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レゲエを作ったスタジオとプロデューサー達:スタジオ・ワン、タフ・ゴング、リー・‘スクラッチ’・ペリー

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1976年夏、ジャマイカのキングストン、マックスフィールド・アヴェニューの舗装道路は暑さで溶けだしていた。ゲットーは、どこよりも気温が高いのだ。そしてPNP(人民国家党)対JLP(ジャマイカ労働党)の政治的絡みのギャング抗争が激しく続いており、チャンネル・ワンでは、スタジオの扇風機が休む暇なく動いていた。新しいセッションでキングストン屈指の面子が、歴史に残る傑作リディムをレコーディングしようとしていた。しかし彼らはただ、自分の仕事をしていただけだ。マリファナ煙草に火が点く。ミキシング・デスクにはジョ・ジョ・フーキム、ドラムにはスライ、ベースにはロビー、パーカッションにはスティッキー(・トンプソン)と(ノエル・)スカリー(・シムズ)、ギターにはダギーとチャイナ、そして、ホーン・セクションも凄かった。テナーにトミー・マクック、トランペットにボビー・エリス、トロンボーンには‘ドン’・ジュニア、アルトにはハーマン・マークイス。こうしてリディムが炸裂した。スタジオのゲートの外では、ミュージシャン、シンガー、ディージェイ(ラッパー)が待っていた。誰もが中に呼ばれて、レコーディングに参加するチャンスを待っていたのだ。偉大なアイ・ロイは、辛抱強く3人の仲間とドミノをしていた。暗くなり、路上にいるのが危険になると、彼はスタジオに入り、『Musical Shark Attack』を完成させた。そして同アルバムは、後にヴァージンからリリースされた。

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フーキム4兄弟(ジョ・ジョ、ケネス、ポーリー、アーネスト)は中国系ジャマイカ人で、家族はアイスクリーム店を営みながら、ギャンブル用スロット・マシーンをバーに貸し出す商売をしていた。ギャンブルが法的に禁止されると、一家はジュークボックスを取り扱うようになり、そこからさらに発展して、サウンド・システムを所有するようになった。60年代のコクソン・ドッドとデューク・リードの例からも分かるとおり、サウンド・システムは、新鮮なダブ・プレートと楽曲を観客に提供しなければならなかった。こうして1972年、フーキム兄弟はキングストン13地区のゲットーのど真ん中、マックスフィールド・アヴェニュー29番地にスタジオを作った。彼らはAPIのミキシング・ボードを独学し、スライ・ダンバーの‘ロッカーズ’・スタイルを形成したユニークなドラム・サウンドを開発した。70年代半ばまでにはヒットが次々に生まれ、彼らがスタジオの向かいに作った自社プレス工場、ヒット・バウンドはフル稼働していた。マイティ・ダイアモンズの「Right Time」や「I Need A Roof」といった名曲は、このスタジオでレコーディングされた。

マックスフィールド・アヴェニューを左に曲がり、ルソー・ロードの先にあるリタイアメンド・ロード沿いを歩くと、ソニック・サウンズ(これもプレス工場だったが残念ながら現在は閉鎖されてしまった)があった。70年代には、リタイアメント・クレッセント24番地で、ジョー・ギブスがヒットを量産していた。彼はエンジニアのエロル・E.T.・トンプソンとコンビを組んでマイティ・トゥーとなり、70年代にヒットを連発した。ジョー・ギブスはミュージシャンではなかったが、キングストンの精鋭ミュージシャンを自身のレコーディングで起用する才覚があった。ジャマイカのスタジオは、それぞれインハウス・バンドを持っており、ジョー・ギブスのバンドはザ・プロフェッショナルズと呼ばれていた。彼らの『African Dub Almighty』シリーズは、イギリスのパンク・ロッカーから大きな人気を得た。カルチャーやデニス・ブラウンの傑作やUKチャート・ヒットの中にも、ギブスによるプロデュース作品がいくつか含まれている。

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炎天下の中、埃っぽい道を5分ほど歩くと、キングストンで最も有名なスタジオである伝説的なスタジオ・ワンが、ブレントフォード・ロード(今はスタジオ・ワン・ブルヴァードに改名されている)13番地にあった。同スタジオを1963年にオープンしたクレメント・‘コクソン’・ドッドは、アメリカにも行ったことがあった。アメリカでは、自身のサウンド・システム用の曲を仕入れただけでなく、ブルースのレコーディング技術を学んだのだ。 ジャマイカにも独自のダンス・ミュージックを作るべき時が来たと考えたコクソン・ドッドは、60年代に真の先駆者となり、道を切り開いた。彼は、スカタライツの中心メンバーなどをセッション・ミュージシャンに擁し、ジャマイカで才能のある新人はオーディションを受けようとこぞって彼のもとを訪れた。彼は従兄弟のシド・バックナーと、サウンド・システムの建設者だったヘッドリー・ジョーンズとともに、1トラックのスタジオをスタート。その後、スタジオは2トラックとなり、さらに1965年には8トラックにアップグレード。当時はスカからロックステディへの変遷期で、多くの曲が制作された。キャリアを通じて、彼は6,000曲以上をリリースしたと推定されている。ケン・ブースからデルロイ・ウィルソン、ザ・ウェイラーズに至るまで、レゲエの重鎮は皆、このスタジオからキャリアをスタートした

さらにダウンタウンへと進み、ボンド・ストリートを歩くと、60年代にはそこにトレジャー・アイル・レコーディング・スタジオがあった。これは、サウンド・システム界に君臨していたもう1人の大物が、家族の経営する酒屋の上階に作ったレコーディング拠点だった。元警察官のデューク・リードは、60年代にロックステディの名曲の数々をプロデュースした。フィリス・ディロンの「Midnight Confession」、パラゴンズの「Tide Is High」(後にブロンディがカヴァーした)をはじめ、彼は数えきれないほどの名曲をプロデュースした。デューク・リードがエース級トースター(ラッパー)、U・ロイを起用し、特に人気の高いリズムに乗せてラップさせると、さらなる革新が起こった。

ボンド・ストリートを左折してビーストン・ストリートを進むと、オレンジ・ストリートが見えてくる。おそらく、オレンジ・ストリートはレゲエの歴史の中で最も有名な道路だろう。経済的に余裕のある大物プロデューサーやアーティストの多くは、ここにレコード店を出しており、オレンジ・ストリートは‘ビート・ストリート’として知られていた。プリンス・バスターはここを本拠としていた(2014年に閉店したものの、まだここには彼のショップ跡地がある)。知名度は高くないが当時活躍していたプロデューサー、レスリー・コングも、自身の主宰するビヴァリーズ・レコードの拠点をオレンジ・ストリートに置いていた。レスリー・コングは、「Soul Shakedown Party」といったザ・ウェイラーズ初期の名曲や、ピーター・トッシュの「Stop That Train」をプロデュースしていた。オレンジ・ストリートを南に進むと、パレードと呼ばれるキングストンの主要広場に出る。この広場で、大きなコロネーション・マーケットがスタートした。‘ベンド・ダウン・プラザ(かがみこむプラザ)’として知られる同広場では、行商人たちが商品を地面に広げて売っていたことから、このニック・ネームがついた。

チャンセリー・レーンとノース・パレードの角にも、重要なスタジオがあった。ランディーズ・スタジオ17は1969年、ヴィンセント・‘ランディ’・チンによってスタートした。同スタジオは、ノース・パレード17番地で、彼が妻のパトリシアと営んでいたレコード店(最初はアイスクリーム・ショップだった)の上にあった。弟のクライヴ・チンがプロダクション担当となり、先述のE.T.・トンプソンは、ここでエンジニアの腕を磨いた。さらに従兄弟のハーマン・チン・ロイも加わり、ここで‘ファー・イースト・サウンド’が生まれた。ホレス・スワビー(オーガスタス・パブロの本名)は、ハーマン・チン・ロイがアップタウンのハーフウェイ・ツリーで経営していたレコード店、アクエリアスの外でメロディカを吹いているところをハーマン・チン・ロイに見出され、そのままダウンタウンのスタジオに連れて行かれた。こうして伝説が誕生したのだ。1972年、チンのレーベルはオーガスタス・パブロのインストゥルメンタル『Java Java』で大きなインパクトを遺すと、スタジオは大人気を博した。オーチョ・リオスを拠点とするプロデューサー、ジャック・ルビーはバーニング・スピアの最高傑作をこのスタジオでレコーディングした。チャンセリー・レーンとノース・パレードの角は‘アイドラーズ・レスト’と呼ばれ、次世代を担うキングストン屈指のアーティストが大勢くつろいでいた。シンガーのリロイ・スマートや、DJのディリンジャー、ビッグ・ユースは常連だった。彼らは海外ツアーを成功させて帰国し、クラークスのブーツをお土産に持ち帰ってきたことで良く知られていた。残念ながら、治安の悪化にともない、チンは70年代後半にスタジオを閉鎖した。彼らはニューヨークに移住すると、いまや世界的なレーベルとなったレゲエ・ミュージックの流通会社、VPを設立した。

DYNAMIC

今度はスパニッシュ・タウン・ロード沿いに西に進み、スリー・マイル(ダウンタウンからの距離を示す)、そしてベル・ロードを進もう。ダイナミック・スタジオ、そしてボブ・マーリーのタフ・ゴング・スタジオはここにあり、今でも運営されている。1963年、バイロン・リーは、後に首相となるエドワード・シアガがベル・ロード15番地に所有していたWIRL(ウェスト・インディーズ・レコーズ・リミテッド)を引き継ぐと、スタジオをダイナミック・サウンズに改名した。そして現在に至るまでメジャーなスタジオであり続けている。ザ・ローリング・ストーンズは1972年、このスタジオで『Goats Head Soup(邦題:山羊の頭のスープ)』をレコーディングした。

スパニッシュ・ロードを西に1マイル進んで右折し、ペンウッド・ロードに入ると、ウォーターハウスというエリアに辿りつく。政局が混乱していた頃、ウォーターハウスはファイヤーハウスというニック・ネームをつけられていた。ドロミリー・アヴェニュー18番地にある1階建の質素な家の中で、オズボーン・ラドック(*キング・タビーの本名)という電気技師が小さなヴォイシング/ミキシング・スタジオを作っていた。バスルームがヴォーカル・ブースとなり、彼が自らカスタム・メイドした小さなミキシング・デスクを使って、世界に影響を与えた重要な作品がミックスされた。キング・タビーとして世界中に知られている彼がサウンド・システム、そしてスタジオ技術を革新した話は、今や伝説となっている。バニー・リーやナイニー・ジ・オブザーヴァーといった大物プロデューサーは、このスタジオでいつもミックスを行っていた。また、このスタジオはヤビー・ユーやグレン・ブラウン、キース・ハドソンなど、よりルーツィーで風変わりなプロデューサーを強く惹きつけた。キング・タビーのヴァージョン、つまりシングルのダブBサイドは、ヴォーカル入りの曲よりも高い人気を誇った。プリンス・ジャミーとサイエンティストが修行したのもこのスタジオだ。キング・タビーは真のパイオニアで、70年代で多くの‘ダブ’を作っただけでなく、80年代のダンスホール時代に入っても活躍したが、1987年に殺人によって非業の最期を遂げた。彼の友人で弟子でもあったロイド・‘ジャミー’・ジェイムズと彼の息子たちが、キング・タビーのスタジオにほど近いセント・ルシア・ロードのスタジオで、彼の音楽的遺産を受け継いでいる。

Remains Of Black Ark

多作なジャマイカの音楽業界は、数多のプロデューサーやスタジオを擁していた。その数はあまりに多く、才能に溢れていたため、本稿で全てを余りなく伝えることは不可能だ。しかし、キングストンを去る前に、サンディ・ガリーを渡って、ワシントン・ガーデンズに足を踏み入れてみよう。70年代、カーディフ・クレセント5番地には、奇抜な装飾が施され、多くの緑が植えられたバンガローがあり、そこは‘ブラック・アーク’として名を馳せていた。レインフォード・ヒュー・ペリーは60年代、多くの若者と同様に、成功を求めてキングストンへとやって来た。彼はスタジオ・ワンのコクソン・ドットのもとで働き、そして歌った。そして60年代後半には、リー・‘スクラッチ’・ペリーとしてプロデュースを始めた。彼はセッション・プレイヤー軍団、ジ・アップセッターズを率いて「Return Of Django」などのヒットをイギリスで飛ばし、国際的な成功を手にしながらも、他のアーティストのプロデュースも続けた。彼はダイナミックに働き、レコーディングしていたが、常に自分のスタジオとクリエイティヴ・コントロールを求めていた。そして1973年、ブラック・アークが彼の新居に建設された。6年間で、多くの楽曲が制作されたスタジオは熱量が高く、謎も多かったが、レゲエ史上に残る名曲の数々がここでレコーディングされた。リー・‘スクラッチ’・ペリーはアイランド・レコードと契約を結び、スタジオにより多くのお金をかけることができるようになったため、一時期ではあったが、サファラーや敬虔なラスタに創造の場を与えるという彼の夢は叶えられた。リー・‘スクラッチ’・ペリーが織りなす独創的なサイケデリック・レゲエは、このスタジオで生まれたものだ。彼が精神を病んでいった時の伝説や噂話は枚挙に暇がない。仕事量に対するプレッシャーが増し、取り巻きやガンマンたちが彼につきまとった。スタジオも荒廃し、83年には漏電による火事でとうとう全焼する。彼はブラック・アークにXのマークを描いた。そして3日間、ハンマーで地面を叩きながらキングストン界隈を後ろ向きに歩き続けることで、彼から金を巻き上げようと企む人々を追い払った。しかし、リー・‘スクラッチ’・ペリーの類まれな才能が、色褪せることはなかった。彼は80年代にヨーロッパに移住すると、現在はスイスに住んでいる。英国のプロデューサー、エイドリアン・シャーウッド、マッド・プロフェッサーと素晴らしいアルバムを作り、今日に至るまで世界を魅了し続けている。

ジャマイカは素晴らしい音楽を作り続けている。そして現在、ダンスホールやルーツ・レゲエなど、多くのプロデューサーが仕事に精を出している。また、ジャマイカのスタジオと同国ならではの雰囲気は、世界中のアーティストを惹きつけている。スヌープ・ドッグ、デーモン・アルバーン、フローレンス・アンド・ザ・マシーンは皆、ここ数年の間にジャマイカでレコーディングを行った。これからもずっと、レゲエが発展を続けることを祈りたい。

Words and Photos by Pablo Gill

Jammys Studio


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