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R.E.M. -『Green』

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R.E.M. – 『Green』

1988年初頭、R.E.M.の足元に、世界がひれ伏しているように思われた。彼らの通算5作目かつI.R.S.からの最終作となった1987年の『Document』は、バンド初のミリオン・セラーとなり、その途中でローリング・ストーン誌に『アメリカ最高のロックン・ロール・バンド』と称えられたばかりであった。

I.R.S.との契約が満了したR.E.M.は、多数のメジャー・レーベルと交渉を開始。最終的に1988年4月、ワーナーと契約を結んだ。この新たな契約は、必ずしも最大の金額を提示されたものではなかったが、バンドに完全な創作上の自由を与えるとワーナーが保証していたことが、重要な決め手となった。それはバンドのあらゆる活動にとって不可欠な、核心的問題であった。

それと同じ時期、ビル・ペリー、ピーター・バック、そしてマイク・ミルズの3人は、気軽なセッションを再開するため、バンドの故郷ジョージア州アセンズにあるロビー・コリンズ運営のアンダーグラウンド・サウンド・スタジオに入った。同スタジオにいる間、彼らは基礎となるデモを録音。後にヴォーカリストのマイケル・スタイプがそれを活用し、新曲用のヴォーカル・メロディとアレンジを組み立てた。

ワーナーと契約してからまだ間もない頃、R.E.M.は、『Document』を手掛けたプロデューサーのスコット・リットと共にテネシー州メンフィスにあるアーデント・スタジオに篭り、次のアルバム『Green』に向けた基本トラックのレコーディングを開始。アーデントでのセッションは88年5月後半から7月初めまで続き、その後、ニューヨーク州北部にあるベアーズヴィル・サウンド・スタジオに場所を移して、レコーディングとミキシングを続行した。

『Green』のセッションが完了したのは、1988年11月に同アルバムが最終的にリリースされるわずか2ヶ月前のことだ。この時のセッションは非常に骨が折れたが、同時に生産的であった。彼らはジャングリーなポップ・サウンドで称賛を受けていたが、アルバム『Fables Of The Reconstructions(邦題:フェイブルズ・オブ・ザ・リコンストラクション~玉手箱~)』収録の「Wendell Gee」で早くもバンジョーを取り入れていたように、そういったジャングル・ポップから脱却したいという意向をかねてから仄めかしていた。ベリー、バック、ミルズの3人は、『Green』のセッション中、自分達の能力をより多方面に広げようと心に決め、しばしばお互いの役割を交換、もしくは普段使っているギターやドラムスを脇に置いて、アコーディオンやマンドリンといったアコースティックの楽器を弾いたりもしていた。

噂によれば、『Green』のセッションが本格的に開始される前、マイケル・スタイプは他のメンバーに、「R.E.M.っぽい曲はもう書かないように」と伝えたと言われている。それは、後にデヴィッド・バックリー(R.E.M.の伝記本『R.E.M.: Fiction: An Alternative Biography』の著者)が、『Green』について「魅惑的なまでに多彩」だと力説したアプローチであった。

『Green』の収録曲には、多彩であると同時に人の心を捉えて離さない説得力があった。思索的な3つのアコースティック曲、つまり「Hairshirt」と仄暗く牧歌的な「You Are The Everything」、そして胸を打つ「The Wrong Child」は、最終的に本作に収録されることになったが、それらは「Pop Song ’89」や、耳障りに軋む「Get Up」、そして軽快なバブルガム・ポップ「Stand」といった、自己主張のしっかりしたロック・ソングと巧くバランスを取っている。同アルバムからシングル・カットされた4曲のうち、第2弾としてリリースされた「Stand」は、全米シングル・チャート6位に食い込んだ。

その他、マイケル・スタイプが政治や環境問題に対して急速に関心を深めていたことから、『Lifes Rich Pageant』や『Document』といったアルバムでも既に、「Fall On Me」や「Cuyahoga」「Exhuming McCarthy(邦題:マッカーシー発掘)」といった幾つかの重要曲が生まれていたが、『Green』でも彼は同様の問題からインスピレーションを得た曲を幾つか書いており、ここでは公害を題材にしたうねるような「Turn You Inside Out」や、アンセミックな「Orange Crush」といった痛烈な楽曲が生み出された。ベリーのせわしないハイハットと歯切れの良いミリタリー風のスネアに駆り立てられている「Orange Crush」の曲題は、モンサント社とダウ・ケミカル社が米国防省向けに生産していた枯れ葉剤『エージェント・オレンジ』に言及。これはベトナム戦争中、積極的に使用されていた製品である。このテーマはスタイプにとっては特に個人的なものであった。というのも彼の父親は米陸軍に勤務していたため、ベトナムは彼にとって葛藤のある問題だったからだ。

だがそれよりさらに両義的なのが、不吉な雰囲気を醸し出している「World Leader Pretend」だ。音的には優美で、ジェーン・スカーパントーニによる圧倒的なチェロ、そしてボブ・ディランやスティーヴ・アールとセッションしていたバックリー・バクスターによる揺らめくペダル・スティールで巧みに彩られているこの曲には、スタイプの筆による興味深い歌詞(ジャケットに掲載)が付けられている。R.E.M.側から1988年に配られた報道関係者用資料『Should We Talk About The Weather?』の中で、スタイプはその歌詞について「政治的な歌だけれども、政府に対する非難演説ではない」としていた。

公式なトラックリストでは、重苦しい「I Remember California」の不吉な引き潮の波が『Green』を締めくくっているが、同アルバムには無題の11曲目が収録されており、ここではベリー、バック、そしてミルズが、アコースティック楽器を互いに交換して弾いている。くつろいだ雰囲気で楽しげな、そしてスタイプの両親への贈り物として書かれたラヴ・ソングだと言われているこの曲には、“グラスノスチ”や“ペレストロイカ”といった平和関連の流行語が使われており、世界が冷戦の雪解けを感じていたあの当時にふさわしい楽観的な結末で『Green』を飾っていた。

マイケル・スタイプは、この楽観的な気分を感じ取っていた。『Green』のリリースに際し、バンド側は、米国大統領選挙に合わせた1988年11月7日を発売日とするよう要請。この選挙でR.E.M.は、共和党のジョージ・H・W・ブッシュ候補と争っていた民主党のマイケル・デュカキス候補を応援していた。後にスタイプは、希望と励ましの表示行為として、本作を企図していたと明かしている。「このアルバムは、人の気持ちを強く鼓舞するような作品にしなくてはいけないと心に決めていたんだ」と、彼は1989年4月のローリング・ストーン誌とのインタビューで語っていた。「必ずしもハッピーなものではなくても、僕らが現在生きているこの世界に対する既製の皮肉な物の見方や、安易な非難を相殺するような、励みとなるアルバムにしなくては、ね」。

スタイプは『Should We Talk About The Weather?』の中で、本アルバムのタイトルの意味も明かしていた。「言うまでもなく、そこには政治的な含みがある。今現在、それはこれまで以上に当てはまっていると思うんだ」とスタイプ。「それから自然に関する側面も、確かにあるよ——“グリーン(緑)”と言えば、人は木々を思い浮かべるからね。シンプルな話だろ。それに“グリーン”というのは、このバンドと僕らの現在の立ち位置をすごく明確に表していると思う。僕らはある意味、再出発をしているんだ。そして僕ら全員が、それをはっきり意識しているんだよ」。

米英で1988年11月にリリースされた『Green』は両国で非常に高い評価を受け、英国で一目置かれている月刊音楽誌Qは同作に満点の5つ星を付けた。評者のアンディ・ギルは、そこで非常に的を射た問いを投げかけている:「R.E.M.は、世界最高のバンドだろうか?」と。

この温かい評価を受け、『Lifes Rich Pageant』が1986年にゴールド・ディスクを達成して以来増していた勢いが加速し、『Green』はさらに大きな商業的実績を上げた。北米ではダブル・プラチナ(200万枚以上のセールス)を達成、また英国では(バンドにとって)初のプラチナ・ディスク認定を受け、「Orange Crush」は全英シングル・チャートで最高位28位を記録している。

『Green』を引っ提げたツアーは、R.E.M.にとって、その時点でキャリア史上最もハードな、そして視覚的に最も先進的なものとなった。『Document』のリリース後に行われた『Work』ツアーと比べ、遥かに大規模なものとなった『Green』ツアーでは、ステージの背景に巨大なプロジェクションとアート映像を使用。R.E.M.は一時的な“5人目”のメンバーとして、ギター兼キーボード奏者のピーター・ホルサップルを加え、5人組として活動していた。彼は高い評価を得ていたノース・カロライナのジャングル・ポップ・バンド、The dB’sの元メンバーである。

全4行程、140公演に及ぶ大掛かりなこの旅で、バンドは極東からオーストラレーシア、ヨーロッパ全土の他、2度の北米ツアーを含む大々的なツアーを行った。この『Green』ツアーは、1989年に世界で行われたロック・ツアーの中でも、最も名の知られた、そして最も高い評価を受けたツアーの1つとなった。筆者が目撃した同年5月27日の英マンチェスター・アポロ公演は、間違いなく、これまでに足を運んだ中でも最高ランクのライヴの1つとして、現在もその地位を占め続けている。怪物のように強力な全26曲を通じて、R.E.M.はひたすら熱く暴れ回り続け、アンコールは7回。最後の最後を締めくくったのは、うっとりするようなヴェルヴェット・アンダーグラウンドのカヴァー「After Hours」であった。

『Green』ツアーの公式な最終公演は、建前上は11月11日にジョージア州メイコン・コロシアムで行われたライヴだが、R.E.M.はその2日後、アトランタのフォックス・シアターで異例の追加公演を行っている。そこではデビュー作『Murmur』の全曲と『Green』の全曲を演奏するという、長時間のセットが披露された。両アルバム共、1曲目から最後の曲まで収録順にプレイされ、この公演は「The Wrong Child」がライヴ演奏された史上唯一の機会となっている。

さらなる称賛を浴びたのが、貴重な長編ドキュメンタリー『Tourfilm』(1990年にVHSでリリース、2000年にDVD化)で、R.E.M.のUSツアーにおける最も印象的なパフォーマンスの幾つかがそこには収録されている。バンドはエンジン全開で、絶好調のスタイプは実に魅力的であり、シド・バレットの「Dark Globe」や、ギャング・オブ・フォーの「We Live As We Dream Alone」といった、彼が個人的に好きな曲の断片を交えながら曲を紹介する場面もあった。基本的にモノクロ映像で撮影され、手持ちカメラによる距離感の近い映像を数多く収録した『Tourfilm』には、『Green』ツアーにおける極上の瞬間の数々が映し出されており、ロック史上の真に偉大なライヴ・パフォーマンス・ビデオの最高傑作の1つであり続けている。

『Green』により、ロックン・ロール界のメインストリームへと攻め入ったR.E.M.:最強の者だけが生き残れる台風の目の中で、彼らは成功を収めたのだ。ツアー中に「Low」や「Belong」といった新曲を聴いたファンは、ベリー、バック、ミルズ、そしてスタイプが、既に未来を思い描いていることに気づいていた。だがこの翌年、彼らは静養のため長い休息を取り、『Out Of Time』の構想を練り始めたのはその後のこと。同アルバムはやがて、彼らを地球規模のスーパースターダムへと押し上げることになる。

– Tim Peacock

 

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R.E.M. – アナログ 
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