rich Pageant』で見事に応酬。ジョン・クーガー・メレンキャンプを手掛けたドン・ゲーマンのプロデュースによる、歯切れの良さと抑制とを備えた同アルバム(そのタイトルは、R.E.M.の曲題・作品タイトルに多く見受けられる短縮形や所有格と同様、敢えて誤った綴りになっている)は、彼らのそれまでの作品中、最も直接的かつ胸を打つものとなっている。「Begin The Begin」や「These Days」といったタフでアンセミックなロック曲ではエンジンをフル回転させている一方、「Cuyahoga」や真情溢れるエコ意識の高い「Fall On Me」では明快さと自信を打ち出すよう、ゲーマンはスタイプに働き掛けた。

その結果完成したのが、R.E.M.史上最も取っ付き易い、ラジオ向きの作品であり、新たに芽生えたこの自信は、やがてセールスに結びついていった。『Lifes Rich Pageant』は全米チャートで21位にまで上り詰め、50万枚以上の売り上げを記録。働き者のこのバンドに、初のゴールド・ディスクをもたらした。

この『Lifes Rich Pageant』と、R.E.M.にとってI.R.S.時代最後のスタジオ・アルバムとなった『Document』の間を繋いでいるのが、1987年4月にリリースされたシングルB面曲およびレア音源をまとめた『Dead Letter Office』だ。長年のファンにとって嬉しいことに、この編集盤には、R.E.M.によるカヴァーの中で最も愛されている曲(パイロンの「Crazy」や、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの「Pale Blue Eyes」、そしてロジャー・ミラーの「King Of The Road」のどたばたしたテイク等)が含まれているだけでなく、入手困難な「Windout」(1984年公開のトム・ハンクス主演のコメディ映画『独身SaYoNaRa! バチェラー・パーティ(原題:Bachelor Party)』のサウンドトラックより)や、1981年に録音したバンドの初デモに遡る「White Tornado」が収録されていた。

『Dead Letter Office』は、R.E.M.の地図上、必要不可欠な回り道であったが、1987年におけるバンドの主な焦点は、正式な5作目アルバム『Document』の制作にあった。プロデューサーのスコット・リット(ニルヴァーナ、ザット・ペトロル・エモーション)が手掛けた(R.E.M.作品)6作のうち、第1作目となった『Document』は、『Lifes Rich Pageant』の後を受けた、知性的かつ切迫感のある、メインストリーム指向のロック・アルバムであった。R.E.M.のアルバム中、現在も最も魅惑的な作品の1つである本作で繰り広げられている数多くのハイライトには、闘志溢れる「Exhuming McCarthy(邦題:マッカーシー発掘)」(ここでスタイプは、イラン・コントラ事件を批評している)や、嵐のように激しいワイアーのカヴァー曲「Strange」、そしてバンドにとって初の全米トップ10ヒットとなった、鬱積した感情がくすぶる「The One I Love」が収録されている。

同アルバムは評論家筋から絶賛され、R.E.M.がローリング・ストーン誌1987年12月号の表紙を飾った際には「アメリカ最高のロックン・ロール・バンド」と銘打たれたほどであった。『Document』は全米チャート10位を獲得。1988年1月までには100万枚以上を売り上げ、バンドは初のプラチナ・ディスクを達成した。

世界を手中に収めたR.E.M.は、『Document』のリリース後、I.R.S.との契約が満了した時点で同レーベルから移籍。1988年初めにワーナーと契約を結んだ。誉れ高いこの新たな契約からは、やがて時代を決定づける傑作の数々が生み出されることになるが、バンドが次の正式なスタジオ・アルバム『Green』をリリースする前に、その時点までのR.E.M.のキャリアをコンパクトに要約したベスト盤『Eponymous』がI.R.S.から発売されている。この優れたアンソロジーにはバンドも音源を提供しており、それまでの重要なシングルの大半に加え、初音源化された「Romance」(1987年のコメディ映画『メイド・イン・ヘブン(原題:Made In Heaven)』のサウンドトラックより)や、ますます入手困難となっていたヒブ・トーン・ヴァージョンの「Radio Free Europe」が収録されていた。

文-Tim Peacock

 

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R.E.M. - Green

 

 

 

 

R.E.M. - The Yearly Years

1982 Tour Poster

R.E.M. - The Yearly Years

R.E.M. 1984

R.E.M. - The Yearly Years

1984 Reckoning band shot

R.E.M. - The Yearly Years

1985 Fables band shot

R.E.M. - The Yearly Years

1985 pre-Pageant band shot

R.E.M. - The Yearly Years

1987 Document band shot

R.E.M. - The Yearly Years

R.E.M. 1980s live

R.E.M. - The Yearly Years

NYC Radio City Music Hall, 1986

R.E.M. - The Yearly Years

Rolling Stone, December 1987
R.E.M. – アナログ 
Lifes Rich Pageant』、Dead Letter Office』、 『Eponymous』がアナログ盤で再発。

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