ボブ・マーリー・アンド・ザ・ウェイラーズは長年カルト・ヒーローの地位にいたが、『Rastaman Vibration』でとうとうチャート上の成功も手にした。1976年4月30日にリリースされたこの作品は、同全米トップ10に食い込んだ同バンドにとって初めて(そして唯一)のアルバムとなった(マーリーの死後にリリースされたコンピレーション『Legend』は除く)。また、イギリスのチャートでも最高15位を記録した。
商業的な魅力と哲学的な力を持った『Rastaman Vibration』だが、驚くべきことにマーリー・クラシックと呼べる名曲はほとんど収録されていない。クリエイティヴな観点において、同アルバムは『Live!』(1975年)と『Exodus』(1977年)という歴史的価値のある傑作の間で押しつぶされた形となった。
ジャマイカのキングストンでレコーディングされ、フロリダ州マイアミでアストン・バレットとアイランド・レコード社長のクリス・ブラックウェルによってミックスされた『Rastaman Vibration』は、ローリング・ストーン誌の批評家が描写していたように、「革命とトップ100の中間という一貫性のない立ち位置」を取っていた。
アルバムの「革命」的な側面は、「War」で最も顕著に表れている。1963年の国際連合でハイレ・セラシエが行った著名なスピーチを基に作られた曲だ。「Until the philosophy which holds one race superior and another inferior(ある人種が優位、ある人種が劣位という思想が) / Is finally and permanently discredited and abandoned (最終的かつ永久的に信憑性を失い、捨て去られるまで)/ Everywhere is war(至るところで戦いは続いていく)」とマーリーは歌っている。同曲の歌詞にあるイデオロギー的説得力は、誌的というよりも論争的だ。
カソリック信仰で育ったマーリーは、熱心なラスタファリアンだった。ラスタファリアリズムは1930年代にジャマイカで根付いた宗派である。ラスタファリ運動は、エチオピアの皇帝ハイレ・セラシエが、神の化身であるという信念を基にスタートした。1975年に83歳で死去したセラシエが自らを神の化身だと名乗ったわけではないが、この考えを阻止しようともしなかった。マーリーは「ハイレ・セラシエ皇帝が神であることは知っている。彼が俺を創造したんだ」と彼自身が信じる事実を簡潔に述べている。ラスタファリアニズムの信条は、マーリーの生活、音楽、文化的な世界観にとって要となるものだった。ラスタは、マリファナを宗教的な聖なるものと信じており、マリファナを吸うことは、カソリックの聖体拝領式と同格の儀式であると考えていた。したがって、敬虔なラスタにとって、マリファナを吸うという行為はジャー(神)と向き合う手段だと考えられていた(ただし、一般の人々や警察当局は、ハイになって楽しむ違法行為と考えることが多かった)。ラスタは決して髪を切らない。その代わり、彼らはドレッドロックとして知られるヘビのようならせん状のカールを編む。このスタイルは、ライオン・オブ・ジュダ(数多くあるセラシエの職名のひとつであり、エチオピア国旗にも描かれることがあるエンブレム)にヴィジュアル的に敬意を表したものだ。
音楽、マリファナ、ジャーが世界の問題を解決するというマーリーの信条は、決してぐらつくことはなかった。彼の哲学は、厳しい宗教的規範に支えられていた。「The wages of sin is death (罪の報いは死)/ The gift of Jah is life(ジャーの贈り物は命)」と彼は「Johnny Was」で歌い、息子がゲットーのストリート・ファイトに巻き込まれて銃殺された母親の痛ましいストーリーを気品を持って語っている。マーリーは、全ての人々に平和と愛を信条とする政治システムを支持していたが、革命的な熱意で底辺層の人々を擁護したため、時に気まずさを生み出した。例えば、「We’re gonna chase those crazy baldheads out of town」と彼は「Crazy Baldheads」で歌っている(「baldheads」は白人を意味するラスタの軽蔑語だ。その白人がレゲエ・ファンか否かは関係ない)。
アルバム全曲が、宗教的な教義や社会政治的なイデオロギーを多分に含んでいたにもかかわらず、『Rastaman Vibration』は商業的なメインストリームの世界にも精力的に宣伝された。1曲目の「Positive Vibration」は、「Live if you want to live(生きるなら、思いきり生きろ)」、「Make way for the positive day.(ポジティヴな日に道を譲れ)」といった陽気で心地良いスローガンが、穏やかかつ軽快に謳われている。甘美なコーラスと爽やかなサクソフォン・アレンジを持つ「Roots Rock Reggae」は、アメリカのラジオ・プログラマーに対し、マーリーの曲をラジオでかけてほしいと臆面もなく訴えている曲だ。「Play I on the R&B(R&B局で俺をかけてくれ)/Want all my people to see(同胞みんなに見てほしいんだ) / We bubblin’ on the Top 100(俺たちがトップ100を賑わしてるところ) / Just like a mighty dread.(ドレッドロックの男らしく)」。1966年のウェイラーズの曲を再レコーディングした「Cry To Me」は、甘やかでソウルフルな楽曲だ。豪華なハーモニーと軽快な雰囲気を持つ同曲は、あらゆる悩みの種に対し、赦しと安らぎを与えてくれる。
テイストメイカー(流行を作り出す人々)へのプロモーションが明らかに功を奏し、『Rastaman Vibration』は、マーリーとウェイラーズが4月23日のペンシルヴァニア公演を皮切りに行った全米ツアーの最中、チャートを着実に駆けあがった。その後彼らはヨーロッパとイギリスへ向かい、イギリスではロンドンのハマースミス・オデオンで4日間6公演を行った。アルバムのレビューも公演のレヴューも、マーリーの豊かな才能とカリスマについてだけでなく、ウェイラーズによる名人級のパフォーマンスについても語られていた。特に、カールトン(ドラム)とアストン(ベースとアルバムのコ・プロデュース)からなる長年のリズム・セクション、バレット兄弟を讃えていた。
過去作同様、『Rastaman Vibration』の楽曲の大半で、誤ったソングライティング・クレジットが記載されている。マーリーがかつて契約していた音楽出版社、ケイマン・ミュージックとの争議が続いていたためだ。今回、曲のクレジットを手に入れたのはヴィンセント・フォード(車椅子に乗り、キングストンで貧困者のための無料食堂を運営していたマーリーの友人。「No Woman, No Cry」の作者としてもクレジットされている)、リタ・マーリー、バレット兄弟だ。1987年、同アルバムそしてその他のアルバムでも全曲が実際はマーリーによって書かれてたものであるという判決が出たことで、その時点から音楽出版のクレジットはボブ・マーリー・エステートに再譲渡された。
バンドがチャートでブレイクしたアルバムという地位を持つ『Rastaman Vibration』だが、マーリーは音楽的にも個人的にも過渡期にあった。10年以上も無名に近い状態で活動した後、マーリーは、ようやく世界的な舞台において、独特のカリスマを持つ第三世界のスターとして認知され、母国では預言者に近い存在として讃えられた。この頃、ジャマイカでは総選挙が近づいていた。そしてマーリーは、混乱と危険の時代に投げ込まれながらも、目覚しい功績を残すことになるのだった。
David Sinclair
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