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ラウドな人生(パート2):メタル・インヴェイジョン - アメリカはいかにして征服されたか

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80年代初期へヴィ・メタルが総じて強烈な伝説を作った一方、80年代の残りの年月で、このジャンルにおけるセンセーショナルな論争が世間の注目を浴びるようになっていった。ジューダス・プリーストの成功と誰にも止められない勢いのアイアン・メイデンのお陰で、ニュー・ウェイヴ・オブ・ブリティッシュ・ヘヴィ・メタル(NWOBHM)は、楔で固定されていたアメリカのドアを開け放ちディスコの名残が一気に薄らぎ、最後の生き残り部隊は、親達を心底怯えさせたデニムを纏ったはみ出し者軍団に撃破されようとしていた。

そうして水門が解放され、イギリスのバンド達は北米に狙いを定め、モーターヘッド、オジー・オズボーン、ジューダス・プリーストやアイアン・メイデンの足跡を辿ろうとした。その国土の広大さのお陰で、バンドは何カ月にも渡ってツアーし、安定した足場を築き、故郷のイギリスで起こっている音楽革命についての評判を広めることが出来た。

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ブラック・サバスから離れたオジー・オズボーンは、1980年にデビュー・ソロ・アルバム『Blizzard Of Ozz(邦題:ブリザード・オブ・オズ~血塗られた英雄伝説)』をリリース。アメリカで大成功を収め、イギリスのサウンドを渇望するヘヴィ・メタル・ファン達による豊かな市場があることを証明した。アメリカのアーティストでこれに最も近いのがZZトップ、KISS、テッド・ニュージェント、エアロスミスアリス・クーパーヴァン・ヘイレン等のハード・ロックであり、70年代後半から80年代前半に掛けて驚異的なアルバム売り上げを記録していた。しかし彼等の音楽の多くは、もっと屈託のない冗談がまじりあっており、従って(オジー・オズボーンは)アメリカ本土のオーディエンスがこれまで目の当たりにしたことのない”本気”のものだった。こうして無防備だったアメリカ・シーンが完全に変えられようとしていた。

伝説的メタル・バンドがアメリカを征服し始めようとしていた頃、膨大な数のハード・ロック・ファンを禁門から素晴らしきへヴィ・メタル・ワールドへと導き入れたのは、オーストラリア出身のバンドAC/DCだった。人を酔わせるようなエネルギーに溢れたそのライヴの噂はすぐに広まり、同時にサクソンやモーターヘッド等イギリス・バンドのレアなブートレグ映像が出現したことにより、ヨーロッパのオーディエンスは大いに盛り上がり、メタル・ワールドはより一層活気づいた。派手な色彩とマンガのようなおどけた態度のヴァン・ヘイレンやKISSは、どうにも太刀打ちできなかった。人々はより重く速くでラウドで、もっと中身と根性のあるものを求めていた。

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より原始的で攻撃的で速いNWOBHMに影響を受けたアメリカン・ハード・ロックは、程なくして急進的なスタイルの分裂を経て、グラム(あるいは“ヘア”・)メタルや、その後にはその悪い兄弟となるスラッシュ・メタル等サブジャンルが誕生した。

コミュニケーションの劇的な変化もまたこのシーンの成長に一役買った。ケーブルと衛星チャンネルの出現により、アメリカとイギリスの両国はそれぞれの音楽をより幅広いオーディエンスへ輸出することが可能になり、その結果、英米のへヴィ・メタル・シーンで大西洋を横断する挑戦が盛んになった。無数の専門ラジオ番組とライフスタイル雑誌もまた、この活気溢れる新しい音楽を寝室や学校のカフェテリアへ持ち込んだ。1981年6月6日、イギリスの出版物Kerrang!が初の週刊へヴィ・メタル&ハード・ロック誌として創刊され、フィンランド(ハノイ・ロックス)、ドイツ(アクセプト)、カナダ(アンヴィル)、イタリア(デス・SS)、そして日本(ラウドネス)等、遠くの国々から激増する新バンドを掲載した。

アメリカでは、ハード・ロックのスタイルはその地理的起源によってカテゴライズされており、彼らの取り組み方は東海岸と西海岸では著しく異なることが明白になっていた。ニューヨークの先頭に立っていたのは、腰巻を巻いた戦士達マノウォーだった。ヘヴィな砲撃のようなリフと幻想的な歌詞に駆られた、彼等の1982年のデビュー作『Battle Hymns(邦題:地獄の鎮魂歌)』は、世界中で多くの支持者を得た。

東海岸のサウンドは、ロサンゼルスで人気上昇中だったセックス&ドラッグやメチャクチャにいい時間をすごせるヘア・メタル・サウンドより気骨があった。そんな中グラムの要素は当時も東海岸に浸透しており、それを形にしたのが、1981年にセルフ・タイトル・デビュー作をリリースしたキックスだった。しかし、一般に、イースト・コースト・メタルの典型といったら、1981年に3作目『Fire Down Under』を発表したニューヨークを拠点とするライオットと、ニューハンプシャー州生まれの元レインボー/ブラック・サバスのヴォーカリストで、1983年にアルバム『Holy Diver(邦題:情念の炎~ホーリィ・ダイヴァー)』で自らのバンドのディオをスタートさせた、今は亡きロニー・ジェイムス・ディオだった。

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まさに環境の産物、東海岸アーティストはミスフィッツ、ラモーンズ、ニューヨーク・ドールズ等の初期アメリカン・パンク・グループから影響を受けていた。しかし、西海岸のメタルからは、ロサンゼルスのウィスキーに濡れたサンセット・ストリップの精神に満ち、悪名高い厄介者のモトリー・クルー(デビュー作『Too Fast For Love(邦題:華麗なる激情)』が1981年に発売された)や、1984年の『Out Of The Cellar(邦題:情欲の炎)』で一躍有名になったラット等、スパンデックスを着てプードルのような髪型をしたロッカーが数え切れないほど誕生した。

同じくロサンゼルス出身のヴァン・ヘイレンとドッケンは瞬く間に世界的スターになっていったが、デフ・レパードの『High`n`Dry』(1981)と、1982年に立て続けに発表された3作品、アイアン・メイデンの『The Number Of The Beast(邦題:魔力の刻印)』、ジューダス・プリーストの『Screaming For Vengeance(邦題:復讐の叫び)』、そしてモーターヘッドの『Iron Fist』が全て全米チャート入りし、イギリス人アーティストが引き続きひとり勝ちの状況にあった。更にドイツ出身のスコーピオンズの『Blackout』(これまた1982年)もここに続き全米トップ10入りを果たした。

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メタルのアルバムとして初めて全米チャートで1位に輝き、ヘヴィ・メタルの爆発的人気の音頭を取ったヘア・メタル・アルバムは、クワイエット・ライオットが1983年にリリースしたデビュー作『Mental Health(邦題:メタル・ヘルス~ランディ・ローズに捧ぐ~)』だった(*訳注:日本ではこの前に2作のアルバムをリリースしている)。物凄い数のバンドが後に続き、アメリカとこのジャンルの蜜月関係は、1983年のレイバー・デイ(労働者の日)の週末、カリフォルニア州サン・バーナディーノで開催された今や伝説となった“USフェスティバル”で、強固なものとなった。アップルの共同創設者スティーヴ・ウォズニアックが考案し、テレビ放映されたこのイべントは、音楽とテクノロジーの両者にスポットライトを当てるという計画の元、クワイエット・ライオット、モトリー・クルー、オジー・オズボーン、ジューダス・プリースト、トライアンフ、スコーピオンズ、そしてヴァン・ヘイレン等へヴィ級アーティストが出演し、その画期的なパフォーマンスにより、それぞれの音楽に対してのみならず、メタル・シーン全体のアルバム・セールス及びメディアの注目が急増した。

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80年代半ばまでには、ロサンゼルスの悪名高きグラム・メタル・ムーヴメントが盛りを迎え、その頃には時代遅れになっていたクラシック・ロック・アーティストに大きな影を落とした。ロンドン、モトリー・クルー、ラット、W.A.S.P.、グレイト・ホワイト、L.A.ガンズ、ボン・ジョヴィ等無数のアーティストが、ザ・トリップ、ウイスキー・ア・ゴーゴー、ザ・スターウッド・クラブ等サンセット・ストリップにある会場を夜ごと満杯にした。

アメリカのバンド達は、イギリスとヨーロッパのトレンドを注意深く見守りながら、メタルを取り込みつつそれを自分達のものにし、革新的なアルバムをリリースしながら、スタイルとそのアプローチの限界に挑んでいった。モトリー・クルーの『Shout At The Devil』(1983年)とW.A.S.P.の1984年発表セルフ・タイトル・デビュー作では、音楽により邪悪な要素を持ち込み、よりダークな事柄を扱い、レザーやスパイクで身を固め、シアトリカルなメイクアップを施したバンド・メンバーが登場するアルバム・カヴァーで挑んできた。

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80年代グラム・メタルに衝撃的な要素が導入されたにも拘わらず、10年以上前の60年代後半に、ブラック・サバスがサイケデリック・ヒッピー時代から出現した時のように、分裂が生じた。グラム・メタルには熱心なファンがいたが、イギリスとヨーロッパから来た音楽は、間違いなく本能に訴えるものを圧倒的に多く持っていた。

より幅広いメタルがメインストリームから受け入れられるようになっていた一方、イギリスを拠点とする先駆者である3人組のヴェノムは、素晴らしくゾッとするようなデビュー作『Welcome To Hell』(1981年)とその後に続く『Black Metal』(1982年)で、小さな、しかし最終的には遠くへ届く波を生んでいた。モーターヘッドのスピードとブラック・サバスの神秘的な雰囲気を組み合わせたヴェノムは、手加減なしで自分達の内なるサタンを大衆に向けて解き放ち、その度を超えた歌詞や、宗教、政治、社会統合の左翼的考えで、観客とメディアを怖がらせ困惑させた。

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彼等のサウンドは非常に原始的で、その取り組み方は、デフ・レパードやスコーピオンズ等の巧妙なプロダクションに比べ、まるでネアンデルタール人を思わせるようなものだった。しかしこの遺伝子は、この後ノルウェーとスウェーデンの霜害を受けたブラック・フォレスト(黒い森)から出現することになる、ダークで不穏な、メタルの極端な形態であるサブジャンルのブラック・メタル(ヴェノムの2作目の名でもある)の青写真そのものだった。

しかしアイアン・メイデン等、受け入れられ易いメインストリーム・メタルもまた健在だった。1983年の驚異的なアルバム『Piece Of Mind(邦題:頭脳改革)』により、アメリカのライヴ会場は連夜ソールドアウトになっていた。アメリカのアーティストが大股で闊歩する中、イギリスからの派遣団はその当時もヘヴィ・メタルの典型と見なされ、パロディックなグラム・シーンが大きくなりつつあると、NWOBHMの影響を感じられるような新人バンドが登場し始めていた。

盛り上がりを見せるハードコア・パンク・ムーヴメントと同時に、マイナー・スレットやブラック・フラッグ等、ワシントンDCに拠点を置くディスコード・レコード所属アーティスト達が先頭に立ち、新しく、よりヘヴィなメタルがクラブから出現しつつあり、その後まもなくメタル・ワールドを完全に変えることになる。ロサンゼルス、サンフランシスコとニューヨークの中流階級地区とスケートパークから誕生したスラッシュ・メタルは、その遥かにアグレッシヴで早いアプローチのパフォーマンスでさざ波を起こし、それは汗まみれの地元クラブからやがて世界中へと広がっていった。NWOBHM、パンク、ハードコアのジャンルの要素と、ヴェノムのエクストリーム・サウンドを融合させたスラッシュ・メタルだが、記録によるとその始まりは、主に郊外のアンダーグラウンド・ムーヴメントだとされており、それは驚くべき早さで勢いを増し、幅広い層に人気を集めていった。

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1981年に全体の口火を切ったのは、ふたりの人物、若きデンマーク人ドラマーで自ら認めるヘヴィ・メタル・マニアのラーズ・ウルリッヒと新進気鋭のギタリスト、ジェイムズ・ヘットフィールドだった。ふたりは出会い、へヴィ・メタル全般に対する思いで意気投合し、一緒に曲作りに取り組み始め、それはやがてメタリカの誕生に繋がる。その後、世界的に史上最も重要なメタル・ムーヴメントが起こる。

今では悪名高きデモ『No Life `Til Leather』で、メタリカは世界のテープ・トレーディング・コミュニティの間で非常に注目され、かつてないような新しいサウンドを作り上げたのは明らかだった。容赦ない複雑なギター・リフの嵐に、ダブル・キック・ドラムスと爆発的なコーラスが絡み合い、目にも留まらぬ速さと正確さで、メタリカの音楽はサブジャンルであるスラッシュ・メタルの主力形式となった。

バンドのオリジナル・ラインナップにはデイヴ・ムステインという人物がいた。若き先駆者的ギタリストだったが、デビュー・アルバムをリリースする前にグループを離れてしまった。しかしながら、彼は、メタリカとの決別を受けて、メガデスを結成、同じようにアイコニックなこのスラッシュ・バンドで、これまでレコーディングされた中で技術的に最も衝撃的なギター・ワークの幾つかを生んだ。

1983年にアイコニックなレーベル、メガフォースからリリースされたメタリカのデビュー・アルバム『Kill `Em All(発表時の邦題:血染めの鉄槌(ハンマー))』は、スラッシュ・メタル第一波の十字軍の先頭に立ち、へヴィ・メタルの歴史書のひとつとなるリリースだった。スパンデックスとプードル髪を、デニムとハイカット・コンヴァースという都会風の装いに取り換えたスラッシュ・メタル・グループは、ファンが育った環境を反映させ、関連付けしやすい社会的意識の高い歌詞に取り組んだ。

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僅か1年足らずで、スラッシュ・メタルはメタル・ワールドをしっかり掴み、新しく刺激的なバンドの多くがサンフランシスコ、ロサンゼルス、ニューヨークから登場した。スレイヤーの『Show No Mercy』、マーシフル・フェイトの『Melissa』(どちらも1984年)、アンスラックスの『Fistful Of Metal』(1984年)、メガデスの『Killing Is My Business… And Business Is Good!』、オーヴァーキルの『Feel The Fire』(どちらも1985年)、ニュークリア・アソルトの『Game Over』(1986年)、そしてテスタメントの『The Legacy』(1987年)等、10年に渡り画期的なアルバム・リリースが尽きることはなかった。

その頃になると、メタル・ハマー、メタル・フォース、そしてイメージ・チェンジしたヒット・パレーダー等、スラッシュ・メタルの美徳を讃える出版物が新たにKerrang!の仲間入りをし、ソドム、クリーター、デストラクション(ドイツ)、モータル・シン(オーストラリア)、アナイアレイター(カナダ)、ゼントリックスとサバト(イギリス)、セパルトゥラ(ブラジル)等数多くのバンドが結成されたため、音楽は瞬く間に世界中へと広がっていった。

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スラッシュ・メタル・ジャンルで商業的に最も成功した4つのバンドは、“四天王”と呼ばれた。1985年から86年にかけて彼等がリリースした最も画期的な作品、メタリカの『Master Of Puppets(邦題:メタル・マスター)』、アンスラックスの『Among The Living』、スレイヤーの『Reign In Blood』、メガデスの『Peace Sells… But Who’s Buying?』は、スラッシュ・メタルが、まもなく他のメタル・ジャンルを牛耳ることになる獰猛な新獣に変わっていく時期を記録した、今もなおジャンル最良の瞬間だった。

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80年代にはメタルが定着したことが証明された。アルバムが数百万単位で売れ、かつてのけ者扱いされていたこの音楽的ムーヴメントは、世界中のメインストリーム・チャートを這い上がるようになり、へヴィ・メタルという剣で生き、剣に死ぬ膨大な数の忠実な音楽ファンを集めた。

スラッシュ・メタルは、オルタナティヴからインダストリアル・メタルまで無数の分派に門を開きながら、景観を永遠に変えてしまったが、そんな中で危険を冒し遥か国境の向こう側、地獄の暗黒の縁まで突き進んだメタル・ジャンルが生まれることになる。その先に待ち受けていたのは、不吉で、醜く、不穏で、アンダーグランドから上昇し、足をバタバタさせ泣き喚くこのジャンルを引きずりながら、冥界の炎へと向かった新種だった。

Written By Oran O’Beirne


デフ・レパード『ヒステリア 30周年記念スーパー・デラックス・エディション』2017年8月11日発売!

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大英帝国が生んだモンスター・ロック・バンド、デフ・レパードの4作目『ヒステリア』が30周年記念スーパー・デラックス盤として登場!

※日本盤販売終了
【輸入盤】はこちら

 


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