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レゲエ:ダブの起源、キング・タビーと初のダブ・アルバム

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「キング・タビーは守銭奴じゃない、タビーはダブのオーガナイザー(設立者)だ」
―ディリンジャー(リー・‘スクラッチ’・ペリーの『Blackboard Jungle Dub』LPについて)。

地面に轟く雷鳴のようなリヴァーブ、宇宙的なエコー、度肝を抜かれるディレイに、ハイパスフィルター、これが世界がダブを愛する理由だ。

21世紀、ダブという言葉はリミックス、特にダンス・ミュージックと関連づけられている。モダン・テクノ、グライム、ハウス、ダブステップの楽曲は‘ダブ’・エディット、つまりはリミックスを擁することが多い。この‘ダブ’の起源、発明、発展、そして進化は、現代におけるダンス・ミュージックの大半と同様に、ジャマイカが大きく貢献している。

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‘ダブ’は、60年代後半に起源を辿ることができる。ジャマイカ、特にキングストンのアップタウンのクラブに行くことのできない貧しい人々にとって、サウンド・システムは中心的な娯楽だった。ダウンタウンの‘ローンズ(芝生)’では毎週末、そして平日の夜もほぼ毎日、カリブの星明かりの下で野外ダンス・パーティが行われていた。巨大なスピーカー・ボックスが吊るされ、セレクター(レゲエのDJ)はターンテーブル1台で最新ヒットをかけると、観客を楽しませていた。他では入手不可能なエクスクルーシヴ・チューンやリズムをめぐる競争は激しかったため、ダブの進化における第一段階は、ここからスタートしたと言える。サウンド・システムのオーナーは、1967年頃には、最新ヒットを作った地元のプロデューサーに、人気のリズムを使ったエクスクルーシヴ・‘ヴァージョン’を自分のサウンド・システムのために作ってほしいと依頼しはじめていた。こうした‘ヴァージョン’はインストゥルメンタルで、ヴォーカル・トラックを抜いた楽曲だった。そして、ダンス・ホールでは、スカに代わってロックステディの時代が到来していた。

特に大成功を収めていたヒット・メーカーは、プロデューサーでサウンド・システムのオーナーだったデューク・リードだ。彼はキングストンのダウンタウンにあるボンド・ストリートで家族と酒屋を営んでいたが、その酒屋の上階にトレジャー・アイル・スタジオを作り、そこで活動していた。言い伝えによれば、‘スプリーム・ルーラー・オブ・サウンド’のオーナーで、スパニッシュ・タウン(ジャマイカの元首都。キングストンから10マイル内陸にある)でダンスを主宰していたラドルフ・‘ルディ’・レッドウッドが、デューク・リードに‘ダブ’を依頼したという。当時、‘ダブ’は新曲のアセテート盤で、サウンド・システムのオーナーはこれを自身のダンス・パーティで先行プレイし、プロデューサーにその反応を送っていた。そしてこのフィードバックが、楽曲を公式リリースするか否かを判断する上で欠かせないものとなっていたのだ。ルディ・レッドウッドは、エンジニアのスミシー(バイロン・スミス)が自分のためにアセテート盤を作っている時、スタジオを訪れたという。パラゴンズの「On The Beach」のテープをかけていた時、スミシーは誤ってヴォーカル・トラックをオフにしていた。しかしルディ・レッドウッドは、これに新しさを感じ、ヴォーカルなしでスミシーにアセテート盤を作らせると、パラゴンズの‘ダブ・プレート’を大きな目玉として次のダンス・パーティに持っていった。ルディ・レッドウッドはこう語る。「スパニッシュ・タウンで俺はミスター・ミッドナイトと呼ばれていたんだ。夜中の12時にやって来ると、誰も知らない新曲を15~16曲かけていたからな」(プロデューサーのバニー・リーは、ルディ・レッドウッドのサウンド・システムについて、発売前の新曲をかけることのできる大きなラジオ局にたとえている)。「だから、俺のダンス・パーティは素晴らしかったよ。いいか、俺は人を楽しませるのが大好きなんだ。俺が夜中の12時にやって来ると、ウィキッドって名前のディージェイ(*HIP HOPでいうとMC/ラッパー)が俺を紹介してた。『S-R-S(スプリーム・ルーラー・オブ・サウンド)のミスター・ミッドナイトだ』って。そして俺はプレイを始め、‘On The Beach’をかけると、‘これからこの場をスタジオにするぞ’って言いながら、歌のパートからヴァージョンのパートに切り替えて、サウンドを小さくすると、皆が大合唱さ。俺はすごく嬉しかったし、気分が良かった」。プロデューサーのバニー・リーは、当時の状況をもっと大きく語っている。「5回から10回かけると、最高に盛り上がった。ジャマイカで言うところの、『現場をマッシュアップした』ってヤツだね」。

ルディ・レッドウッドの助言を得ると、デューク・リードは45回転シングルのB面に‘ヴァージョン’を入れるようになった。ほどなくして、プロデューサー、サウンド・システムのオペレーターのほぼ全員が、ルディ・レッドウッドの真似をするようになった。1970年には、大半のB面に‘ヴァージョン’が収録されていた。ダブが進化したのは、サウンド・システムがオリジナル・ミックスを求めたためだが、プロデューサーはそれから更なる実験を開始した。単なるインストゥルメンタル・ミックスの代わりに、ヴォーカルの断片とベース・ラインを少し残す。ドラムのフェイド・インとフェイド・アウトを繰り返しながら、ヴォーカルの断片とベース・ラインを少し残す。こうすることで曲に空間が生まれ、ディージェイが生でアドリブを入れることができるようになったのだ。ダンス・パーティの観客は大いに盛り上がり、‘ヴァージョン’の人気は高まった。70年代初頭、プロデューサーのクランシー・エクルズは、自身が主宰するダイナマイト・レーベルから最初のダブ・ミックス「Phantom」をリリースした。「Phantom」は、ディージェイであったキング・スティッツの「Herb Man」の傑作リミックスである。「Phantom」は、重厚なベース・ラインだけを残したという点で独創的だ。これはリンフォード・‘アンディ・キャップ’・アンダーソンによる仕事で、彼はダイナマイト・スタジオで働いていたエンジニアだった。そして同スタジオは、ダブの歴史において真に重要な役割を果たすのだった。

King-Tubby

キングストンの西側、ウォーターハウス地区のドロミリー・アヴェニューは、電気技師のオズボーン・ラドックスが活動していた場所だ。‘キング・タビー’として世界に知られる彼の‘タビーズ・ホーム・タウン・ハイファイ’は、1972年までにジャマイカ有数のサウンド・システムになっていた。これは、メイン・ディージェイにU・ロイを擁していたことと、キング・タビーの機材が(自家製であるにもかかわらず)高品質だったことによるところが大きい。キング・タビーは自宅の後ろに小さなスタジオを所有しており、ダブを作る機械を持っていた。そしてそこで、自身のサウンド・システム用に10インチのアセテート・‘スペシャル’を作っていた。バニー・リーのお膳立てで、キング・タビーは旧式のMCI 4トラック・ミキシング・ボードをダイナミック・スタジオから購入した。こうして、リミキシング・エンジニアとしてのキング・タビーのキャリアが誕生した。間もなくすると、ジャマイカの大物プロデューサーがこぞってキング・タビーのスタジオにマスターテープを持ち込み、リミックスを依頼するようになった。B面にキング・タビーのダブ・ヴァージョン、‘タビーズ・ドラム・アンド・ベース’が入っていると、新しいレコードのセールスは増えた。おそらく、最初にキング・タビーを勇気づけ、そのスキルを最も活用していたのはバニー・リーだろう。スタジオ・ワン在籍時にインストゥルメンタルで実験していたリー・‘スクラッチ’・ペリーも、自分のスタジオを作るまでキング・タビーを重用した。また、グレン・ブラウン、キース・ハドソン、カールトン・パターソン、ナイニー・ザ・オブザーヴァーといった革新的プロデューサーも、キング・タビーのいる西キングストンまで足を運んだ。

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ミキシング・デスクがキング・タビーの楽器となった。電気技師としてのスキルを持っていた彼は、全ての機材をカスタマイズすることができた。特筆すべきは、彼がミキシング・コンソールのフェイダーをよりスムーズに動くようにしたことだ。これは、4トラックしかレコーディングできないスタジオがフィーリングやヴァイブを作り出す上で大きな助けとなった。プリンス(後のキング)・ジャミーがかつてこう語ったことがある。「俺たちが使っていたのは、4つのコントロール、4つのスライド(フェイダー)だけだ。ボタンよりもスライドを使った方が、ミックスしやすかった。今は24トラックのコンソールでミックスするから、ボタンでミックスするだろ。でも、音楽は素早くミックスしなきゃいけない。インストゥルメンタルの大半は、既に1トラックでミックスされていた。だから、リズム・トラックを出すと、ホーン、ギター、ピアノ、オルガンが出てくるから、ミックスしやすかったし、より速くミックスできた。だから当時のダブは素晴らしかったんだ」。テープ・ディレイ、エコー・リヴァーブを作ったキング・タビーの画期的手法は、見事なダブの質感と音風景を作り出した。彼が繰り出した毎分168回のエコーは、200フィート離れてそびえ立つ2つの山の間で跳ね返るエコーと比較されてきた。このエコーにちょうど良い強度がミックスされ、「目がくらむほど頭に血が上るように」サウンドが頭に残る。これだけでは足りない場合、彼のリヴァーブは遠方の大砲や銃声を取り入れた(悲しいことに、キングストンのダウンタウンに住む人々には、非常に聴きなれた音だ)。キング・タビーのダブは見事としか言いようがなく、時代を越えて生き残るだろう。

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1973年になると、ダブだけを収録した初のアルバムがリリースされた。ダブの歴史同様に、初のダブ・アルバムについても、意見が分かれている。リー・‘スクラッチ’・ペリーとキング・タビーは今聴いても見事な『Blackboard Jungle Dub』、別名『Upsetters 14 Dub Black Board Jungle』(初回プレス300枚にはこちらの名前が使われている)をミックスした。このアルバムは、ステレオでミックスされた点が、ユニークである。リズム・トラックに1チャンネル、パーカッションとソロ・インストゥルメントに1チャンネルで、それがフェイド・イン、フェイド・アウトを繰り返す。1973年初頭にリリースされたハーマン・チン・ロイの『Aquarius Dub』も、初のダブ・アルバム候補の1枚だ。同アルバムのタイトルは、彼が所有していたキングストンのアップタウンにあるレコード店にちなんでいた。ハーフ・ウェイ・トゥリー地域にあるこのレコード店で、ハーマンはダブの伝説的人物、オーガスタス・パブロのメロディカの才能を見いだし、パブロをダウンタウンのランディーズ・スタジオに連れて行った。『Aquarius Cub』には、パブロの「East Of The River Nile」と「Cassava Piece」のごく初期ヴァージョンも収録されている。なお、「Cassava Piece」は後にタブとなり、歴史的クラシック「King Tubbys Meets Rockers Uptown」となった。

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1973年に戻ろう。初のダブ・アルバム3番目の候補も、オーガスタス・パブロをフィーチャーしている。パブロがプロデューサー、クライヴ・チンのためにレコーディングした最初のヒットにちなんで名づけられたアルバム『Java Java, Java, Java』は、チンが所有するランディーズ・スタジオでレコーディングされた。エンジニアを務めたのはエロル・E.T.・トンプソン。彼もダブのパイオニアだ。スライドを使っていたキング・タビーとは異なり、エロル・E.T.トンプソンはリズム・トラックのカット・イン、カット・アウトをする際に、ミキシング・ボードのボタンを押さなければならなかった。スライドに比べてミキシングは滑らかではなかったかもしれないが、彼はテープを巻き戻し、ヴォーカルの速度を落とすといった実験も取り入れた。『Java Dub』 アルバムの‘ET Special’は、見習いエンジニアが曲のミックスを試みながら、ドラム・アンド・ベースのレッスンを学んでいるかのように、‘ダビング’をユーモラスかつ見事に解釈している。見過ごされがちな4番目の候補は『The Message — Dub Wise』で、これはスカとロックステディにおける伝説的人物、プリンス・バスターのアレンジ/プロデュース作である。このアルバムはダイナミックスでレコーディングされ、カールトン・リーによってミックスされたとされている。神秘的なフルート演奏に加え、アップスターズ/ザ・ウェイラーズで名を成したアストン・‘ファミリーマン’・バレットのベースと、弟のカールトン・バレットのドラムのほか、‘ビッグ・ユース’として知られる新進気鋭の‘トースター’、マンレー・オーガスタス・ブキャナンをフィーチャーしている。

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『The Message — Dub Wise』オリジナル盤のスリーヴ・ノーツには、「未加工で、純粋で、本物で、薄められていないジャマイカのリズムは、ジャマイカの人々のフィーリングを表現している」と記されている。この言葉は、ダブを完璧に表現している!どの作品が初のダブ・アルバムであろうと、どの作品も多くのアーティストに道を開き、ダブの黄金時代とその進化の先駆けとなったのだ。

Words and original photos Pablo Gill.


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